2-63

四天王 仏師の休日

 崇峻天皇のころ、蘇我氏による物部氏討伐に加わった厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)は、味方が負けるかもしれないと思い急いで四天王の木像を造り、自分を勝たせてくださったら必ず護世四王のために寺塔を建てましょう、と祈りました。以来、四天王は日本人に広く信仰されてきました。


 古刹名刹を巡り出会った幾多の仏様の姿を思い浮かべ、ほとんど直感で書いている仏像記の最終回は、天(天部)のなかから四天王を選びました。天のグループには如来にも菩薩にも明王にも属さない、そのほかのすべての仏様が入ります。天もまた明王がそうであったように仏教が生み出したオリジナルではない、異教の神などを仏教が取り込んだ外様の仏様でした。

 如来・菩薩・明王が人々の前に現れる動機は悟りへの導き、それは慈悲による救いでしたが、天は悟りを言わず現世利益に徹します。天は如来などの眷属となります。阿修羅もそのメンバーである天竜八部衆は釈迦如来の、八部衆に増員したような二十八部衆は千手観音菩薩の、制多迦童子ら八大童子は不動明王の、善財童子は仲間の3人と獅子に乗って海を渡る文殊菩薩の、そして十二神将薬師如来の眷属です。眷属にはならない天もいます。梵天・帝釈天・四天王は守護神で、吉祥天・弁財天(弁天)・伎芸天・鬼子母神(可利帝母)は繁栄や芸術を司る女性神です。お寺の門を守る金剛力士(仁王)も天の一員ですが、明王に含まれるという説もあるようです。
 天はその性格から個性的な姿で相好の縛りは緩かったから、彫像もまた自由に自己主張していて、観る方としては甚だ楽しめるグループです。制作者にとってもきっとそれは同じで、如来像や菩薩像は気を張って造っても、天部像の制作は自分の個性と創造性を思うがまま表現できる楽しみだったに違いありません。

 そんな自由な造形表現が許されていた天部像のなかで、四天王像はすべての時代を通して数多く造られていて、今日まで残る古い時代の像も多く、時代毎の様式の変遷をしっかり追うことができる仏像です。それはうつろう時代の気分の記憶でした。
 四天王は帝釈天が宮殿を構える須弥山(しゅみせん)の中腹で四方の門を守っています。それで仏様が載っている須弥壇の四隅に置かれることになりました。名前と担当する方角は持国天が東、増長天が南、広目天が西、多聞天が北です。多聞天は毘沙門天として単体で祀られることもよくあります。
 現存する日本最古の四天王像は飛鳥時代に造られた奈良斑鳩法隆寺金堂の木像です。以下古い順に国宝級の四天王像の代表例を挙げれば、白鳳時代では奈良当麻寺金堂の脱乾漆像、天平時代では奈良東大寺戒壇堂の塑像と同じく三月堂の脱乾漆像、貞観時代では奈良興福寺東金堂の木像と同じく北円堂の木像および京都東寺講堂の木像、藤原時代では京都当尾浄瑠璃寺本堂の木像、鎌倉時代では奈良興福寺中金堂の木像となります。
 これらの四天王像をちょっと詳しく見てみます。ついでにその表情や構えから守護神としての態勢のレベルを、米空軍が使うデフコン(Defense Readiness Condition 防衛準備態勢)と自分で考えた戦闘モードで表してみようと思います。

 法隆寺金堂の飛鳥四天王像は直立不動のこけしのような姿で忿怒相でもありませんが全体にどこか威厳を感じさせます。防衛態勢は一番下のデフコン5(呼び名はフェイドアウト)で、戦闘モードは平時モードといった雰囲気です。

 当麻寺金堂の白鳳四天王像はやはり直立不動ですが穏やかな忿怒相で西域風の髭を生やしています。準備態勢をとるデフコン4(ダブルテイク)で、緊張度はまだ低いからモードは静観モードです。

 東大寺の戒壇堂と三月堂の天平四天王像は四肢に動きがあり忿怒の表情も豊かです。戒壇堂像は名作中の名作で、特に広目天の鋭い眼差しは人の心を見据えます。イケメンとよく言われますが、そんな形而下の印象より形而上学的四天王と言った方が似合います。より高度な準備態勢のデフコン3(ラウンドハウス)です。モードは威嚇モードがいいでしょう。
 一方、三月堂像は4メートル近い巨大な張り子(脱乾漆像)で、近づいてみれば覆いかぶさってくるようで空気が辺りを威圧しています。こちらもデフコン3で威嚇モードです。

 興福寺の東金堂と北円堂の貞観四天王像はどちらも冗談かと思うほどのデフォルメで表情も仕草も滑稽でカッコよさはありませんが全身に力が漲(みなぎ)る傑作四天王像です。平安初期は余裕があったのか、人々はどうもユーモア好きだったみたいです。これも態勢はデフコン3でしょう。挑発しているようにも、からかっているようにも見えるから、おちょくりモードです。

 東寺講堂の四天王像も貞観仏ですがユーモアは微塵もなく、いかにも密教仏らしい迫りくるような厳しい姿です。特に持国天像はその怒りの表情と一分の隙もない構えが、すべての四天王像の頂点にある最高傑作です。態勢は一触即発、緊張が最も高まった状態のデフコン2(ファーストフェイス)で準戦時態勢だから臨戦モードです。(ちなみにデフコン1(コックドピストル)は国家総力戦態勢ですが実際に発令されたことはないようです。)

 浄瑠璃寺の藤原四天王像は名作ですが、ぼくの印象は雅で嫌味でまったく好きになれません。訓練もせずいつも礼装を着用し社交パーティーに明け暮れる貴族出身の将校といった感じです。デフコン5、平和ボケモードです。

 去年再建されたばかりの興福寺の中金堂に安置されている鎌倉四天王像は、戦闘経験豊富な鎌倉武士そのもののような四天王像です。鎌倉武士と聞いてすぐに頭に思い浮かぶのは、能「鉢木(はちのき)」の佐野源左衛門常世に象徴される「いざ鎌倉」でしょう。つまり鎌倉武士はいつでも召集に応じられる即応態勢にあったわけですが、ではデフコン2かというと、平時から有事への態勢移行が素早いということだからデフコン4でもないデフコン5で、平時にも戦時の心構えを保つ常在戦場モードといったところです。この四天王像の表情もまたそんな感じで、刹那的な怒りの感情は見られずむしろ落ち着いていて、あるいは戦とは何であるかをよく知っているような顔にも見えます。
 この四天王像は中金堂に安置される前は南円堂に置かれていました。南円堂にあったころは康慶(運慶の父親)の作と言われていましたが、中金堂に移された際の調査で運慶作と認定されました。木材が北円堂の弥勒如来像や世親・無著像と同じ桂材だったことが決め手になりました。弥勒如来像などと一緒にセットで造られ、元は北円堂にあったのが何かの理由で南円堂に移されたんだろうというのです。
 いずれにしても仏像としての完成度が極めて高い名作ですが、彫刻としてのまとまりがよすぎるのかカッコよすぎるのか、ぼくは逆にちょっと物足りない気もしています。個人的の好みとしては、渋い顔をした唐招提寺金堂や太造りの大安寺収蔵庫の天平四天王像の方がおもしろく思えて好きかもしれません。


 仏師は職人で法師でしたが、素材に向き合えばアーチストだったから、自分が呼吸する時代の空気、すなわちその時代の気分を感じるままに仏像という彫塑で表現していたんだと思います。それには儀軌が厳しい如来像などではどうしても限定的になるので、やはり自由に思いのままに造れる天部像、それも信仰の対象として流行り廃りがなく制作数が多くて群像として造る四天王像が最適でした。制作には職人ではなく彫刻家として臨んでいたのなら、それが"自由で思いのまま"だったという意味で、それはお仕事ではない"休日の趣味"のような感覚だったんじゃないのかなという気がします。和辻哲郎も亀井勝一郎も無視した四天王像の魅力を、ぼくはこんな風に感じています。(2019年9月5日 メキラ・シンエモン)




 ホーム 目次 前のページ 次のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。