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新薬師寺の薬師如来像と十二神将像

 和辻哲郎の「古寺巡礼」と亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」、戦前に書かれたこの二冊は、ぼくが高校生のころは奈良の古刹を巡る人たちの間ではまだよく読まれていて、ぼくもこの二冊によって大いに旅情をかき立てられ・・・と言えば、文学青年だった多感な青春期を思い出して語っているようでカッコイイのですが、そうはいかないんです。古刹巡りに憧れてはいましたが、多感であったかどうかはともかく、まず、文学青年ではなかったし、この二冊には知的にも感覚的にもよくわからないところがあって、夢中になって読んだということはありませんでした。それにこの二冊に登場するのは如来像や菩薩像などのきれいな仏像ばかりで、当時も今もぼくがおもしろいと思って観る異形の明王像や天部像は出てこないので、読んで興味をそそられることはなかったんです。今回、引用するため酸性紙のページが茶色に変色してしまったこの二冊を、車庫の二階から探し出し埃を払って部分的に読み返しました。

 東大寺戒壇堂のあと、ぼくとミキオ君は新薬師寺へまわりました。ミキオ君というのは例の友人です。

新薬師寺
 訪ねるのは戒壇堂同様に35年ぶりです。戒壇堂からは少し離れていますが歩くことにしました。東大寺の南大門からまっすぐ南へ、昔歩いた道を今日も歩きます。飛火野というお弁当を広げたくなるような小さな野原を左に見て、右に見えている浮見堂が後ろに遠ざかるあたりからは、緩やかに下ってきた道が登りに転じます。住宅街に出たところで信号を左へ入るとまた緩やかな登り坂ですが、どうも記憶と違う。「山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れかけた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が・・・(亀井勝一郎 大和古寺風物誌 新潮文庫)」とか「道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥が続いている(和辻哲郎 古寺巡禮 岩波書店刊)」という情景の雰囲気が、あのときはまだ感じられた道だったように思うのですが、今歩いている道は幅が広くレンガか何かを敷き詰めた歩道まであって、春日山を背景に近頃風の家が両側に並び、郊外というより町から少し離れた新興住宅地みたいな景観です。
 変わったんだなと思いながら登っていき、そろそろ近いはずなんだけどと思いはじめたとき、右の路地から突然二三人の外国人観光客が現れ、見れば新薬師寺と書いた看板があります。ああこっちか、とその細い道を登っていくと左に崩れかかった築地です。ああ、これは・・・、するとさっき来た道は昔歩いた道がきれいになったのではなく、違う道だったのかなと思いながらさらに行くと、広見になった突き当りの右に南門がありました。途中、東門と本堂の屋根が右に見えていたはずですが気が付いていません。たどり着いたときの、こんなところに、という印象は昔と同じでした。

薬師如来像
 本堂は素朴ながら屋根のこう配が美しく、現存する数少ない天平建築のひとつだといいますが、本来の本堂ではなく元はなんに使われていたのかよくわからないお堂だそうです。ちいさな門を入ると目の前にいきなり現れるこの建物は、ぼくらを一気に天平の世界に連れて行ってくれます。
 本尊はもちろん薬師如来像で平安初期の作だそうです。眉、目、髭、唇以外は彩色がほどこされていないというから、当時の姿に近いのかもしれません。ぼくはこの薬師如来像が気に入っています。美男ではないけれど、がっしりした体とはっきり開いた大きな目が力強く堂々として、正面から見ると施無畏印の右手が微妙な角度で外側に傾き、いらっしゃい、と言って手をあげているようで、どこかひょうきんです。
 どうだい堂々とした丈六の薬師如来じゃないか、大きな目がいいねぇ、とミキオ君に話しかけると、ほんとだ、じょうろくってなんですか、と訊いてきて、そうかまだ知らなかったのかと思い、立ち姿での高さが一丈六尺、5メートルくらいになるというサイズのことだよ、と教えました。

十二神将像
新薬師寺近くの築地 薬師如来像のあるところ十二神将像ありですが、ここには本尊を囲んでずらり等身大の立派な像が円形の須弥壇に並んでいます。天平時代の塑像で日本最古で最大の十二神将像だそうですが創建時のものではなく、被災のあと別のお寺から持ってきたものだといいます。つまり本尊と眷属は制作年代も素材も異なる、予定していなかった組み合わせなのですが、これがなぜか妙にしっくりきていて、脇侍を欠いているのがむしろ自然に見えます。
 さて、この十二神将像は仏像ファンの間では人気者ですが、どうしても同時代で同素材しかも同工房の作かともいわれる戒壇堂の四天王像と比較されてしまい損をしています。作者の造形感覚が劣るとか体勢が破綻していると言われることもあるようです。亀井勝一郎さんなんてグロテスクとまで書いています。それはあまりに言い過ぎでむしろゆがんだ感覚ですが、よく見てみればちょっと変だなと思えるところはあるんです。ミキオ君にそのことを話すと、ほんとだ、これは首がない、こっちは目が寄っている、あれは顔の傾きが不自然だ、向こうは姿勢がぎこちないと次々に判定をくだしていました。ぼくがなにか言うたびに、ほんとだ、と答えるところが素直です。
 しかしこれは人体彫刻として見るからそうなるのであって、群像のバリエーションとして見るなら実におもしろい。なんとかして一体一体に変化をつけようとして、手を挙げたり腰に当てたり、首をかしげたりうつむいたり、睨んで見せたり凄んで見せたり、ただ立っているだけというものあって、それがたとえ不自然だろうが破綻していようが誇張が過ぎようが、四苦八苦しながらも楽しんで作ったに違いないと思えて、観ている方も楽しくなります。やはり国宝ですよ。

CG十二神将像
 ところで、戒壇堂の四天王像同様にこの十二神将像も完成時には目に鮮やかな彩色が施されていたはずで、CGによるその復元画像が堂内に展示してあります。それを見てみるとあまり感心しません。きれいすぎておもちゃみたいに見える。派手な色彩が弱々しく見えて武将にふさわしくないと思う。いや、それもあるでしょうが、やはり古色蒼然とした仏像を見慣れていて荒廃の美を求めてしまうからでしょう。天平人と美意識は共有していない証拠です。
 翻って完成時の十二神将像12体がずらり並んでいるところを想像してみます。諸仏を最新の舶来文化の人気キャラクターだったとするなら、仏像は原寸大のフィギュアです。如来像は最上位の仏様で容姿の表現にも厳格な規定がありますが、菩薩像以下の諸像についてはそれが緩くて、特に天部像になると表現の制限も限定的で自由に造形彩色が試みられていたから、見る方も好きなように観照批評ができたはずです。新薬師寺の十二神将像はその異様さと群像としての面白さで、きっと人気が高かったでしょう。
 こんな話、和辻哲郎さんや亀井勝一郎さんは絶対に否定するでしょうね。會津八一さんが聞いたらなんと言うでしょう。(新薬師寺の境内には、盗難に遭い今も行方不明の香薬師と呼ばれている薬師如来像を詠んだ會津八一の歌碑があります。)


 帰りは来た道ではなくて別の道を戻りました。すぐ裏手にある「入江泰吉記念奈良市写真美術館」の前を通り過ぎ、両側に家屋が密集している細い道を行きましたが、やはり前に来たときの道とは思えませんでした。記憶が間違っているのか、あるいは影響を受けていないはずの本の記述が、実体験の記憶に紛れ込んでいるのに気づいていないのかも知れません。(2016年6月8日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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