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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

尾山神社の神門 ―金沢製糸場の周辺―

 やはりそれは「武士の家計簿」だっただろうと思います。
 北陸新幹線の開業は、それに合わせてテレビ各局で金沢の特集番組が数多く全国放送されたこともあって、金沢の知名度をグッと高めることになりましたが、それよりずっと前、金沢、なかんずく加賀百万石が注目されるようになったきっかけは、歴史学者の磯田道史さんが書いた『武士の家計簿「加賀藩御算用者の幕末維新」』という一冊の本だったに違いありません。


『武士の家計簿「加賀藩御算用者の幕末維新」』
 加賀百万石を小説にちらっと登場させただけで日本近世史の地中深くに埋没させたのが司馬遼太郎さんなら、磯田道史さんは神田神保町の古本屋に出た加賀藩士の書いた古文書を慌てて買い込んで埃まみれになって格闘し『武士の家計簿「加賀藩御算用者の幕末維新」』(新潮社新書)という一冊の本にして世に出したことで加賀百万石を日本近世史の地中深くから発掘しました。と、ぼくは密かに思っています.。
 その磯田さんは司馬さんをだれよりも鋭い視点で日本史の転換点を観察した歴史家と見ています。本人は否定するかもしれませんが、きっと司馬さんの熱烈なファンなんだろと思います。「歴史をつくる歴史家」とまで言っているし、「武士の家計簿」に司馬さんの歴史小説そっくりの書き方をしているところがあって、少なくない影響を受けていように見えます。近ごろEテレの「100分de名著」で司馬さんとその作品について熱く語り、それを『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)という本にまでして入れ込んでいるのを見れば大ファンに違いないんです。
 そう言うぼくは司馬遼太郎さんのささやかなファンで若いころ電車のなかで随分と読みました。「花神」や「坂の上の雲」など近世の日本を取り上げた小説や「この国のかたち」などのエッセイが特に好きなんですが、司馬史観とか言って一時期たいへん司馬さんをもてはやしていた世間は、近ごろちょっと冷たくしているようにも感じて残念なことだと思っていたから、磯田さんのような人気の歴史学者が司馬さんを歴史家として取り上げておおいに語っているのは嬉しいことです。

金沢製糸場
 それはともかく、加賀百万石の金沢の知名度を著しく高めてくれた「武士の家計簿」は、ぼくら金沢人にとってどうなのかといえば、加賀百万石をずいぶん身近な存在にしてくれました。金沢の人は、加賀藩は外様一の大藩だったとか、あるいは兼六園だとか宝生流だとか金箔だとか治部煮だとか、そういうものを自慢しているけれど、加賀藩のことや金沢の武士の暮らしについては、実はあまり関心なかったというか、よく知らないでいたのです。それが「武士の家計簿」に、加賀藩の御算用者つまり会計係だった猪山家を軸にして、加賀藩とはこういう藩で金沢のお侍とはこういうことをしていた、さらに維新後のことまで詳しく書いてあったわけです。

金沢製糸場跡に建つ中央小学校 この本のなかに維新後の転身に成功した猪山家とは対照的に、近ごろの言葉でいう勝ち組になれなかった士族の境涯を描いたくだりがあって、そこに「金沢製紙場」というものがちょっとだけ出てきます。製紙場となっていますが、これは長町武家屋敷跡と金沢市立玉川図書館のあいだにある中央小学校の辺りに、そのころあったという「金沢製糸場」のことだろうと思います。

 金沢製糸場は明治7年に失業士族のリクルート対策として、後に2代目の金沢市長になる長谷川準也という元加賀藩士がつくった民間の製糸場です。去年世界遺産になった富岡製糸場に次ぐ全国第2位の規模だったそうです。写真中央にマンションみたいにも見える建物が中央小学校で、藩政期には加賀八家(かがはっか)といわれる家老を出す八つの門閥のひとつで、利家さんの時代からの功臣村井長瀬(むらいながより)を初代とする禄高17000石の村井家の屋敷がありました。前を流れる鞍月用水の水力を動力源に利用しました。生糸の質が悪かったり商売が下手だったりで長続きせずに終わりましたが、のちに石川県は繊維王国と言われるようになるきっかけになりました。そんな金沢製糸場の周辺(場所ではなくて事情)がちょっとおもしろいのです。

上野七日市藩1万石
 金沢と群馬県の富岡は深い縁があって、富岡市の一部は江戸時代には前田利家の五男利孝を藩祖とする上野七日市藩1万石の城下町でした。つまり加賀前田家の領地でした。県立富岡高等学校の敷地が七日市藩陣屋(藩庁)のあったところだそうです。そんなことで、維新で食べていけなくなった元藩士が従事できるなにかよい産業はないかと考えていた金沢の人たちは富岡製糸場のことを知り、七日市の近くにうまいことやっとる製糸場とかいうりくつなもんがあるげんて、そんならこっちでもやったらいいがんねぇけ、やってみまいか、ということになったんじゃないかと思います。でも、金沢から遠い上州になんで前田家の領地があったんでしょう。

 七日市藩の藩祖利孝さんは金沢生まれです。生母はお幸和さん(明運院)という利家さんの側室で、年は加賀藩3代藩主利常さんのひとつ下でした。大坂の陣に徳川方で参戦し手柄を立て、その恩賞としてもらったのが七日市1万石でした。たぶん兄の利常さんに従って参戦したのではなかったと思います。利孝さんはこどものころ、長兄で加賀藩2代藩主の利長さんにかけられた謀反の疑いを解くために、芳春院さん(利家さんの正室で利長さんの生母まつさん)とともに人質となって江戸へ下っていましたが、芳春院さんが利常さんの生母寿福院さんと人質を交代して大坂冬の陣の直前1614年6月に解放された後も、そのまま江戸に留まっていたんじゃないかと思います。大坂の陣が始まって立場上知らん顔もできず、そのとき江戸にいた前田家の家臣を引き連れて単独で参戦したんでしょう。それで恩賞として領地がもらえたんじゃないのかなと思います。そのへんのところを知る手立てはぼくにはないから、これはまったくの想像です。
 
それはともかく、年が利常さんのひとつ下だというのだから、大坂の陣のときはまだ二十歳そこそこでしょう。それでいきなり1万石の小藩とはいえ藩主になったんだから大変だったでしょうね。もっと大変だったのは加賀本家で、びっくりして随分慌てたに違いありません。藩のスタートにあたっては金沢からたくさん人が行ったんだと思います。

 それにしても1万石とはなんともちょっぴりです。加賀本家の家老クラスよりうんと少ない。藩の運営は大変だったようですが、前田本家の支援があったといいます。また前田本家にとっては参勤交代の中継地点として重宝したそうです。ついでに書くと、加賀藩の参勤交代が通った道は、参勤も交代も大部分が北国下街道―中仙道を行く北回りで、北陸新幹線のルートとほとんど一致します。ついでのついでに書くと、滋賀県内のJR湖西線に一部のサンダーバードも停車する「近江今津」という駅がありますが、この近江今津(滋賀県高島市)もまた江戸時代を通して加賀藩の領地でした。元々芳春院さんの化粧料だったそうですが、金沢から京都へ上る際の中継地になっていました。
 ところで、利長さんを加賀藩2代藩主ではなくて初代藩主、利常さんを3代藩主ではなくて2代藩主と書いたものを目にすることがあります。これは、利家さんは家康が幕府を開く前に亡くなっていて、加賀藩最初の藩主は利家さんの長男で前田家2代目の利長さんだったからこれを初代とし、そのあとを継いだ利常さんは前田家3代目だけど藩主としては2代目というほどの理屈のようです。でも、普通には加賀藩2代藩主利長、3代藩主利常で通っていて、その方がすっきりしていいと思います。

尾山神社の神門
 金沢製糸場をつくるにあたっては、金沢から大勢で富岡へ見学に行ったそうです。その中に津田吉之助という宮大工の棟梁がいました。吉之助さんは1週間ほど富岡にいたようですが、メモひとつ取らずに富岡製糸場のすべてを目で見ただけで覚えると、金沢に帰ってから独力で施設・設備から製糸機そのものまで作ってしまったんだそうです。それってすごいんじゃない、と思ったら、この大工さんはこのすぐあとに、ステンドグラスを意匠に取り入れた竜宮城の門みたいな尾山神社の神門を設計施工していました。なるほど、そんな大工さんならそういうこともできるわけだ、と納得ですが、読み書きそろばんがまるでできなかったというから、ますます驚きです。明治人のすごさでしょうね。

尾山神社 神門 津田吉之助さんが神門を建てた尾山神社は、加賀藩の藩祖前田利家(利家さんが初代藩主だという認識です)を祀るために、藩主の家族などが住んでいた金谷御殿(かなやごてん)という金沢城の出丸があった場所に明治6年に建てられました。平成10年からは利家さんの正室まつさんも合祀されています。尾山というのは金沢の別称で近ごろはほとんど耳にしませんが、郊外に住んでいたぼくの祖父母なんかは金沢市内を尾山と呼んでいました。でも、尾山神社としなくても金沢神社で良かったんじゃないかという気がしますが、兼六園の随身坂口に金沢神社という神社がちゃんとあって、でもこの神社は兼六園の敷地内にあった加賀藩の藩校明倫堂の鎮守だった天満宮が、尾山神社の建った翌年に改称して金沢神社となったというから、尾山神社を金沢神社と名付ける気は初めからなかったみたいです。

 神門ははじめからあったわけではなくあとから追加で建てられたようで、その理由がちょっと変わっていました。製糸場をつくったあの長谷川準也さんが、近ごろ参拝者が少なくなってお賽銭も入らない、なにか目を惹くものが必要だ、と考えて神門を建てることにしたのでした。それで吉之助さんに頼んだら、宮大工が考えたとは思えないような、窓に四色の色ガラスをはめ込んだ竜宮城みたいな門になりました。明治8年に完成しています。確かに目を惹く意匠でモダンといえばモダンかもしれませんが、当時はきっとなんでも目新しいものがはやりで、神社の門が和洋折衷でどこか中国風にも見える国籍不明の建築でも受け入れられる空気だったんでしょう。今なら絶対に無理でしょうね。明治という時代を感じさせます。今は重要文化財に指定されていますが、戦前は国宝でした。神門が国宝になったときのいきさつには、いかにも金沢らしい逸話があります。
 明治も終わりのころ、この神門は、らしくない、つまりこんな竜宮城みたいな中国風の門なんて神門っぽくないから取り壊そうという話が出て、でも壊して建て直すにはすごいお金がかかるからと、すぐに実行できずに金沢人らしくグズグズしていたら、昭和に入って(昭和9年)国の国宝保存会というところの偉い先生(東大名誉教授、関野貞博士)がやってきて、この神門は明治初期の木造洋風建築の希少な残存例であると言って、あっさり国宝に決めてしまいました。それで壊すに壊せなくなって、今日まで残ることになりました。これが富山や福井ならさっさと壊して建て直していたでしょうね。こんなことだから、文化財が文化財として残される資格には、その土地の体質も含まれるみたいです。 戦後になって重文に格下げになりましたが、この神門を今は金沢市のランドマークだとか言って観光名所のひとつにしているんだから、金沢人もいい気なもんです。
 ちなみに 、ぼくはちいさいころから毎年初詣は鶴来のしらやまさん白山比盗_社、しらやまひめじんじゃ)に行っていたので尾山神社は馴染みが薄く、神門も小学生のころ初めて見たときはステンドグラスがなんとも不気味な感じがしたのを憶えています。

神門の避雷針
 神門の屋根には五重塔の相輪みたいなものが乗っていて、これは避雷針で、神門の建設中に加賀藩の2代目お雇い外国人医師だったホルストマンというオランダ人から、金沢は冬に雷が多いからこういういいものがあるんだけど付けてみたら、と提案された吉之助さんが、いいこと聞いた、と採用して取り付けたものだったといいます。この避雷針は日本最古のものです。と、長らくいわれていましたが、最近になって富岡製糸場の避雷針が先だったという話になっているそうです。
 どっちが先かに関係なく、金沢は今も昔も冬の雷が全国一多いことで知られる土地であってみれば、尾山神社の神門に避雷針はなくてはならないものでした。お陰で神門は落雷で焼失することなく今に残り、しらやまさんまで初詣に行く元気がなくて尾山神社で済ませてしまう金沢市民は、毎年、ステンドグラスの神門を潜って新年を迎えます。この避雷針は今も現役です。


 尾山神社の神門と金沢製糸場を手掛けた津田吉之助さんの後を継いだ長男の米次郎さんは30年を掛けて自動織機を発明しました。自動織機といえばトヨタの豊田佐吉さんですが、米次郎さんはやはり元は大工さんだったという佐吉さんと親交があったそうです。そののち米次郎さんの甥にあたる駒次郎さんの興した会社が、今日本を代表する織物・工作機械メーカーとして内外に名前を知られている津田駒工業です。

 幕末維新では影の薄かった金沢にも明治という時代の気分は、たとえそれがほんのちょっとだったとしても、確かにありました。(2017年12月20日 メキラ・シンエモン

写真:メキラ・シンエモン


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