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法隆寺大宝蔵院 百済観音

 金堂を出たぼくとミキオ君が次に観たのは五重塔初重内部の4面を飾る塑像のジオラマでした。北面の釈迦涅槃の場面と東面の維摩居士VS.文殊菩薩の場面が秀逸です。そのあと大講堂でゆったりと空間を与えられた貞観風と藤原風が混在する薬師三尊像と四天王像を観ました。もうそろそろ午後3時です。大宝蔵殿、金堂、五重塔そして大講堂を続けて観てきたぼくらは、まだ百済観音のいる大宝蔵院が残っているのに、もうお腹いっぱいという気分でした。


大宝蔵院
 大宝蔵院は築20年になる鉄筋コンクリート造りの展示館です。左右に分かれている展示棟が百済観音のお堂でつながっています。防火耐震の現代建築ながら外観は飛鳥様式の建物です。様式は古くても白壁が眩しく柱や梁の丹も鮮やかで、周囲の景観にとけこむことなく異質なものに見えます。まだ新しいからそうなのかと言えば、それだけでもないようで、仏堂ではない展示目的の文化財収蔵庫だということが意識され、周囲から浮いた存在として目に映ってしまうみたいです。亀井勝一郎は「大和古寺風物誌」に、新築されたばかりで木の香りも高い、そのころは宝蔵殿と呼ばれていた今の大宝蔵殿に、初めて入ったときの印象をこう書きました。
「しかしこの宝蔵殿ほど現代人の古仏に対する心理状態をあらわに示しているものはないように思われる。そこにまず看取されたことは、仏と美術品との妥協であった。美術品として鑑賞できるように、つまり博物館式に陳列してあるが、同時に仏としての尊厳も無視しえないとみえて、まさに仏としても拝することのできるようにも並べられてある。この妥協から実にぎこちない構想が生まれる。」(新潮文庫)
ぼくもこれと似たような気分なんだと思います。「大和古寺風物誌」はつづけて法隆寺を非難してもっと辛辣なことも言っていますが、ぼくはそこまでは思わないからそれは紹介しないでおきます。

金堂 復元壁画6号壁
 大宝蔵院には左の棟から入ります。正面に来館者を出迎えるように金堂の壁画の大きな写真が見えます。金堂の土壁には浄土図4面と単独の菩薩像8面、合わせて12面の高さが3mもある大きな壁画が描かれていましたが、金堂解体修理中の昭和24年に、皮肉なことに壁画模写中の不注意による火災で、ほぼ焼失しました。今金堂の壁には新たに復元模写した絵が掛けてあります。復元壁画と呼んでいて、各壁画に1号から12号まで番号を振って何号壁という言い方をしています。
 浄土図のうち唯一どの浄土かがはっきりわかっている6号壁の阿弥陀浄土が、いずれも完成度の高い金堂壁画の中でも最高傑作と言われています。脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は、眼を半分開いて寝起きのような表情のぽっちゃり顔で人気です。特に右の観音菩薩がなんとなく妖艶に見えて大人気です。胸元に珠を繋いだネックレスが見えますが、よく見るとネックレスは後ろで結ばないで、両方の端を左右の耳たぶの穴に掛けて胸に垂らしています。耳飾りなのか胸飾りなのか、どちらにしても人間にはちょっと真似のできない、どこかサディスティックにも見える装着法です。

 大宝蔵院でぼくらを出迎えてくれたのはこの6号壁の阿弥陀浄土図です。確かにすばらしい絵です。仏画としてはもちろんのこと、世界中のどんな名画にも負けない超一級品だと思います。でも、ぼくらが目にするのは実物ではありません。60年前に焼失した壁画の復元模写を、金網があって金堂内陣には入れてもらえないぼくらは写真や映像で観て、いいね、すてきね、すばらしいね、と言っているんです。
 それなら、火災に遭う前の金堂内陣で本物の6号壁を、自分の目で観た昔の人はどう思ったのか。和辻哲郎さんに訊いてみます。
「藥師三尊の横へ來たときわたくしは何氣なしに西の方を見やった。さうして愕然として佇立した。一列に並んでゐる古い銅像と黒い柱との間に、西壁の阿彌陀が明るく浮き出して、手までもハッキリと見えてゐる。」
「本尊の釈迦や左右の彫刻には目もくれずにわたくしは阿彌陀浄土へ急いだ。この畫こそは東洋絵畫の絶頂である。」
「この畫の前にあってはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必要はない。たゞ眺めて酔うのみである。」(「古寺巡禮」岩波書店刊の単行本)
 そのころの金堂は内陣まで入って間近に壁画を観ることができたみたいです。それにしても和辻さん、ずいぶん興奮してベタ褒めですが、本に掲載した写真も、6号壁の全体、中尊の拡大、観音菩薩の腰から上の拡大、その顔の拡大と4枚も付けて特別扱いです。そして観音菩薩をアジャンター石窟寺院の壁画と比べて、
「・・・この畫は日本人の趣味を、――特に推古佛の清浄を愛してゐた日本人の趣味を、現はしてゐるのであらう。」(「古寺巡禮」岩波書店刊の単行本)
と書きました。
 「古寺巡禮」はアジャンター壁画の話から始まります。斑鳩の寺を最後に持ってきたのはそれに呼応させるためだったんでしょう。そして最後は中宮寺と法輪寺の観音像の美しさと荒廃を愛でて終わっていますが、それは6号壁観音菩薩の計算された余韻だったんでしょうか。

玉虫厨子
 金堂の復元壁画6号壁が出迎える左棟は仏像館で、木像、銅像、塑像に分けて展示してあります。夢違観音、九面観音など数々の名作に目移りし焦点が定まりません。ぼくの好きな飛鳥時代の小さな金銅仏も並んでいて、思わず、いいねぇ、いいよねぇ、を連発していると、そうくると思った、こういうのが好きなんだよねぇ、とミキオ君がちょっと混ぜ返します。ぼくは去年の奈良博「なら仏像館」でも同じように金銅飛鳥仏を、いいねぇ、いいよねぇ、と言って観ていたから憶えていたんでしょう。ミキオ君はどうも飛鳥仏は顔が好きじゃないみたいです。

 この棟の一番奥には玉虫厨子(たまむしのずし)が置かれています。これは大宝蔵殿で復元されたものを毘沙門天や吉祥天と一緒に観ました。その美しさに感動したことは大宝蔵殿の回で書きました。
 この工芸品は教科書にも登場するからよく知られていますが、こどものころはじめて写真で見たとき、玉虫なんてどこにも描いてないじゃない、と思い、透かし金具の下に玉虫の鞘翅(しょうし、さやばね)が敷かれているからだと聞いて今度は、こんなにたくさんつかまえて殺したのか、殺生は仏教の理念に反するよ、とは、こどもだから思わないで、玉虫なんて昆虫図鑑の絵しか見たことない、どこにこんなにたくさんいるの、と不思議だったのを憶えています。それから台の部分に描いてある捨身飼虎(しゃしんしこ)という絵は、お釈迦様が前世で餓えた虎の母子のために自分を餌として与えたという話の絵だと聞いたときには、前世の意味を知らないから、死んでどうするの、そんなバカな話あるわけないよ、嘘だ、と決めつけていました。おとなになって今はどう思うのかと言うと、前世ってほんとにあるんでしょうか・・・。

橘夫人稔侍仏
 ぼくはこの阿弥陀三尊がとても気に入っています。右の展示棟に入ってすぐのところにあります。中尊と両脇侍が蓮池から茎を伸ばして咲く三輪の蓮の花に載った意匠はとてもよく考えられています。阿弥陀如来の螺髪(らほつ)はペタンとしていて、螺髪というよりカールで、それがとてもよくできています。表情はもちろん古代の微笑(アルカイックスマイル)です。顔つき身体つきは中尊も脇侍もかわいらしくて、いかにも女性好みに見えます。後屏(こうひょう)と呼ばれる精緻な造りの光背の衝立には、何人もの天人が蓮の花の上で遊んでいてまさに極楽浄土です。
 阿弥陀三尊を収めている厨子がまたみごとな工芸品で、仏壇のはしりのようなものだと言われることもあるようですが、仏壇というよりむしろオシャレな飾り棚でしょうね。金堂の天蓋そっくりの屋根が印象的で、台部に仏画が描かれていますが剥落がひどくてなんの絵なのかよくわかりません。

 橘夫人というのは県犬養宿禰三千代(あがたのいぬかいのすくねみちよ)という女性で、宮中に女官として出仕したのち皇族に嫁ぎますが離婚し、藤原鎌足の次男不比等の後妻となり、のちに出家しました。きっと才能豊かで男勝りの美人だったのでしょう、つまり一言で言うとカッコいい女性。そんな女性だから才気煥発の藤原不比等と再婚したんでしょう。あるいは、あなたしっかり頑張るのよ、と不比等の尻を叩いていたかもしれません。
 不比等との間にできた三女安宿媛(あすかべひめ)が聖武天皇の中宮、光明子です。光明皇后は母親似だったんじゃないかなと思います。篤信家で男勝りで美人だったというから、信心も性格も容貌も母親から引き継いだんでしょう。興福寺の阿修羅像は皇后が母親美千代の一周忌に建てた西金堂に収めるために、仏師将軍万福に造らせた特注品でした。

百済観音
 あまりにも有名な仏像です。歌人、小説家、芸術家、写真家、評論家、美術愛好家などなど、そして普通の人も、昔からあらゆる人が言葉を尽くして絶賛しています。その褒めようは聞いている方が恥ずかしくなるほどです。人気がものすごいから大宝蔵院の中心に一堂を用意して、360度前から後ろから斜めから、心ゆくまでどんな角度からでも見られるようにしてあります。
 しかし楠材で造られているということ以外はなにもわかっていないようで、百済観音という呼び名も大正時代かららしく、ただし朝鮮半島からもたらされたという伝承は昔からあったようで、岡倉天心は「朝鮮風観音」と書いているそうです。もっとも百済を「くだら」と読むのは日本語で、韓国語の発音は「ペクチェ」です。また、朝鮮半島には自生しない楠材を用いているので日本で彫られた観音像だとみられています。

 ところで、これは本当に仏像なんでしょうか。一般的感覚として仏像らしくないので、朝鮮半島から伝わったなどと言われてきたんじゃないかと思います。
 冠に阿弥陀如来の化仏があり、だらりと下げた左手に水瓶を持つのは確かに観音様の定番だから、仏像であることは疑いありません。でもどうも仏さんっぽくない。体も顔も細いというのはほかの飛鳥仏も同じですが、痩せすぎているし2mもある身長の半分は脚です。一体なにを思ってここまでスレンダーにしてしまったんでしょう。三道がないのはまだしも、ここまで細長い体勢は仏像の造形表現としては異例でしょう。細い顔は彩色が剥落していて表情はよくわかりませんが、どうも人間っぽい顔のようです。仏さんらしくないのに、じっと見ているとどこか癒されるものを感じさせます。いや、仏さんらしくないからそうなのか。(三道は首にある3本の線で如来・菩薩の身体特徴のひとつ。三十二相の中にはなく、必ず表さないといけないというわけでもないようです。)

 この観音様ははじめから法隆寺にあったのではないそうですが由来の詳細は不明で、近くの寺院、たぶん中宮寺にあったのではないか、という話もあるようです。尼寺の観音様だったというのはありそうなことです。だとすると、中宮寺には、やはり由来がはっきりしない如意輪観音がいるから、一緒に祀られていた時期もあったんでしょう。それがいつのころかなにかの事情でどちらかひとつだけということになり、如意輪観音に負けて法隆寺に引き取られたんでしょうか。それとも話は逆で、欲しがったのは法隆寺の方だったんでしょうか。はっきりしないことを自由に好きなように想像してみるのはおもしろいですね。

 あれやこれや、いろんなことを、ぼくに思わせてくれる観音様ですが、とにかく百済観音は確かに飛鳥仏で造られてから1300年も経っています。よく残ったものです。この百済観音に限らず、今日まで古い仏像が伝わっているのは偶然ではないはずです。文化財という概念がなく美術品として仏像を見る習慣はなかった時代から大事にされてきたのは、それは信仰の力ですが、その造形の美しさが信仰心に作用したということはあったと考えてもよいだろうと思いますが、それはありがたさを感じさせてくれる美でした。仏像を拝むときの「ありがたい」という心の状態は、感謝を意味する「ありがとう」とはちょっと違う感覚で、畏敬の念を含む日本人的な心理状態の表現じゃないかと思います。

 ぼくらは信仰なしで仏像を観ていますが、ほかの絵や彫刻のように鑑賞しているわけじゃなくて、そこに込められた昔から多くの人々が捧げてきた精誠を心で感じているのであって、荒廃の美とか言って趣がどうのこうのと言うのも、ただ古いからいいというのではなく、わびとかさびとかいうのとも違う、この引き継がれてきた、ぼくらの心をゆさぶる美に接して、むしろ新鮮な気持ちになるのが嬉しいのであって、畢竟ありがたさの美を古仏に見出しているからで、知らずしらずお参りにも似たありがたい気分になっているのです。そしてそれはどのような価値観に対しても寛容という日本的精神の神髄です。百済観音はこれからもずっと半永久的に伝えられていくでしょう。寺は無くなり信仰は消えても日本が日本でいられる限り・・・。


 帰りは南大門から出て松並木の参道を通りました。JR法隆寺駅までトボトボ歩きます。駅に着くまでにどこかでご飯を食べないといけません。朝からなにも食べていなかったのに、ぼくらはお腹がすいていることに気付かないままでした。太陽はもうずいぶん西に傾いて雲は赤く染まり遥か向こうの山際はオレンジ色に光っていました。(2018年11月27日 メキラ・シンエモン)



写真:メキラ・シンエモン


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