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快慶さんが金沢にやってきました ―石川県立美術館の展覧会から―

 仏像が観たくてお寺に行ってみたらお目当ての仏像があるはずの場所に、ただいま○○は△△へ出展中です、なんて事務的に書いた紙が貼ってあって、ウッソだろう、なにこれ、ジョーダンじゃないよ、というようなことが、仏像めぐりをしているとたまにあります。それが遠いところにぽつんとひとつだけあるお寺だったら、情けなくて悔し涙に夕陽が霞みます。
 そうかと思うと、この寺は遠すぎる、行くとなれば時間も掛かれば金も掛かる、しかも必ず観ることができるとは限らない、よって行くなら普通じゃない勇気と決意を要する、一度はこの目で観てみたいのだが・・・、やっぱりむりだなぁ、あんなところまで行けないよ、と写真を眺めるたびに溜息をつく仏像が、住んでいるところの美術館にやって来ると聞けば小躍りして喜んで、いそいそ出かけて行きます。


 石川県立美術館では仏像も出ている展覧会がたまにあります。この15年ほどでは3回、高野山、法隆寺、薬師寺に関係する展覧会がありました。そのうちの2回を観に行っています。

高野山の名宝展
 もう13年もまえの平成17年の5月に石川県立美術館で高野山の名宝展がありました。仏像めぐりから遠ざかってずいぶん経っていましたが、運慶の八大童子像や快慶の孔雀明王像が金沢にやって来ると知っては、観に行かない道理がありません。でも、ひとりで行くより連れがいるほうが楽しいから、このホームページの第1部で白山麓を一緒にめぐり歩いた友人を誘ってふたりで行きました。
 友人は仏像好きというわけではありません。数年前におなじ石川県立美術館で葛飾北斎展があったとき、友人のほうから誘ってきて一緒に観に行ったということがあって、だからそのお返しみたいな感じだったのですが、かれは人とは違う独自な感性の持ち主で美術館へ行くのは好きだから、けっこう楽しんでいるようでした。

 この展覧会は「世界遺産登録記念 霊場高野山 弘法大師空海 その信仰と名宝展」という長い名前がついていました。高野山が世界遺産に登録された直後の企画だったのです。全国の主要都市で開催されていたようですが、金沢での開催は、北陸三県のちょうどまんなかにあって一応北陸の中心都市だからというより、高野山と加賀前田家の関係にその理由があったようです。

 高野山に多くの大名の墓所があることはよく知られていますが、加賀前田家の墓所もあります。墓所を築いたのは前田家3代目の利常さんで、2代目の利長さんから4代目光高さんまでの夫婦と5代目綱紀さん夫人の7基の墓があり(綱紀さんの墓はないんです)、なかでも利長さんの墓は「高野山三番碑」と言われていて山内で三番目の規模だといいます。
 また、金剛峰寺の門前には利常さん夫人の珠姫さん(院号は天徳院、徳川2代将軍秀忠の次女で3代将軍家光の姉、つまり家康の孫)の菩提寺天徳院もあって、その庭園は小堀遠州が作庭したという名園で、山内唯一の指定名勝になっているんだそうです。珠姫さんの菩提寺天徳院といえば、ぼくら金沢人にとっては金沢市内小立野にある曹洞宗の寺院です。利常さんは金沢と高野山の2か所に同時に天徳院を造っていたんです。ずいぶん手厚い供養ですが、家康の孫だからと幕府へいい顔したかったわけじゃないでしょう。政略結婚だったふたりの夫婦仲はとても良かったといいます。珠姫さんは3歳で金沢にお嫁に来て3男5女を産み23歳で亡くなっています。利常さんは珠姫さんがよほど好きだったんでしょう。そしていなくなって悲しくてしかたなかった。ふたつの天徳院は、そういうことなんだと思います。

 ここまで挙げれば、なるほど高野山世界遺産登録記念の特別展が金沢に来るのは、さもありなんですが、さらに前田家との関りを挙げると、5代目の綱紀さんは名君としてまた学者大名として知られた教養人でしたが、その文化的業績の中に、京都の東寺に伝わる真言密教の書籍を整理して保存した「東寺百合文書」というものがあります。国宝になっています。百万石の加賀前田家は高野山においてもほかの大名家とはやはり違いました。

快慶作 孔雀明王像
 前口上が長すぎましたが、こういうことだからこの展覧会は仏像のほかに、絵画、書、古文書、密教法具から刀剣、工芸品の類まで、多数の展示品が出ていました。若き日の長谷川等伯が描いた「武田信玄像」も来ていました。仏像は展示のほんの一部だったわけですが、その存在感はほかの展示を圧倒して絶大で、なかでも快慶作の孔雀明王像は台座から孔雀の飾り羽をかたどった光背までの高さが2.5メートルほどもあって大きいし、そもそも孔雀に乗るという姿は特異だから、特によく目を惹きます。だからでしょうか、この孔雀明王像はチケット(画像)の図案にも使われていました。
 孔雀明王というのはあまり知られていない仏さんです。孔雀が毒虫や毒蛇まで食べることから悪いものを取り除く功徳があるとされる明王です。明王とはいっても忿怒相ではなく菩薩の顔をしています。快慶さんの孔雀明王像はキリリと引き締まった表情で、眺めているうちにこっちを見つめているような光る目に吸い込まれてしまいそうな、なんだか不思議な気分になります。快慶さんの仏像は広目天像と多聞天像も来ていましたが、四天王像好きのぼくがこの2体についてはどんなことを思ったのかよく憶えていないほどに、孔雀明王像の印象は強烈で、すっかり目を奪われていました。

運慶作 八大童子像
 高野山の仏像といえば、普通に思い浮かべるのはやっぱり運慶作の八大童子像(運慶作は6体で2体は補作)でしょう。そのうちの2体が来ていました。制多可童子像と恵光童子像です。かわいい顔のをひとつと、かわいくない顔のをひとつ持ってきたみたいです。なんだ全部じゃなかったのか、ちょっとがっかりだったね、ということかというと、そうではありません。この2体を観ることができたのはまったく幸運でした。この八大童子像は通常は非公開で、だから高野山まで行っても特別な日でないと見せてもらえないんです。それも公開されるのは6体の中のどれか2体だけです。だから、去年、東京国立博物館で開かれた、日本中の運慶さんをかき集めてきたような運慶展に、大勢の人が大挙して押しかけたのは無理もないことでした。そんな運慶さんの八大童子像を金沢で観ることができたのだから、奇跡のような贅沢な話だったんです。

 ところで、運慶さんの仏像は写実的だとだれもが絶賛しますが、八大童子というあまり仏さんっぽくない仏さんの像を全然仏さんっぽくないように巧みに造っているのをみれば、運慶さんは三十二相八十種好に縛られず自由な表現ができる天部に属する仏像が、特に得意だったんだろうと思います。八大童子像を前にしてそう思ったのではありません。今書きながら思ったことです。そしてこれも今思ったことですが、考えてみれば、運慶さんと快慶さんは運慶・快慶と名前を並べてセットみたいに言われることが多いのに、一緒に観ることができる機会は滅多にないんじゃないかと思います。そう思うと、八大童子像の展示があり、あとから出てきますが諸尊仏龕の展示もあって、運慶・快慶を同時に観ることができた石川県立美術館での高野山の名宝展は、まったく貴重な場でした。

諸尊仏龕
 ほかに印象に残った仏像として、深沙大将像と執金剛神像があります。2体はセットで、深沙大将というのは西遊記に出てくる沙悟浄の原型だそうですが、邪悪な顔で胸に髑髏をむっつも繋げてぶら下げているし、おへそのあたりには人の顔が浮き出ていてかなり不気味な姿です。執金剛神は阿吽の金剛力士が合体してひとつになったものですが、この像の姿は普通の執金剛神像のそれではなくて蔵王権現みたいに片足をあげたポーズが異様です。この2体には友人もさすがに気味悪がっていました。どっちも怪物みたいな仏像ですが、これも快慶さんの作です。

 そしてもう一つ、先ほどちらっと名前を出した「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」という携帯用の厨子みたいな高さ20センチあまりの小さな仏龕が出ていました。空海さんが唐から戻るときに持ってきたものだといいますが、一本の丸木をまんなかで割った片方を更に半分に割って三分割とし、小さい方を大きい方に蝶番で留めて扉のように開け閉めできるようにした、それぞれの仏龕に如来浄土図みたいな構図で仏像を極めて立体的に深く彫り刻んだ檀像です。まんなかが釈迦如来で左は観音菩薩、右に弥勒菩薩が多くの眷属を従えています。写真で見て知っていましたが、実物を見てその彫刻に驚きました。木片と言っても良いようなこんな小さな木に、よくもこんなに精緻にいったいどうやって彫ったんでしょう。国宝で、これも常設展示していない仏像です。今思うと快慶さんより運慶さんより、もっと印象深く観ていたような気もします。


 快慶さんの孔雀明王像は、この展覧会から12年後の去年4月、奈良博の快慶展で再び観ることができました。二度あることは三度あるといいますからもう一回会えるのかもしれません。もしそうなってもそのときもそれは、高野山ではないんでしょうね。(2018年1月23日 メキラ・シンエモン)

 次回は、石川県立美術館で観たもうひとつの特別展を取り上げようと思います。




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