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韓国国立中央博物館の半跏思惟像と石窟庵の石仏

 石川県立美術館の展覧会で観た仏像の続きを書くつもりでいましたが、そういえばもうすぐ韓国の平昌ピョンチャン)で冬季オリンピックだったと思い出し、そうだ韓国にいたころむこうで観た仏像があった、それにしよう、と心変わりしました。ピョンチャンへ日本から行く人のなかには仏像ファンもきっといて、韓国まで行くんだからついでに博物館にも行って韓国の仏像を見てこようかという人がいないとも限らず、そういう人の下調べの参考になるかもしれません。このホームページにたどり着くことができれば、ですが・・・。とにかく時宜ですから、ずっと前に韓国で観た仏像の話にします。これはちょっと珍しい話になるかもしれません。
 文中に韓国語の発音をカタカナで書いてあるところがあります。これはほとんどが漢字の韓国語読みを書いたものですが、カタカナでは正確には表記できないのを承知で書きました。あえてそうしたのは、韓国の人に奈良の東大寺をトンデサと読まれては日本人としていい気はしませんが、韓国の人も同じように、いやぼくらよりもっと激しく、そう思うからです。それに気分も出ますから。


 韓国ではキリスト教が盛んで、ソウルではどの方向に顔をむけても視野の中に必ず十字架が入っています。カトリック教会を天主教チョンジュキョ)、プロテスタント教会を基督教キドッキョ)と呼んでいます。その信徒数は合わせると人口の半分にもなります。一方、仏教はというと、市街地で仏教寺院を見かけることはほとんどなく、お寺は都市部に限らず町の中心から離れた山の上か中腹にあります。大きなお寺はすべて辺鄙な山の中です。仏教徒の数もキリスト教徒の半分程度だといいます。仏教が迫害された時代があったからです。そういうわけで、古刹は少なく心を揺さぶる仏像も多くは残っていません。

国立中央博物館の半跏思惟像(金銅弥勒菩薩半跏思惟像)
 韓国の代表的な仏像といえば、ソウルの国立中央博物館クンニップチュガァンパンムルガン)所蔵の半跏思惟像パンガサユサン)があります。以前の展示では金銅弥勒菩薩半跏思惟像クムトンミロッポサルパンガサユサン)となっていましたが今は半跏思惟像です。ぼくは30年ほど前、韓国で暮らし始めたころに女房に案内されて、日本の朝鮮総督府だった建物が使われていた国立中央博物館で観ています。嫁さんは一緒になるまで観光ガイドをしていました。(朝鮮総督府だった建物は李明博イ・ミョンバク)政権の時、解体されてしまいました。)
 この弥勒菩薩像は7世紀ごろ、三国時代サムグクシデ)の新羅シンラ)で造られたといいます。京都の広隆寺にある「宝冠弥勒」と呼ばれている弥勒菩薩像よく似ていると指摘されています。宝冠弥勒は7世紀後半の作だといい、すこし大き目です。広隆寺は漢民族系の帰化人秦氏(はた氏)の建立したお寺で、2体の木造弥勒菩薩半跏思惟像があって、ひとつは冠を被りもうひとつのほうは冠を被らず髷を結っています。それで区別のために前者を「宝冠弥勒」と呼び、後者を「宝髷弥勒」あるいは泣きっ面にみえるところから「泣き弥勒」と呼んでいます。

 ふたつのものがよく似ていると、どっちが先だとかどっちが原形だとかどっちが影響を与えたとかいう優劣論みたいな話に必ずなりますが、広隆寺の宝冠弥勒はそのころの日本の仏像には例がなく朝鮮半島では普通だったアカマツ材が使われていることから、新羅で造られた仏像が日本に伝来したものだ、と韓国では言っています。一方、日本では宝冠弥勒の後頭部や背面の一部に日本の仏像では使われることが多く朝鮮半島では使われないクスノキ材(クスノキは朝鮮半島には自生しない)が使われていることから、新羅の様式を参考にして、取り寄せたアカマツ材か国産のアカマツ材を使い、その不足分をクスノキ材で補って日本で造られたものだ、と言っています。姿がよく似ているといってもどちらも半跏思惟像だからそれはあたりまえで、宝冠はどちらも飾り気のないシンプルなタイプだから似ているようで、よく見れば高さや切れ込みの形などがまったく違っています。つまり外見から宝冠弥勒の由来は特定できません。また日本書紀などに宝冠弥勒のことではないかと思われる仏像が出てくるそうですが、名前が明記されていないので決め手にはほど遠く、使われている木の種類を根拠にするしかないようなんです。(クスノキ材の使用がわかるまでは日本でも新羅で造られたと言っていました。)
 日本説はちょっと都合良すぎるみたいで分が悪いように思えますが、どっちもどっちです。でも、そんな不毛とも思える議論をしなくても、広隆寺の宝冠弥勒がどこで造られたかはちゃんと顔に書いてあります。宝冠弥勒の顔はどう見てもだれが見ても日本人の顔です。日本人だから表現できる日本人らしさの表情だと思います。

 韓国の国立中央博物館の弥勒菩薩像の話なのにいつの間にか広隆寺の弥勒菩薩像の話になってしまいましたが、多くの日本人が広隆寺の宝冠の弥勒菩薩半跏思惟像に魅了されつづけているのは、それが日本人の心の琴線に触れる日本の仏像だからということを、韓国の仏像が教えてくれているみたいです。(こんな説明、韓国の人は納得しないでしょうね。)

石窟庵ソクラム)の釈迦如来坐像
石窟庵の観覧券 次に、慶尚北道キョンサンポクド慶州キョンジュ)市にある石窟庵ソクラム)の石仏があります。むしろこっちが韓国の代表的な仏像になるかもしれません。ソクラムは、近くにある仏国寺プルグクサ:釈迦塔と多宝塔というふたつの石塔で知られる。)とともに世界遺産に登録されています。
 花崗岩を組んだ石窟の中央に本尊の如来坐像があり、その背後と側面や参道に十一面観音像や八部衆像などが36体もズラリと並びます。石仏は花崗岩を彫ったもので、1200年ほど前の統一新羅時代トンギルシンラシデ)のものといわれ、中央の如来像は、指が台座に触れんばかりに右手を垂らす降魔印(触地印)を結ぶ、薬師寺の本尊に似た美しい顔立ちの丈六の釈迦如来像です。この石仏もぼくは女房と一緒にソクラムで観ています。今は保存のためのガラス越しに見るようになっていますが、あのころは世界遺産ではなかったしガラスの仕切りもありませんでした。画像はソクラムの拝観券で「観覧券(持参用) 大人 1,500ウォン 石窟庵」と書いてあります。持参用というのは半券の意味です。

 ソクラムは吐含山トハムサン)という山の中腹にあります。創建は東大寺よりすこしあとのようで(大仏の開眼供養は752年)、774年に建ったと韓国の古文書に記録がある石仏寺ソップルサ)がこれだろうといいます。石仏寺のことだろうと言っていることでもわかるように、昔から大事にされてきて今日まで残っているというのではありません。李氏朝鮮時代イシチョソンシデ)の仏教迫害で荒廃し忘れられていたのが、20世紀初頭の日本の植民地時代に、ひょんなことから発見されました。
 ある郵便配達夫が山を越えようとして嵐に遭い避難した洞窟の中で石仏を見つけた、と言われています。が、女房と見に行ったとき聞いた話はちょっと違いました。ある郵便配達夫が、近くに住むおばあさんが毎日山の中に入って行くのを不審に思って、ある日あとをつけてみたら洞窟に入っていったので自分も中に入ってみると、そこに大きな石仏があり、その前でおばあさんはお供え物をあげてお参りしていた、というんです。なんだか「まんが日本昔ばなし」みたいですが、こっちの方がおもしろい話です。


 発見時のソクラムは倒壊寸前で、統治していた日本がすぐに修復保存の処置をおこないました。朝鮮戦争(1950年6月25日に勃発したので、韓国では625(ユギオ)戦争(チョンジェン)と言います。)のあとに韓国政府が再度修復しています。そのとき日本のおこなった修復は石仏の配置が間違っていたとしてやり直しました。それがあとになって日本のおこなった石仏の配置は正しかったと、韓国の学者が明らかにしましたが、面子にかかわると意地を張ってか予算がないのか、それともクニャンキチャナソ(ただ面倒臭いから)なのか、未だにそのままになっているようです。(2018年2月2日 メキラ・シンエモン)



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