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法隆寺金堂 四天王像

 日本の四天王像でよく知られている代表的なものを古い順に並べると、法隆寺金堂(飛鳥時代)、当麻寺金堂(白鳳時代)、東大寺戒壇堂(天平時代)、東寺講堂(貞観時代)、浄瑠璃寺本堂(藤原時代)、興福寺中金堂(中金堂が再建される前は南円堂、鎌倉時代)となるだろうと思います。各像ともその時代の特徴がよく表れていますが、法隆寺金堂の像はいかにも飛鳥彫刻然としてとても上品な四天王像です。つまり、らしくない、と・・・。


法隆寺西院伽藍 中門
 大宝蔵殿の「法隆寺秘宝展」を観て、次は大宝蔵院を観ようとしたぼくとミキオ君は、拝観券が西院伽藍との共通券になっていて、それは西院伽藍で買わないといけないと知り、西院の金堂、五重塔、大講堂を先に拝観することにしました。

 参道をしばらく行くと前方に不審なものが見えます。なにあれ、建物を修理しているんじゃないの・・・。解体修理中の堂塔でよく見る建物をすっかり隠している覆いが見えていたんです。どのお堂だろう、高さがないから五重塔ではない、位置からみて大講堂でもない、すると金堂・・・、いやあんなに小さくないはず。少し近づいて中門だとわかりました。ほんと、われながら、なんにも調べずに出かけてくるんだから・・・。でもこれは・・・、いや、あんまり調べすぎると旅はおもしろくなくなるもので・・・、というのは51%ほんとうで、のこり49%はぼくらのいい加減な性格を言い訳した負け惜しみです。法隆寺の中門は建築も仁王像も見応えを言えば東大寺で譬えるなら南大門にあたります。つまり、見られなくて残念でした。しかも金堂と五重塔の背景になっているから、ただの残念じゃなくて、べき乗的に頗る残念。

鐘が鳴るなり法隆寺
 法隆寺で秋といえば、柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺、と、正岡子規の句がすぐに頭に浮かびます。子規が法隆寺を訪れたのは10月29日だったというから、ぼくらより半月ほど後です。この句は境内の茶店で休憩中に詠んだそうですが、実は鐘は鳴らなかったという話を昔どこかで聞いたことがあります。俳句も短歌もあったことを記録する文章ではないから、実際の出来事どおりでないのは普通のことです。鏡池の傍に立つ句碑を見ながらミキオ君にその話をして、金堂の方へ歩きはじめたら鐘が鳴ったのでびっくりするやらきまり悪いやら・・・。子規は法隆寺の鐘を聞いていました。

金堂内陣
 金堂内陣は網目の大きなクリンプ金網越しに覗き見するようになっています。動物園で虎の檻の前に立っているみたいで、ぼくらが見ているのか、中から仏さんたちがこっちを見ているのか、といった感じです。
 金堂内は思っていたより光が差し込んでいて明るく、金網から須弥壇までの距離もあまりないから、仏像はよく見えます。顔をぎりぎりいっぱい金網に近づければ再現壁画まで、ああ絵が描いてあるなという程度ですが、見えています。金堂の壁画は超一級品の絵画だから、もっと近くで見られたらいいのに・・・。

 本尊釈迦三尊像の左脇の毘沙門天立像と右脇の吉祥天立像は、さっき大宝蔵殿の「法隆寺秘宝展」で再現彫刻を観てきたばかりです。あれを見てしまったら、やっぱり色が付いていなくっちゃねぇ、と思いました。今ぼくらが目にする色のないくすんだような堂内は建立者の企図した世界ではありません。この古びた感じがいいんだよ、と今日は言えなくなっていました。大宝蔵殿は金堂のあとにした方が良かったかしら・・・。

四天王立像
 ぼくが金堂で観たい仏像は四天王像でした。天井から下がる天蓋で堂内はみっつの間に分けられていますが、須弥壇はひとつで、そこにすべての仏像が載っています。その須弥壇の四隅に約束どおりに四天王像が置かれています。その置き方は独自で、持国天と増長天は正面を向いていますが、広目天と多聞天は外側を向いています。
 どこのお寺でも4躯とも正面(南)を向いているのが普通ですが、ここでは広目天は西を向いて左側面を見せていて、多聞天は東を向いて右側面を見せているのです。どうしてなのかは知りません。想像するに、東西南北を分担して防衛するという四天王の役目を考えれば、須弥壇のうしろに置かれる広目天(西)と多聞天(北)は、こちらに背中を見せるようになるはずなので、それに少しでも近づけようというのかもしれません。(四天王の一般的な配置は、南が守備位置の増長天をそのとおりに置くと本尊の真ん前にきてしまうので、便宜的に全体を45度西にずらして、向かって右端前に持国天(東)、左端前に増長天(南)、左端後に広目天(西)、右端後に多聞天(北)を安置しています。)
 広目天像と多聞天像の光背に銘が刻まれていて作者名がわかります。その名前が同じではないので、4躯とも同じ作者のように見えて、実際は2チームで製作したのではないかとも言われています。ちなみに広目天像の作者山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)は日本美術の本などでは飛鳥彫刻についての記述に必ず名前の出てくる仏師です。金堂の釈迦三尊像の作者鞍作止利(くらつくりのとり)とは異なる漢人系の帰化人東漢氏(やまとのあやし)の出身だといい、日本書紀の孝徳記に、詔を受け千仏の像を刻んだと書いてあります。その千仏の像とは玉虫厨子の内部に貼ってある押出仏の千体仏のことではないかという説があるそうです。

 楠の一木造り。日本最古の四天王像で制作から1400年もの時が過ぎているので、彩色はほとんど剥落し破損個所も見られます。両腕から足元まで垂れ下がる長い天衣(てんね)は百済観音のように先が前の方に跳ね上がっていて、夢殿の救世観音像のような宝冠を頭に載せ、二の腕に臂釧(ひせん)、手首に腕釧(わんせん)というどちらも腕輪のような装身具を着けておしゃれです。
 顔の造作は4躯とも全く同じで、口元に古代の微笑(アルカイックスマイル)はなく眉をひそめた厳しい表情が、派手な忿怒相よりよほど恐ろしく見えます。足を少し開いてつま先を平行に直立不動で行儀よく立つ姿勢に動きはまったくなく、甲冑は控えめで邪鬼も畏まっておとなしく踏み台になっているから、後世の像に見るような四天王像らしさは少しもありません。群像としての変化といえば、広目天像は巻物と筆を持ち、多聞天像は右手で多宝塔を掲げていることと、邪鬼の顔がすべて異なることぐらいです。四天王像は須弥壇の端にいるし金網越しだから、後方で横向きの広目天像と多聞天像はもちろん、前方の持国天像と増長天像も顔や細部はよく見えません。だから以上のことは写真を見てのことです。
 法隆寺金堂の四天王像は、表情も一様で甲冑も目立たず動きのない体勢でおもしろさのない造形ですが、どこか古代の気分が漂うようで、ぼくはちょっと心惹かれるものがあります。写真で観てそうなら、古色濃いお堂のなかで須弥壇の四隅にすっくと立つ姿をこの目で観れば、いっそう強くそう思われました。


 金堂の売店でミキオ君は、ここでも絵はがきのセットを大量に買い込んでいました。来年の年賀状に使う気では、まさかないだろうと思います。ぼくはその辺にあった見本をいろいろ見ていましたが、ずばり「法隆寺」というタイトルのB5の大きさで5mmほどの厚さの冊子に、金堂の再現壁画12面の写真がすべて載っていたので、欲しいと思い買いました。1000円だったから、ちょっと勇気をだして・・・。(2018年11月19日 メキラ・シンエモン)
次はいよいよ最終回、大宝蔵院で橘夫人稔侍仏と百済観音を観ます。


写真:メキラ・シンエモン


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