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当尾 浄瑠璃寺 九体阿弥陀如来坐像

 岩船寺から歩きはじめ、ミロクの辻磨崖仏、わらい仏、唐臼の壺阿弥陀・地蔵二面磨崖仏、藪の中三尊磨崖仏と当尾の名立たる石仏をめぐって浄瑠璃寺まで来ました。秋の嵐が去ったあとの好天に恵まれ、秘仏の吉祥天立像が見られることもあって、平日ながら多く人が拝観に訪れています。


浄瑠璃寺
 長い参道の先にある山門は金沢市内で見る尼寺にあるようなこぢんまりとした小さな門で、入るのはここからでいいのか、と思うほどに質素です。門を潜るとき、なんだかこっそり入っていくみたいな気持ちになります。どうということないようで、どこか心惹かれる小さな山門です。

 山門を入るとすぐ、右に本堂が見えます。9体もの阿弥陀如来坐像を収容して横長で、堂々として貫禄ありげです。今入ってきた市井の寺院かと見紛う小さな山門が不釣り合いにも思えます。このあと行くことになる阿弥陀如来磨崖仏のある大門仏谷の大門は、そこに浄瑠璃寺の大門があったことから付いた地名です。ずいぶんと離れているから昔は広大な寺域があって、小さな山門は本堂への門だったんでしょうか。
 本堂から左に目を移せば池の先に三重塔です。三重塔は薬師如来像を安置しているそうです。この薬師仏が創建時の浄瑠璃寺の本尊で、浄瑠璃寺という寺号は薬師如来の正式名薬師瑠璃光如来に由来するとも、薬師如来の浄土である東方薬師浄瑠璃浄土から名付けたともいいます。秘仏だから見せてもらえません。本来の参拝順序は先にこの三重塔(東方薬師浄瑠璃浄土)にお参りし、振り返って池の向こうの本堂(西方阿弥陀極楽浄土)を拝むんだそうですが、ぼくらは本堂から見ます。

本堂 九体阿弥陀堂
 拝観入口は右ですが、まず正面に立ってみると、話し声や物音がお堂の中によく響きます云々と書いた掲示板が正面の階段に出してあります。それだけでは注意喚起が足りないと思ってか、外の声が堂内によく響きます、この付近での私語雑談はご遠慮ください、と賽銭箱にまで貼り紙してありました。いろんな人が来ますからね。実際音がよく響く構造なのかもしれません。まあ、なかに入ってみればわかるでしょう。

 堂内は、ちいさな電灯がところどころ上から弱々しく黄色の光で照らして薄暗い。美術館と勘違いしているみたいです。目が慣れるとたくさんの人がひしめいていました。懐中電灯で照らして仏像を見ている人もいます。そうかと思うと双眼鏡で仏像の顔を覗いている人もいます。双眼鏡はほかのお寺でもたまに見かけます。仏像を見るときの必需品と言う人もいるようです。なるほどあれば便利です。音も出ません。でも、どうなんでしょ、懐中電灯も双眼鏡も、少なくともお参りの仕草ではないですね。
 お参りの仕草ではないといえば、お堂の隅で署名運動をしていたのには驚きました。さすがに勧誘する人はいませんが、名前を書く紙が電気スタンドの灯りの下に置いてあります。なんでもこの近くにごみ処理場を建設する計画があるらしく、その反対運動のようです。でも、地元の人間でもない者が事情もわからずに、はーい、わかりました、と軽々しく名前を書いたとしたら、それは無責任極まりないことです。さらにその横に核兵器廃絶の署名まであったのには驚きを通り越して呆れました。それがなんであれ署名運動なんて、国宝の阿弥陀堂のなかですることではないでしょう。お堂の前での私語雑談より、よほど節度のないことに思えます。

九体阿弥陀仏坐像
 気分を整えて、まずは本尊、阿弥陀如来坐像です。定朝様といわれる国宝の藤原彫刻で、9体で一組の阿弥陀如来を九体阿弥陀仏あるいは九品仏(くほんぶつ)といい、それを収めた阿弥陀堂を九体阿弥陀堂といいます。(定朝様:じょうちょうよう。定朝は平安時代後期の仏師。寄木造の完成者といわれ、もっとも美しく見えるように計算されたバランスの良い容姿の阿弥陀如来坐像を設計しました。その様式を一般に定朝様と呼びます。定朝作の阿弥陀如来像は宇治の平等院鳳凰堂の1体だけが現存するといいます。)
 横一列にずらり9体も並んだところは壮観で、右の端から眺めるのがいちばんです。なぜ右からなのかというと、ぼくは人でも仏像でも横顔は左側を見るのが好きなんです。どういうわけか、未来を向いているように見えます。それに左端から見ると、中尊は手前にある厨子の陰になり頭だけが見えて晒し首みたいです。中尊は丈六で来迎印(らいごういん)を結び、左右の8体は中尊の半分の大きさですべて定印(じょういん)です。それでもよかったんでしょうね、8体ぜんぶ同じ印でも。

浄瑠璃寺阿弥陀堂  人は生前の行いや信心深さの度合いなどによって9段階に分かれて極楽往生すると、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経に書いてあって九品往生説というそうです。すなわち上中下の品と上中下の生を組み合わせて、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九段階です。つまり9ランクに分けられるわけです。
 阿弥陀様はどうもその9ランクをひとまとめにして面倒見てくれるんじゃなくて、ランクごとに分けて見てくれるらしく、どのランクを見ているのかを印(印相)で表します。印というのは如来の内面を両手の位置と指のまげ方で表すもので、印を結ぶといいます。印は如来ごとに決まっていてます。だから身分証のようなものですが、阿弥陀如来の印は親指とほかの1本の指で輪を作るのが特徴で、輪を作る指と手を置く位置を変えて、上品上生印から下品下生印までの九種類の印を結びます。ちなみに、普通、右手を上げ左手を下げる印を来迎印、両手を胸の前で合わせる印を説法印、両手を腹の前に持ってくる印を定印とも呼んでいます。
 こういうことなので印を見れば、どのランクの面倒を見ているのかが一目でわかります。首から下げる身分証よりよほどわかりやすく、かつ優美です。極楽には100円ショップがなくて身分証入れを買えないからではないんです。
 一方、人間のほうは、自分の極楽往生のランクは生前の行いによるというのだから、お迎えが来るまでそれが分かりません。そういうことなら、いっそのこと上品上生から下品下生まで阿弥陀如来像を九体全部揃えてお参りしておけば安心、と思いついたのが九品仏誕生のいきさつのようです。この九品仏が平安後期の藤原時代に、釈迦の入滅から二千年後にはその教えが形だけになり、なにをしてもだれも悟りを開けないという末法思想が広まって、もう極楽に行くには九品仏しかないよ、と大流行したんだそうです。
 でも、こんなこと、九つも大きな仏像を造るなんて、それを入れる大きなお堂も要るから、いったい費用はいくらほどかかるのか。ちっちゃな阿弥陀様ひとつ持つことだってできないような庶民には、とてものことできない相談だから、これはもうお金に困らない有閑富裕層限定です。

 そいうことなら、それって、どこか間違っている気がしますよね。キリスト教では「・・・富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(新約聖書 マタイによる福音書19章24)、と言っているのに、極楽はお金持ちじゃないと入れないというのなら、仏教はキリスト教に完全に負けています。あるいは、そんな極楽だったら行かなくてもいいよ、と思う人もいたことでしょう。それでかどうかは知りませんが、やがて法然が、さらにその弟子の親鸞が出て、そんなもん関係ないね、極楽往生は阿弥陀様の専決、本願なんだ、こっちはひたすら念仏を唱えるだけでいいんだよ、と主張し、極楽往生がずいぶん解かりやすいことになったのは、自然のなりゆきだったのかもしれません。

四天王立像
 ほかの仏像も観ます。本堂に入ってすぐのところ、須弥壇の左横に等身大の持国天像と増長天像が前後に並んでいます。隅っこで光も当ててもらえず沈黙していますが、堂々たる国宝の藤原彫刻です。残りの2体、広目天像と多聞天像はずっと以前から東京と京都の国立博物館に寄託しているそうです。
 あれっ、場所が違います。持国天像は右前、増長天像は左前が本来の位置です。それぞれ正しい位置に置けばバランスもよくて見栄えもするのに、そうしないのはお堂の右側に不動明王三尊像が置いてあって、持国天の入れてもらえる場所がないからで、まさか一緒に並べておけば見るのに便利だから、ではないでしょう。もっともこの2体の名前については諸説あるようです。

 この四天王像は隅々まで実に華麗に造られています。それゆえに、ぼくはあまり好きではありません。頭が小さくて表情が意地悪そうに見え、装飾が凝りすぎていて、ぼくのイメージにある四天王像に合いません。文化財指定ではなかった岩船寺の四天王像のほうがよっぽど好ましく思えます。
 ぼくにはそうでも、名の知れた仏像だから普通に人気があるので人だかりができています。と思ったら、どこかの学校から来ているらしいグループで、年配の男性が懐中電灯の光を当てて截金がどうのこうのと講釈するのを、数人の若い男女がわかっていないような顔で聞いています。その話す声が結構大きいから、あの賽銭箱の貼り紙はこっちに貼った方がいいみたいです。でもこの暗さでは読めないでしょうね。(截金:きりがね。金箔をものすごく幅の狭いリボン状に切って貼り付ける装飾。)

吉祥天立像
 ほかにも人だかりができているところがあります。中尊の左横、扉の開いた厨子のなかに見える吉祥天立像の前です。ミキオ君は気に入ったらしく、きれいだ、と感心しています。今日はいつもの、いい顔している、とは言いません。この吉祥天は彩色がほとんど剥げずに残り、顔も衣も竈猫みたいに煤けているから美しく麗しい、と昔から作家や芸術家など文化人に愛されてきた人気の高い仏像です。どこか奥歯にものが挟まったような言い方ですが、この吉祥天立像もぼくの好みじゃないんです。ミキオ君の方がきちんと鑑賞していました。(竈猫:かまねこ。宮沢賢治の「猫の事務所」にでてくるかわいそうな主人公猫。普通の猫ですが、暑い盛りの土用に生まれたから皮膚が薄くて寒がりで、いつもかまどの中で寝るので全身が煤で汚れていて狸のように見える猫。ちなみに、かまどねこ、と読むと冬の季語。)

 どうもさっきから皮肉っぽいことばかり言っています。堂内が薄暗いからでしょうか、人が多いからでしょうか、いずれにしても、なに考えているんだろう、と自分でも思います。


 薄暗い本堂から外へ出れば秋晴れの青い空は眩しく、美しい浄土庭園の向こうに朱塗りの三重塔が見えています。池のぐるりをまわって三重塔までゆっくり歩きます。振り返れば、紅葉がはじまったばかりの楓の向こうに本堂です。ぼくらは入ってきた小さな山門を出て当尾の石仏めぐりに戻りました。(2017年11月25日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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