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東大寺戒壇堂の四天王像

 仏像に興味を持ちはじめた高校生のころ、土門拳さんや入江泰吉さんの仏像写真を見ては、いつかきっと実物を見に行くんだと思ったものでした。
 時が過ぎ、大学を卒業したあと、短期間ながら奈良で暮らしたことがあります。あるとき近鉄奈良駅から東大寺の戒壇院へは、水門町というところから行くのが近道だとわかり、その細い道を歩いていたらある家の前で中に向かって、先生、と叫んでいる人がいました。出てきたのは入江泰吉さんでした。あのころは戒壇堂を戒壇院といっていました。


戒壇堂
 4月中旬の良く晴れた普通の日、35年ぶりに東大寺の戒壇堂を訪れました。ここには天平の四天王像があります。今日は奈良市在住の友人と一緒です。実は、彼がいなければ奈良に来ることはありませんでした。戒壇堂への道
  戒壇堂へは南大門から入らずに、あの近道、水門町の入江泰吉さんの旧居前を通って行きます。入江さんは平成4年に亡くなりました。近鉄奈良駅を地上に出て道路を向こう側に渡り、奈良県庁の横を過ぎ信号を右へ曲がって、少し行って道なりに左へ曲がると戒壇堂へは一本道です。東大寺ミュージアムの方から流れてくる観光客がいなくなるあたりを過ぎると左手に入江さんの旧居(写真の左手前)があり、突き当りの石段の上には戒壇堂の門とお堂の屋根が見えています。近づくにつれて戒壇堂の屋根はだんだん石段に隠れていき、もう門の上部しか見えなくなると、いよいよ天平の四天王像だぞ、と心が急いてきました。

修学旅行生
 門を潜って拝観料を払います。500円。高いと思う。ここまでやってくる人は少なく、今日もだれもいないだろうと思っていたら、一目で分かる修学旅行の添乗員の姿がありました。ちょっと嫌な予感です。
 添乗員が門から出ていくとすぐに拝観受付の少し耳の遠いじいさんが、曲がった腰を伸ばしてお堂の扉をすべて開放ちました。ぼくらは顔を見合わせて覚悟を決めます。追い立てられるように左前の増長天像から右回りに進み、右前の持国天像の手前まで来たとき、引率の先生に連れられた中学生の一団が入ってきました。
 生徒たちは静かです。先生も無言です。誰も一言も発することなく、立ち止まることもなく行儀よく歩いています。ぼくらに気を遣っているらしいようすが、なんだかいじらしいと思っているうちに、うしろを通り過ぎて外へ出て行きました。あっという間でした。南大門や大仏殿で見る修学旅行生の姿を思い浮かべていたぼくらは拍子抜けしました。
 でも、この子たちはこのすてきな天平彫刻をちゃんと観たんだろうか。立ち止まり壇上の四天王像を見上げることもなく、お堂をただ一周して終わっていました。引率の先生はなんの説明もしていなかったみたいだけど、何を思ってこの子らを連れてきたんだろう。中学生に四天王像を見せるのはあまりにまだ早いようでした。

四天王像
 中学生たちが去ったあと、ひんやりとした堂内は、またぼくら二人だけになりました。増長天像に戻って、こんどはゆっくりと一体一体を眺めます。
  この四天王像は等身大の塑像で「人間形姿の理想的な造形」と昔何かの本で読みました。なんだか深刻な言い様なので、ここはもっと気楽に眺めたいと思います。
 4体ともわずかにひねった腰をすこし後ろに引いた姿で、膝も肘もつっぱらない、いかにも自然の体勢です。でも、体が細い。甲冑を付けているのにこの細さは、脱いだらどれだけ細いんだろう。引き締まった体のラインはウエストがくびれて、ビキニが似合うお嬢さんのようになだらかです。その手は指が長く爪もきれいで、編み物が上手なんじゃないかと思うほどにしなやかです。(もちろん、水着姿やセーターを編んでいるところなんて想像しませんよ。)
 対照的に顔は四角で大きくて厳つい。首は短く二重顎です。とても小顔とは言えません。持国天と増長天はいわゆる忿怒相で、下から見上げているぼくらを、目をむいて睨みます。増長天は「何だお前」と言っているように口を開け、持国天は「文句あるか」と言わんばかりに口をへの字に結ぶという、仁王さんと同じ阿吽の対になっています。
 一方、広目天と多聞天は気難しい顔で、眉をしかめてまっすぐ前を見ています。多聞天はこっちを見つめているようにも見えますが、広目天はどこを見ているのやら、下から見上げるぼくらを完全に無視しているみたいです。人の心を見すえるようなその鋭い目の、視線の先を追うことはできません。

 こんな感じで観たのですが、ぼくらの見たこの仏像は色彩がほとんど剥落し、生地がまだらに露出した、傷もあれば破損もある姿です。これが完成時の傷一つない、繧繝彩色(うんげんさいしき)といわれるグラデーション技法、紺丹緑紫(こんたんろくし)といわれる強烈なコントラストの配色方法によって仕上げられた、鮮やかな色彩をそのまま残す姿だったら、同じ印象を受けるんだろうか・・・。と、古色濃い仏像を観るときにいつも考えることを、今日も考えました。色彩や陰影あるいは質感が見る人の観照に与える影響は大きい。ぼくらは1200年前に造られた仏像を見ているのですが、1200年前の仏像を見ていたわけではないのです。

三月堂
 ところで、500円の拝観料と引き換えにもらえるパンフレットによると、この四天王像は元々戒壇堂にあったものではないそうです。初め戒壇堂に安置されていた四天王像は銅造で、今見る四天王像は中門堂にあったものだと書いてあります。中門堂とはなんのことだか知りません。
 そうかと思うと別の話もあります。数年前に三月堂を修理したとき、不空索観音像の基壇に残っていた台座の跡が、戒壇堂の四天王像のものと一致したことから、この四天王像は三月堂にあったことがわかったというんです。創建時の三月堂には不空羂索観音像(脱乾漆像)と日光・月光菩薩像(塑像)、そしてこの四天王像が八角形の須弥壇上にあり、不空索観音像の背後には後ろ向きに執金剛神像(塑像)があっただけで、今ある脱乾漆の巨像群はなかったというんです。この話を補強するのは、金光明最勝王経(きんこうみょうさいそおうきょう)というお経の如意宝珠品(にょいほうしゅぽん)という段に出てくる仏さんの名前で、不空索観音、日光・月光菩薩、四天王、執金剛神だけが登場するんだそうです。
 ちなみに、修理後の三月堂は仏像の数が減らされ、本尊不空索観音像と脱乾漆の巨像群(梵天像、帝釈天像、四天王像、阿形・吽形金剛力士像)、そして本尊背後の厨子に執金剛神像が安置されています。すっきりしたような、寂しくなったような感じです。
 一方、修理後に三月堂から消えた塑像群(日光・月光菩薩像、吉祥天像、弁財天像)と木像群(地蔵菩薩像と不動明王像)は、新設された免震構造完備の東大寺ミュージアムに移されています。塑像は地震に弱いから避難させたんだそうです。じゃ、執金剛神像と戒壇堂の四天王像はどうなるんでしょう?

 いつまでも見ていたい思いを振り払ってぼくらは外へ出ました。白い春の日差しのなか、お堂の石段に腰を下ろしている友人にカメラを向け、にっこり笑ったところを撮りました。(2016年5月19日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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