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興福寺の阿修羅像と板彫十二神将像

 ぼくが最初に出会った仏像は17歳の夏の終わりに平泉中尊寺の経蔵で見た文殊菩薩像でした。獅子に載り眷属を従えて海を渡ってくる姿を見て、こんな仏さんがいるのかと衝撃を受けました。そのあと仏像を知るために初めて買った本が保育社カラーブックスデラックス版の「仏像」で、写真は入江泰吉さんでした。
 ぼくは何の知識もなく実物を見て興味をそそられ、それから写真で多くの仏像を知るようになったのですが、仏像鑑賞のきっかけは実物を見る前に写真を見たことだったという人も多いんじゃないかと思います。
 仏像の美しさを写真に収めようと、顔や手などをクローズアップで撮ることをはじめたのは歌人で美術史家だった會津八一さんで、のちに飛鳥園を創業することになる写真家の小川晴暘さんを起用して室生寺の諸仏を撮影したのが最初だったそうです。會津八一さんは実物にあたることを重視する「実学」を提唱し、理屈を言わずに奈良に行け、と常々言っていたといいます。写真で見せるなんて矛盾しているように思えますが、写真で仏像の美しさを知った人たちは、必ず実物を見に行くことになります。そして実物を見て写真の印象との違いに、こんなはずではなかったと落胆したり、あるいは写真では得られないあらたな感動に喜んだりします。


興福寺
 去年東寺を訪ねた日、午後は奈良の興福寺へ行きました。京都では曇り空だったのが、奈良に来ると青空が広がり初夏の陽気です。久しぶりの奈良に若かった日々が思い出され、近寄ってくる鹿にさえあいさつしたくなります。東大寺を見てから興福寺にまわったので着いたときはもう4時近くでした。東金堂と国宝館を見なければなりません。東金堂で拝観受付のばあさんに時間を確認すると国宝館との共通券を買い、こっちを先に見ることにしました。

東金堂
 本尊薬師如来三尊をここでも十二神将が守っています。この十二神将像はやや小ぶりながら鎌倉時代の名作で動きも表情も豊かで着衣の表現など極めて写実的、みんな思い思いに決めのポーズで見得を切っています。とは写真を見ての印象で、ここの須弥壇は目よりも高く、壇上の諸仏を拝するには下から見上げるようにしなければならないので、そこまではよくわかりません。
 本尊を挟んで左右に日光・月光菩薩を押し退けるようにして坐るのが、肖像彫刻みたいな維摩居士像と鎧を着て剣を持ち獅子に載った文殊菩薩像です。どちらも秀逸。このふたつの像はセットになっていて、維摩経のなかで両者が問答することに由来するそうです。
 四隅の四天王像は貞観時代の傑作です。大きな丸い目をギョロリとさせ丸々と太った体に力がみなぎっていますが、怖いというよりユーモラスに見えます。作者はなぜこんな表現をとったんでしょう。もっとゆっくり見たいのに時間がありません。強烈に後ろから髪の毛を引っぱる持国天の手を振り解き国宝館に急ぎます。

板彫十二神将像
 国宝館はとてものこと30分ぐらいでは全部見ることはできません。晒し首みたいでかわいそうな旧山田寺仏頭や庭には置きたくない灯篭セット天灯鬼像と龍灯鬼像、愁いを含んだ紅顔の美少年阿修羅像のほかは何に集中しようか・・・と少し進むと板彫十二神将が見えました。
 十二枚全部そろっています。これはすごい。見たかった仏像です。とにかくよくできています。わずか3センチの厚さのヒノキの板に彫られた浮彫ですが、計算された影の効果が、立体像に負けない量感を作り出しています。これはうまく撮った写真のほうがよく伝わるでしょう。
 そろって豚みたいな鼻をしていて怖いようなおどけているような表情と、いきいきと躍動する肢体の表現はどの像も極めて巧妙で、右を向いたもの左を向いたもの中心に置かれたとわかる正面を向いたものがあり、群像としても優れた構成を見せています。アイデアもデザインも彫刻も抜群で、ベテランの仏師が楽しんで作ったに違いありません。これだから十二神将はおもしろい。こういうものをしっかり観ないと来た意味がありません。が、阿修羅像が待っています。

阿修羅像
 写真をいくら見つめても飽きることのないこの仏像は、実物に対面しても失望させられることはありません。人気があるだけに人だかりができています。とにかく近くで見ないと。ぼくとミキオ君はこの像の前から人がいなくなり自分たちが独占できるチャンスがくることを期待し、五部浄などほかの天竜八部衆を観ながら横目でそのタイミングを計ることにしました。
 十大弟子も展示してあります。八部衆と十大弟子、これらの脱活乾漆像群は将軍万福という仏師が中心になって、藤原不比等の三女で聖武天皇の妃、光明皇后のために作ったといいます。だとしたら、聖武天皇以上に実行力があり男勝りだったともいわれる気丈な女性が、なぜ釈迦如来の守護神である八部衆を、こんなリカちゃん人形みたいな華奢でおとなしい姿に造らせたんでしょう。
 この八部衆と十大弟子は皇后が母親の一周忌に発願した西金堂にあったといいます。母親は橘三千代といい、法隆寺にある「橘夫人厨子阿弥陀如来三尊像」の橘夫人とはこの三千代さんのことです。この阿弥陀さんは像高30センチあまりのかわいいサイズですが、よく見ると顔もけっこうかわいらしい。ひょっとすると母親を供養するための仏殿の仏像をお母さんの念持仏にあわせてかわいらしいものに作ってしまったのかも知れません。もっとも「橘夫人厨子阿弥陀如来三尊像」は三千代さんの念持仏ではなかったという話もあります。
 あるいは皇后の生きた時代は自然災害も多く政変もあって決して平穏ではなかったといいます。また、夜盗が横行し伝染病がはやり、皇后自身も天然痘で兄弟を相次いで亡くしていて、心を癒してくれる仏像を求めたのかも知れません。そうすると癒されたいと思うたびに宮殿から西金堂まで行くことになりますが、しんどくはなかったんでしょうか。平城宮から興福寺までは、近鉄の大和西大寺駅から近鉄奈良駅までとほぼ同じ距離で約3キロです。
 八部衆を観て十大弟子を観終らないうちに、阿修羅像の前はだれもいなくなりました。チャンスを逃さずぼくとミキオ君は速やかに正面に陣取ります。言葉がでません。ミキオ君もただ見つめているだけです。
 ぼくはこの阿修羅像の少年らしい真剣な表情からなにかの純真な決意を感じます。あるいは孤高の誇りを見つけます。しかし完成時の姿は今見る姿ではなくて、鮮やかな色彩の阿修羅像だったはずです。その姿におなじ印象を受けるかどうかは疑問です。
 きれいに彩色された阿修羅像は、今の姿より軽やかに豪華で、多くの人を惹き付けている緊張感のある表情ではなかったでしょう。その分かわいいものだったろうと、髭が生えていますが、思います。もし、今見ている阿修羅像のほうがぼくらにとってありがたいなら、それは1300年という時間の恩恵です。いずれにせよ、見ることができるのはこの阿修羅像しかないのです。いろいろ思いを巡らせて自分だけの阿修羅像にしておいてもよいでしょう。


 阿修羅像の前を離れ、大急ぎで展示室をぐるりとまわって板彫十二神将に戻りもう一度時間まで観ます。ミキオ君は別の方にいっています。しばらくして係員が展示室にぞろぞろ入ってきました。閉館時間です。無言の退館催促をしり目に再び阿修羅像の前に立ってからゆっくりと外へ出ました。(2016年6月19日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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