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徒然草第40段について −徒然草のDNA−


 徒然草というタイトルは後世の人が付けたものなんだそうです。「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかいひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という、そのよく知られた書き出しからとったものだということは簡単に想像がつきます。
 それにしても、この書き出しはあまりにカッコ良すぎました。「つれづれなるままに」というのは、なにもすることがなくて、という意味だといいますが、兼好さんがこんな書き出しを考えついたのは、きっとそれは照れ隠しだったんでしょう。そう思うと、後世の人が徒然草というタイトルを付けたのは、兼好さんの狙いどおりでした。


 仁和寺にある法師、年寄るまで石C水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はんべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。(岩波文庫「新訂 徒然草」西尾実・安良岡康作校注)

 仁和寺の坊さんが、年を取るまで石清水八幡宮に詣でていなかったことを、ずっと残念に思っていて、ある時思い立って、ひとりで歩いてお参りに行きました。山麓の極楽寺や高良神社などの石清水八幡宮付属の社寺を拝んで、これでよし、と大喜びで帰ってきました。そしてみんなに「積年の想いが果たせました。いやぁもう聞きしに勝るで、そのありがたかったこと。それはそれとして、来る人来る人みんな山に登って行ったのは、なぜだろうと気になりましたが、神様へお参りに来たのだからと思って、山登りまではしませんでした」と話したそうです。
 なんということでしょう。この坊さんは石清水八幡宮の本宮が山頂にあることを知らなかったようで、普通は舟で行ってほかの参詣者と一緒になるところを、ひとりで歩いて行ったりするからこんなことに・・・。やれやれですが、ちょっとのことにもコンシェルジュは要るもんですね。(現代語訳はぼくが考えたものです。この先出てくる段も同じです。)

 懐かしいですね、国語の教科書に載っていた徒然草の第52段です。滑稽な話ですが、解りやすいので、世の中に出回っている、徒然草を人生訓として読む本には必ず出ているようです。でも、こんなことって実際あり得るでしょうか。仮にも仁和寺の老僧が、石清水八幡宮の本宮を知らなかったなんて、ちょっと考えられないでしょう。人と交わらない坊さんだったんだというのなら、帰ってきて周囲の人に話したりはしないでしょう。そうだから、そうだからこそ、兼好さんも珍しい話だと思ったんじゃないの、と言われれば、それまでですが・・・。では、次のこの話はどうでしょう。

 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、たゞ、栗(くり)をのみ食ひて、更に、米(よね)の類(たぐい)を食はざりければ、「かゝる異様(ことよう)の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。(岩波文庫「新訂 徒然草」西尾実・安良岡康作校注)

 因幡の国のなんとかの入道という人の娘は美人だという噂を聞いて、あっちからもこっちからも嫁に欲しいと言ってきましたが、この娘(こ)は、ただ、栗だけを食べて、お米など穀物のご飯を食べなかったので、「こんな変わった子は、嫁にいくべきではないだろう」と、親は結婚を許しませんでした。

 第40段です。「まんが日本昔ばなし」に出てきそうな、なんとも奇妙な話です。だから、この話は、徒然草は人生訓だ、と宣言する解説本の類には絶対に載らないでしょう。ならば、徒然草を人生訓にしてしまった本を読んだ人が、もっと徒然草を読んでみたくなって、なにかのはずみで第40段をうっかり読んでしまったとしたら、なにこれ・・・、仁和寺の坊さんの話はためになる教訓だったけど、こんな変な娘の話なんかどうでもいいね、でも、そんな美人がね・・・、と、きっと思うでしょう。いや、普通の人ならだれでもそう思うでしょう。では、普通ではない人がこの段を読むとどうなるのか・・・。

 普通ではない人というのは、知る人は知る小林秀雄のことで、随筆・評論集「無常という事」のなかに「徒然草」という随筆があって、これが徒然草だよ、という雰囲気で書かれた短い文章の最後に、この第40段の全文を、これこそ吉田兼好なんだよ、と言わんばかりに載せています。
 小林秀雄という権威が、第40段こそは兼好だよ、なんて書けば、ほほう、そうですか、えらいもんですね、と、だれもが、わけがわからなくてもそう思うことにしてしまいます。違っていてもご飯が食べられなくなるわけではないから、そういうことにしておくんです。
 でも、このただの奇談にしか思えない第40段が、どうしてそうなるのよ、と、迂闊(うかつ)にも思ってしまったら、さあ大変、身の程知らず、それが最後、不幸の始まりで、徒然草244段のすべてを読む破目(はめ)になってしまいます。

 ぼくが新年早々こんなことを書いているのは、自分でも怪しいことだと思うから、後々のためにも、わけを明かしておこうと思います。
 そもそものきっかけは、お正月にあるイベント(のようなもの)を企画した知人から感想を聞かれて、それを文章にしたその締めくくりに、第54段にある「あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり(あまりに凝りすぎたことをすると、必ず裏目に出るものだ)」という文言を、原文のまま書いて見せたら、きっとなにか言って来るに違いないと思っていたのになんの反応もなくて、あらら、と思ったということでした。
 これだけでは説明不足なので、もうちょっと書くと、知人の企画を第54段の文言を書いて批判するからには、原文をもう一度ちゃんと読んでおこうと思って、昔買った岩波文庫の徒然草で第54段を読んでいたら、ほかの段も読みたくなって、ところが校注だけで口語訳が付いていないもんだから、解らない言葉などがあると調べるのが面倒くさくて、口語訳のついている、ちくま学芸文庫の徒然草を見つけて買ってきたんです。島内裕子という人の本でしたが、親切丁寧、原文にない言葉を十分に補ってあって、そのわかりやすいこと。でも、ちょっと丁寧すぎたかもしれなくて、徒然草の軽快な文章がやや鈍くなってしまったみたいです。なんて言えば、なにを素人がわかったようなこと言ってんのよ、わざとよ、わざと、わざとそうしてあんのよ、と叱られます。というようなことはともかく、この島内さんという人は放送大学の教授らしいとわかって、BSの番組表を見てみたら、「方丈記と徒然草」という科目があって、さてはもしや、と思ったら、やっぱりそうでした。それで視聴してみたら、もう終わりに近い第13回で、小林秀雄の随筆の話が出てきて、それなら、これも以前買った「無常という事」があったはずだと、本棚から探し出して読んでみた、というわけです。
 ついでにもうちょっとはっきりさせておくと、ぼくが最初に買った徒然草は「日本古典全集 徒然草 橘純一校注 朝日新聞社 初版第23刷」でした。東京の大学の工学部機械工学科の学生だったころで、機械科なのに徒然草を買うなんて、キカイな話ですが、本屋で見て刹那的に読んでみたいと思ったんでしょうね、よく憶えていませんが。次に買ったのが「新訂 徒然草 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫 第99刷」でした。20年ほど前です。やっぱりなんで買ったのか記憶はあやふやです。だから、この2冊は買っただけみたいなものでした。で、その次がこないだ買った「徒然草 島内裕子校訂訳 ちくま学芸文庫 第10刷」です。実は、はじめからこの本を買おうとしたのではありません。家の近くの本屋で、はじめ、講談社学術文庫の徒然草を探しましたが見当たらず、といって、遠くまで探しに行くほどの熱意はないから、ちくま学芸文庫の書架にあったこの本でいいだろうと思って買ったんです。つまり、小林秀雄の「徒然草」という随筆に第40段が出てくることを知ったのは、こういう経緯だったんです。ちょっとした運命の分かれ目でしたね。ちなみに、小林秀雄の「無常という事」(角川文庫 改版19版)を買ったのは、大学生のころでした。
 というわけで、この4冊を読んで、これを書いているんだから、吉田健一の「金沢」サン=テグジュペリの「小さな王子様」鈴木大拙の「禅と日本文化」のときと同じで、無謀なことを、懲りもしないでやっています。

 いつもの悪い癖で要らぬことを書きすぎました。ただの奇談にしか見えない第40段が、なぜ、これこそ徒然草、これが吉田兼好、になるのか、という話をしています。「日本古典全集 徒然草 橘純一校注 朝日新聞社」の第40段の注には「この段はただ奇談逸聞として投入したもの」と書いてあります。ちゃんとした研究者でもこうなんです。それが、小林秀雄が読むと、どうして、これこそ徒然草、これが吉田兼好、になるんでしょう。
 ヒントは島内さんの放送大学の講義と、ちくま学芸文庫のなかにありました、と言うと順序は逆で、先に明かしたように、はじめに島内さんの講義を聞いていたのだから、幕が上がる前に楽屋を覗いていたようなもので、ヒントが問いを誘発していたことになりますが、そのヒントはというと、第40段は次の第41段の意味をはっきりさせ、第41段があってはじめて第40段はただの奇談ではなくなる、というものです。それはどういう意味なのか。第41段にはなにが書いてあるのか。

 五月五日(さつきいつか)、加茂の競(くら)べ馬を見侍(はんべ)りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
 かかる折に、向かいなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股につゐて、物見るありけり。取りつきながら、いたう眠りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ」と言うに、我が心にふと思いしまゝに、「我等が生死(しょうじ)の到来、たゞ今にもやあるらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候(さうら)ひけれ。尤も愚かに候」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍(はんべ)りにき。
 かほどの理(ことわり)、誰(たれ)かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。(岩波文庫「新訂 徒然草」西尾実・安良岡康作校注)

 五月五日、私が加茂神社の競馬を見にいくと、たくさんの人出で、前に出られずよく見えません。向かい側の楝(おうち)の木に登って、幹と枝の股にとりついて観戦する坊さんまでいます。その坊さんが木の上で舟を漕ぎはじめました。それを見て人々は、「なんというバカモンだろうね。あんな危ない木の上でウトウト居眠りなんかしているよ」と言って笑います。それを聞いて私は、「人生いつ終わりが来るか、今この瞬間かもわからない。それを忘れてこうやって見物に来ている我々の方がよっぽどバカですよ」と、ふと思ったことを口にしました。それが前の方にいた人たちの耳にも聞こえて、「いやぁ、まったくそのとおりだ。我々こそバカですな」と言い、一斉に後ろを振り向いて、「ささ、こっちへお入りください」と言って、場所を開けてくれました。
 この程度のことならだれでも思いつくのに、人は木や石ではないから、時と場合によっては、こんなことで感心してしまうことがあるんですね。

 島内さんは、この第41段を第40段と合わせて読むことで、この日から兼好さんは変わったということがわかると言っています。なにが変わったのか。それまでの兼好さんは書籍のなかに友人を見出すほどの、本ばかりを読んで他人との交渉はほとんど持たない人だったのが、加茂神社の競べ馬での、このなにげないひとりごとがその契機となり、人々の間に入っていくようになったのだというのです。つまり第40段の栗しか食べない娘は、それまでの兼好さんを象徴的に描いたものだったということです。そして、この第41段は徒然草の転換点になっているのだと言います。そう言われてみれば、なるほど、第41段以降とそれまでの段とでは、ちょっとちがう雰囲気かもしれないし、確かに第41段から俄然おもしろくなっています。

 もちろん、小林秀雄は随筆に、こんなことはなにも書いていませんが、第229段の「よき細工は、少し鈍き刀を使ふという」を踏まえて、「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう」と前置きして第40段の全文を載せ、その後に続けて「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなにたくさんのことを感じ、どんなにたくさんのことを言わずに我慢したか」と書いて、徒然草を言い切ったのは、やはり第40段を第41段とセットにして読んだということだったんだろうと思います。
 小林秀雄が読んだ徒然草は人生訓でも人生論でもなかったのです。小林秀雄の目には吉田兼好は遁世者でも厭世論者でもなかったのです。物が見えすぎて物が解りすぎて、なにをしても気が紛れることのない困った人が、吉田兼好だったと感じていたんでしょう。
 吉田兼好は人生の達人だとよく言われます。人生の達人とはどういうことを差して言うのか、ぼくにはよくわからないのですが、上手に生きるという意味なら、兼好さんが達人だったとは思えず、と言って下手というのでもなく、生きるのがどこか辛そうな人に見えて、世間的な意味になるかもしれませんが、人生をやりそこなった人、いや、やりそこなうしかなかった人ではなかったのかな、という印象です。

 人生の達人かどうかはともかく、兼好さんは確かに文章の達人でした。ただたくさん本を読めば名文が書けるかと言えば、そうではないはずで、作文の技術のようなものは確かにあるんだと思いますが、それより、名作名文は、なにを見てどう感じたかという、感性が決めるようです。
 名作名文揃い踏みの徒然草で、ぼくが特におもしろいと思った、あるいは深く心に感じ入った段は、第10段第11段第39段第43段第47段第115段第137段第138段第141段第144段第148段第206段第207段第215段第229段第236段、そして最終段の第243段でした。
 なかでも第10段第39段第144段第215段第236段は、もう最高ですが、最後の段になる第243段は、別格に最高ですね。ぼくはこういうのが大好きなんです。

 最終段は、早熟だった自分のこども時代の、ただの自慢話のようで、そうではありません。この段がなぜ最後に置かれたのか。偶然じゃないでしょう。そんな偶然を許すような兼好さんじゃありません。第243段まで書いたところで、なにかの事情で後を続けて書くことができなくなった、というんじゃ、絶対にない。つまり第243段で終わっているのは、はじめからの計画です。なぜなら、この最終段はみごとに序段と呼応していて、序段から第242段まで読み通して、はじめて最後の第243段のおもしろさがわかるし、第243段が最後にあるからこそ、徒然草は各段がバラバラにならずに全体としてひとつの随筆になります。
 あるいは、この第243段は、「心に移りゆくよしなし事」の中の、最初に心に浮かんだ事で、この随筆を書くきっかけとなった情景だったんでしょう。最初に書いてもいいことを、わざと最後に書いたんです。だから、この最終段は、序段を書く前から用意していたものにちがいなく、この余韻を残す文章こそが、兼好さんの真骨頂です。ぼくはこういうのが大好きなんです。
 では、その第243段です。

 八つになりし年、父に問いて云わく、「仏は如何なるものにか候(そうら)ふらん」と云う。父が云わく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問う、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教(おしへ)によりて成るなり」と答ふ。また問う、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふる、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問う、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云う時、父、「空より降りけん。土より湧きけん」と言いて笑ふ。「問い詰められて、え答へずなり侍(はんべ)りつ」と、諸人(しょにん)に語りて興じき。
(岩波文庫「新訂 徒然草」西尾実・安良岡康作校注)

 数え年八つのころ、父に訊きました。「お父さん、仏ってどういうものなんですか」、「仏は人が成るんだよ」、「じゃ、人はどうやって仏に成るんですか」、「そりゃ、仏の教によって成るんだよ」、「それじゃ、その教を教えた仏を、だれが教えたんですか」、「だれって、それも先にいた仏の教なんだな」、「すると、その教を教え始めた、一番目の仏はどんな仏だったんでしょう」、「なにっ、・・・そりゃ、なんだよ、おまえ、・・・それはだな、空から降ってきたか、土の中から湧いて出たか、・・・したんだろうよ」と、そう父は言って笑いました。そして父はどこへ行っても誰に会ってもこの話をして、「息子に問い詰められて、答えられずに、いやぁ、まいった、まいった」と言っては、おもしろがっていました。

 なんだかはじめから父親が答えられないとわかっていて訊いているみたいです。嫌なこどもですねぇ。父親の方が利発な我が子を自慢して無邪気です。いや〜、でも、実にいいお父さんですよ。もし、ぼくが徒然草から学ぶことがあるとすれば、このお父さんだけですね。
 それはともかく、ここが徒然草を書いた吉田兼好という人の原点だったということは、きっと言っても良いのにちがいありません。でも、そんなこと、どうもナイーブなところがあったらしい兼好さんにとっては、あんまり照れ臭いから、最終段でにおわせることにして、序段は「つれづれなるままに」と書きはじめることで、わざとボケて見せたんだと思います。


 これだけで終わったなら、この程度のことならだれでも考えそうなことだから、「通りがかり」らしくありません。えぇ〜、やっと終わってくれたと思ったのに・・・、まだ続ける気ですか、長くなりすぎませんか、もう十分長すぎるんだけど・・・。やっぱりそう思いますか、でも、原文を全文書いてさらに現代語訳をつけたから長くなっただけで、中身そのものは短いよ、ここで終わったら普通に徒然草の感想文だからね。ということで、「徒然草のDNA」です。
 徒然草のDNAなんて言うと・・・、どうせ、また、徒然草には源氏物語や枕草子、方丈記なんかのDNAが受け継がれていて、徒然草のなかで進化したそのDNAが、近現代の散文文学のDNAに組み込まれた、なんてことでも書くんでしょう、と思ったかもしれませんが、そんなデタラメなこと・・・、まさか。第一、機械工学科をやっとのことで卒業できたというくらい出来が悪く、下手の横好きで飛行機のプラ模型ばかり作って、ろくすっぽ本を読んでこなかったぼくに、そんな難しい文学論みたいなものが、書けるわけがありません。じゃ、「徒然草のDNA」って、なんのことなのか・・・。

 第40段と第41段はセットで読むことで、両方とも、その意味が伝わりましたが、これは徒然草全体に言えることなのかもしれません。もし、徒然草を、これは教訓だ、これは名人上手の話だ、これは有職故実(ゆうそくこじつ:宮中のしきたり、慣例)だ、これはおもしろく思ったことだ、これは感じ入ったことだ、これは・・・ただなんとなく書いたのかな、というように、種類分けして読んでしまったら、徒然草はほんとうにつまらないことになってしまうでしょう。異なるテーマの話が自然に散らばってしまったように見えて、本当は理由があって絶妙に配置されているんじゃないかと思います。
 そう思ったのは、小林秀雄が随筆の最後で第40段の全文を掲げて、これが吉田兼好だと、徒然草を言い切ったのは、第40段がただの奇談ではなかったからだということを知ったとき、ノンコーディングDNAというものを連想してしまったからでした。

 DNAという言葉を遺伝子という言葉とあまり区別しないで普通は使っていますが、厳密にはDNA=遺伝子ではありません。DNAは4種類の塩基と呼ばれる分子が、気が遠くなるほどたくさん連なった、遺伝情報を記録したヒモ状の細長い分子ですが、その塩基の並び方のことをDNA配列(塩基配列とも)と言っています。DNAの機能はタンパク質を合成することですが、タンパク質をコードする、つまりどんなタンパク質を作るかという遺伝情報を持っているDNA配列が遺伝子で、それ以外のDNA配列はノンコーディングDNAと呼ばれています。
 このノンコーディングDNAは要らないものだと、ずっと思われてきたのが、それが近ごろは、どうもそうではないようだ、ということになってきました。ノンコーディングDNAのなかに、遺伝子の発現の時期や場所などの指示を出すという、タンパク質の合成はしないけど、そのスイッチを入れたり切ったりしているDNA配列があることがわかったからです。それで、そのほかの役割のないように見えるDNA配列も、それはまだ解明されていないだけで、本当に要らない部分はきっとごくわずかだろうと言われています。ひょっとすると、要らないDNA配列など存在しないのかもしれません。人もそうであるようにね。

 そこで、徒然草の第40段です。単独では意味不明でしたが、第41段とセットで読むことで、その意味がわかりました。それどころか、第41段は第40段によってその本当の意味が伝わりました。そうすると、有職故実を書いた段や、なんの意味があるのかわからない、おもしろそうなことだから書いてみただけ、みたいに見えるたくさんの段は、ただの「よしなし事」だったんじゃなくて、実は、徒然草をひとつの随筆に形作っている仕掛けであって、それがあちこちに散らばっているのも、「心に移り」いったからじゃなくて、ここにはこれ、あそこにはあれ、と、兼好さんが考えて仕込んだ、ノンコーディングDNAだったんじゃないだろうか、という気がします。
 もしそうだったのなら、徒然草には、仕込み方がうますぎてだれも気付いていない、兼好さんの仕掛けがたくさんあるのかもしれず、その気配を、小林秀雄は、持ち前の鋭い感性で敏感に嗅ぎ取って、でも気取った人だったから、「鈍刀を使って彫られた名作」と言って、表現しようとしたんじゃないのかな、と思います。

 そういうことにしてみたら、三つ四つの文章ならいざ知らす、244もの文章を、書くのに何年かかったのか知りませんが、パソコンもないのに、絶妙に配置するなんて・・・、どれだけ考え抜いて書いたんだか・・・。しかも一つひとつの段はどれもこれも名文なんだから、兼好さんは、やはりすごい人でした。小林秀雄が「文学史上の大きな事件」と言い、「絶後とさえ言いたい」と書いたのは、「純粋で鋭敏な批評家の魂」についてだけ言えることでは、なかったのかもしれません。

 そんなことなどを思うと、「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかいひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」なんていうのは、いかにもカッコつけすぎの"嘘"に思えてしまいます。あるいは、そんな人だから、・・・なるほど、「あやしうこそものぐるほし」くなるはずで、そこだけは"嘘"ではない"本当"だったみたいです。


 今年の金沢は、雪は降っても積もらないはずだったのに、きのうの晩あたりからの雪は、約束破りのようにたくさん積もってしまいました。でも、きれいです。市内も郊外も、神様に祝福されて、一面真っ白です。あれっ、窓の外を、礼服を着た夫婦が、雪で滑るのか、手を繋いで歩いて行きます。白いネクタイが見える。手には引き出物。結婚披露宴の帰りですね。今日のような、雪が美しく積もった日に、結婚式を挙げたカップルは、きっといつまでも幸せな夫婦でいられるんでしょうね。
 また、雪が降りだしました。披露宴帰りの夫婦も傘を広げています。ハクション。おっと、いけない、インフルエンザA型が流行っています。そうだ、こういう時は、くさめ、くさめ。用心しないと・・・、くさめ、くさめ。(2019年1月26日 メキラ・シンエモン)

「くさめ、くさめ」は第47段に出てきます。



徒然草の各段

 ぼくが特におもしろいと思った、あるいは心に深く感じ入った段を書いておきます。原典、現代文、所感の順に書いてあります。原典は「岩波文庫 新訂 徒然草 西尾実・安良岡康作校注」から、現代文は自分の考えた訳です。


第10段
 家居(いへゐ)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
 よき人の、のどかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一(ひと)きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 多くの工(たくみ)の、心を尽してみがきたて、唐(から)の、大和(やまと)の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
 後徳寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に、鳶(とび)ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心(みこころ)さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍(はんべ)るに、綾小路宮(あやのこうぢのみや)の、おはします小坂殿(こさかどの)の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例(ためし)思い出でられ侍(はんべ)りしに、「まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。大寺にも、いかなる故か侍りけん。

現代文
 住まいの様子が住んでいる人に似つかわしく、こんな家がいいなと思う感じになっているのは、この世は仮の宿とは思っても、やはり興味深いことだ。
 身分も教養もある人が静かに暮らしている屋敷は、差し込む月の光さえしみじみとして見える。このごろ流行りでもなく豪華さもないが、木々も大きく育ち自然のままの庭の草花も趣があって、簀子や透垣もいい感じなら、室内の道具も昔風の落ち着いた雰囲気なのは、なんとも奥ゆかしい。
 そこへいくと、多くの大工が職人技の限りを尽くして建てた豪邸に、舶来、国産、珍しいもの、凝ったものなど様々な道具類を並べ置き、庭の草花まで調和もなにも考えないで不自然に植えているのは、汚らしくて、ほんとうに嫌な感じだ。そんなことをしてみたところで、そのまま長生きしてずっと住むわけでもないだろう。どうせ、あっという間に燃えて灰になってしまう、と見ている間にも思えてくる。そんなわけで大方は、住まいの様子で住んでいる人のことは察しがつく。
 ところで、後大寺の大臣の寝殿に鳶がとまらないようにと縄を張っておられるのを、あの歌人の西行が見て「なにこれっ、鳶が来たらどうだっていうんだ。ここの殿のお心もその程度でしたか。」とか言って、それから訪れることはなかったと聞いたことがあったけれど、綾小路の親王のいらっしゃる小坂殿の棟に、いつだったか縄を架けられていたので、後大寺の大臣のことを思い出して、どうしたことかと訊いてみると「そのことですよ、カラスが群れで飛んできて池のカエルを捉まえてしまうのを見て旦那様はたいそう悲しまれて・・・。これはカラス除けです。」と家の人が答えたのは、なるほど、そういうことだったのか、と慈悲深いことに思われた。そうしてみると、後大寺の大臣のところもなにかわけがあったのかもしれない、という気がする。

所感
 この段は比較的長めです。はじめは、見ればわかるもんだよ、と言っておきながら、最後は、聞いてみないとわからないもんだよ、に変わっています。後大寺のところもわけがあったかもしれない、と兼好さんは思ったわけですが、でも、この一言は西行さんにはちょっとかわいそうかもしれません。この西行さんの逸話は『「古今著聞集」第十五』という本に出ているそうですが、兼好さんが、あの後大寺邸の縄もなにかわけがあったのかもしれんなぁ、なんて言ってしまうと、西行は縄のわけを聞いてみたのかな、歌人としては古今随一なんだけどねぇ・・・、と揶揄している、近ごろの表現で言うと、いじっているようにも取れます。いや、からかっているんじゃなくて、やっぱりこれは西行さんの人柄を疑っていました。そうでないなら、この段の最後は、後大寺大臣とは違いました、と結んだはずです。もっともそれではこの段の意味は半減し、おもしろくなくなりますが・・・。
 それはそうとして、池のカエルをカラスに狙わせないために景観をだいなしにしてまで縄を張るなんて、もう最高です。でも、そのくらいのことで、つまり縄を張ったくらいで、カラスがカエルを諦めるでしょうかねぇ。兼好さんは知りませんでしたが、カラスは肉食恐竜の一種、小型獣脚類の末裔(スズメでもヤンバルクイナでも鳥はすべてそうですが)で、鳥の中でも特に利口で撃退しようにも一筋縄ではいかないことを、ぼくらはよく知っています。あるいは南北朝時代にはゴミステーションなんてものはなかったから、カラスもまだそれほどズル賢さはなく純朴だったかもしれません。



第11段
 神無月のころ、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある里山に尋ね入る事侍(はんべ)りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋(かけひ)の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあわれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まわりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

現代文
 11月ごろ、栗栖野というところを過ぎた辺りから、ある里山に分け入ったことがあったが、苔に覆われた細い道をずっと行くと、なんともものさびしい感じの庵があった。落ち葉に埋もれた懸樋からしたたる水の音のほかは、なにも聞こえてこない静寂。閼伽棚に菊やモミジが供えてあるのは、さすがに人が住んでいる様子だった。
 こんなにしてでも人が暮らせるものなんだな、と随分感心しながら見渡すと、向こうの庭に大きなミカンの木があって枝もたわむくらいに実をつけていたが、周りを厳重に囲っていたのには、少々興醒めしてしまい、この木がなければなぁ、と思った。

所感
 "少しことさめて"どころじゃないでしょう。まったく雰囲気ぶち壊し、勘弁してよ、と言いたくなるくらいで、読む方としては、ああ、いい感じ、と心に思い描いて雲の上にいたのが、警報も鳴らずに突然地対空ミサイルで撃墜された気分です(そんな経験はもちろんありませんが)。住まいの様子に関することだから、前の段からの続きになっているわけですが、ここでも、あれれっ、と思ったことを印象深く書いています。でも、このミカンの木はその庵の人の所有なんでしょうか。"かなたの庭"というんだから、いくらか離れて立っているんでしょう。すると、別人の所有かもしれず、たまたま見えるところにあったのなら、なんでそんな雰囲気ぶち壊しの木があるようなところに庵を結んだ、ということになるし、あるいは、ミカンの木の持ち主が別にいて囲をしたのなら、庵の住人に取られないようにしているのかもしれません。ミカンの木を囲ったのがだれでも同じことで、兼好さんは庵の人にがっかりさせられて悔しかったんでしょう。



第39段
 或人(あるひと)、法然上人(ほふねんしゃうにん)に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍(はんべ)る事、いかゞして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊(たふと)かりけり。
 また、「往生(わうじゃう)は、一定(いちぢゃう)と思えば一定、不定(ふぢゃう)と思えば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

現代文
 ある人が法然上人(ほうねんしょうにん)に「念仏の時、睡魔に襲われて、集中できません。どうしたら眠くならずに済みますか。」と訊きくと「それなら、目が醒めている間だけ、念仏すればいいよ。」とお答えになりました。なんと尊い言葉でしょう。
 また「極楽往生できるんだと思えばできるし、できないなと思えばできないよ。」とも言われました。これも尊い言葉です。
 そしてまた「疑いながらも念仏すれば、極楽往生するもんさ。」とも言われました。これもまた尊い言葉です。

所感
 金沢は前田の殿様が入る前は一向一揆の中心地で、今でも真宗王国と言われていて昔から浄土真宗が盛んです。だから親鸞聖人ばかりが持てはやされていて、浄土宗を始めた法然上人は影が薄い印象です。でも、この段を読むと法然上人に拍手を送りたくなり、グッと親しみが湧いてきます。起きている時だけ念仏すりゃいいよ、だなんて、ほんと最高です。疑っても念仏すれば極楽行だよ、とは、なんと優しい言葉でしょう。兼好さんも"尊し"の連発なわけです。兼好さんは法師と言っていますが、沙弥戒を受けていても具足戒は受けていない、どの宗派にも属さない見かけだけみたいな坊さんだったから庶民的な、あるいは在家信者的な感覚で法然上人に感服していたようです。



第43段
 春の暮(くれ)つかた、のどやかに艶(えん)なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎(しを)れたる花見過(みすぐ)しがたきを、さし入りて見れば、南面(みなみおもて)の格子(かうし)皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾(みす)の破れより見れば、かたち清げなる男(をとこ)の、年廿(としはたち)ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文(ふみ)をくろひろげて見ゐたり。
 いかなる人なりけん、尋(たづ)ね聞かまほし。

現代文
 春もそろそろ終わりかと思うころ、のどかでよく晴れた空の下を散歩に出ると、身分のある人が住んでいそうな邸宅があって、その広い庭は木々も立派で桜の散り方も感じがよくて見過ごせなかったので、そっと入ってみれば、寝殿の南側の格子戸はすべて下りてひっそりしていたが、東に向いた妻戸はちょうどよい具合に開いていて、簾の破れから覗くと、清々しい青年が、年は二十歳ぐらいだろうか、くつろいでいながら奥ゆかしく、ゆったり落ち着いた様子で、机の上に本を広げて見ていた。
 どういう人なのか、ちょっと尋ねてみたくなった。

所感
 第10段の飛び地のような感じです。その場に自分もいて一緒に見ているような気にさせる優れた情景描写です。家の感じと中にいる人の感じが一致して、それが兼好さんの好みに合ったらしく興味津々だったようです。爽やかで気持ちが和む段です。この青年のように清々しい印象を人に与えられたら、どんなにいいでしょうね。



第47段
 或人(あるひと)、清水へ参(まゐ)りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)、何事をかくはのたまうぞ」と問ひけれども、応(いら)へもせす、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて、「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひきみ)の、比叡山(ひえのやま)の児(ちご)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言いけり。
 有り難き志(こゝろざし)なりけんかし。

現代文
 ある人が清水寺にお参りに出かけて、年取った尼さんと道連れになると、その尼さんはしきりに、「くさめ、くさめ」と言って歩いているから「もし、尼御前、なにをそんなに唱えているんですか」と訊いてみたが、一向に答えないで尚も唱え続けるので、何度も尋ねると、そのうち尼さんも腹を立てて「うるさい男だね、ほんとに。知らないのかい、くしゃみをしたときは、こうやっておまじないをしないと死ぬと言うでしょうが・・・。わたしが乳母になってお育てした若君が比叡山の稚児になっておられて、今この時もくしゃみをされてはいないかと心配で、こうして唱えているんですよ。まったく、もう・・・」と言った。
 なんと主人思いの殊勝な心だろうか。

所感
 おもしろい話です。このある人は「くさめ くさめ」というおまじないを知らなかったのですが、尼さんにしてみれば、「知らないの、常識でしょ」といった感覚だったんでしょうね。それはともかく、忠誠心の強い、そして気の強い尼さんですが、兼好さんもこの話を聞いて深く感じ入って書かずにはいられなかったのでしょう。それにしても、尼さんがそこまで心配するのは、この若君はよほど風邪をひきやすい体質だったんでしょうか。この時代にはまだ花粉症はなかったと思いますが・・・。



第115段
 宿河原(しゅくがはら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品(くほん)の念仏を申しけるに、外(ほか)より入り来るぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候(さうら)ふ。かくのたまうは、誰(た)そ」と答ふれば、「しら梵字(ぼんじ)と申す者なり。己(おの)れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢い奉(たてまつ)りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍(はんべ)りき。こゝにて対面し奉らば、道場(だうぢゃう)を汚し侍(はんべ)るべし。前の河原へ参(まゐ)りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方もみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍(はんべ)るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかり貫き合いて、共に死にけり。
 ぼろぼろというもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執(がしふ)深く、仏道を願ふに似て闘争(とうじやう)を事とす。放逸(ほういつ)・無慙(むざん)の有様なれども、死を軽(かろ)くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍(はんべ)るなり。

現代文
 宿河原というところに、ぼろぼろがたくさん集まって、九品の念仏修行をしているとき、ほかから来たぼろぼろが「もしやこの中に、いろをし坊と申されるばろはおられますか。」と尋ねた。集まっている中のひとりが「いろをしはここです。そう聞かれるのはどなたです。」と答えると、いろをしを探していたぼろぼろは「しら梵字という者です。師匠の何某と申した者が東国でいろをしと申されるぼろに殺されたと聞き、その人にお会いし恨みをはらさせていただこうと思い、お尋ねしました。」と言った。いろをしは「よくぞ尋ねてこられました。そういうことがありました。しかし、ここでは道場を汚してしまいます。前の河原へ下りることにしましょう。恐れながら、みなさん、どちらの味方もされませんよう。大勢で関われば仏事の妨げとなります。」と話を決め、二人で河原に下りると、気の済むまで切り合って、どちらも死んだという。
 ぼろぼろというのは、昔はいなかった。少し前に、ぼろんじ・梵字・漢字などと名乗る者が出て、それが始まりだったという。世捨て人のようで執着心が強く、仏道に従うようで闘争を好む。身勝手で無恥な連中だが、死を軽く考え生にしがみつかないところは、いかにもいさぎよく思えて、人から聞いたままを書いておいた。

所感
 「ぼろぼろ」というのは、これは虚無僧(こむそう)のことだとも、その原型のようなものだといいますが、編み笠に尺八を吹くという普通に知られている虚無僧とは別だともいいます。また普化宗(ふけしゅう)の僧だといいます。普化宗というのは日本の仏教で、普化という人を祖とする臨済宗の一派だそうです。それにしても「ぼろぼろ」「ぼろ」とは「ぼろんじ」から出た呼び名だそうですがおもしろいし、心ゆくまで切り合って双方死んだというのは強烈です。師匠の恨みをはらす、即ち仇討でしょう。相手も逃げなかった。仇を討とうとしないこと、あるいは挑まれて逃げることは世間に、特に仲間に、顔向けできなかったんでしょう。死を軽く見て生に執着しなかった、と兼好さんは言っていますが、死ぬことは生きること、生きることは死ぬこと、死ぬことと生きることは同じこと、という価値観なんじゃないでしょうか。徒然草のテーマは、死ぬということを知りつまらぬことにかまけて無駄に人生を送るようなことはやめよう、ということですが、ぼろぼろは生き方がはっきりしていて、少なくとも、"つれづれわぶる人(第75段)"ではなかったから、兼好さんもいさぎよさに感じ入ったんでしょう。それでも肯定しがたいところもあり、人から聞いたことをそのまま書いた、として、批評を保留しているようにも見えます。あるいは武士の死生観を意識していたかもしれません。



第137段
 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(ゆくへ)知らぬも、なほ、あはれに情(なさけ)深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(さは)る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕(した)ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

現代文
 桜は満開、月は陰りのないときだけを、見るものなんだろうか。雨の夜に月を思い、外に出られないで春がすぎていく情景を見ることができずあれこれ思うのも、むしろ一層、趣深いことじゃないだろうか。開花したばかりでまだ花の数も少ないころ、花が散り地面を覆う庭などこそは、ほんとうは見るべきところが多いものだ。歌の詞書にも「花見に行ったところ、もう散っていて、行くのがちょっと遅かったようで」とか「ちょっと訳があって行けなくて」などと書いているのは「花を見て」と言うのにちっとも劣らない。花が散りかけ、月が傾きかけているのを惜しむのは人情だが、本当の風流さというものを知らない人が「こっちの枝もあっちの枝も散ってしまった。見るとこなしだ」と言うのである。

所感
 有名な冒頭の部分だけを書きました。この段は上下の巻に分かれている徒然草の下巻の最初の段で、短文ばかりの徒然草の中にあって際立って長く、でも、この冒頭部分が全てで、あとはその展開と言ってもよいのではないかと思います。あとの部分には、ちょっと言い過ぎだな、くどいよ、と思うところもあって、ぼくは好きになれないかもしれません。この冒頭部分だけ読んで雰囲気に浸ることにします。

(第10段から第137段まで 2019年3月4日 メキラ・シンエモン)



第138段
 「祭過ぎぬれば、後(のち)の葵(あふい)不用なり」とて、或人の、御簾(みす)なるを皆取らせられけり侍(はんべ)りしが、色もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(すはうのないし)が、
 かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり
と詠めるも、母屋(もや)の御簾に葵の懸(かゝ)りたる枯葉を詠めるよし、家の集(しふ)に書けり。古き歌の詞書(ことばがき)に、「枯れたる葵にさして遣(つか)はしける」とも侍り。枕草子にも、「来しかた恋しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明(かものちゃうめい)が四季物語にも、「玉垂(たまだれ)に後(のち)の葵は留(とま)りけり」とぞ書ける。己れと枯るゝだにこそあるを、名残なく、いかゞ取り捨つべき。
 御帳(みちゃう)に懸れる薬玉(くすだま)も、九月九日(ながつきこゝのか)、菊に取り換へらるゝといへば、菖蒲(しゃうぶ)は菊の折(をり)までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮(びはのくわたいこうくう)かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ根をなほぞかけつる」と辨(べん)の乳母(めのと)の言へる返事(かへりこと)に、「あやめの草はありながら」とも、江侍従(ごうじじう)が詠みしぞかし。

現代文
 「加茂祭は終わった、もう飾に使った葵はいらない」と言って、御簾に付けた葵を全部とってしまう人がいるのは、愛想もなにもないことに思える。それが身分も教養もある人のしたことだったから、それでいいのかなと思ってしまったが、周防内侍(すおうのないし)が、
 祭りが終わっても御簾に葵をかけておきますが、あなたと一緒に見ることがないのなら、それはただの枯れ葵ですよ
と詠んだのは、母屋の御簾にかけている枯れた葵だったことが彼女の歌集の詞書からわかる。また、昔の歌の詞書にも「枯れた葵に挟んで送った」と書いたものがある。そして枕草子にも「過ぎた時が恋しく思えるものは枯れた葵だね」と書いてあるのは、本当にそうだと思う。それから鴨長明の「四季物語」に和泉式部の「玉垂(美しい御簾)に祭りの葵はそのままで・・・」の歌が載せてある。というように様々な例をみても、葵が自然に枯れてしまうのですら名残惜しいのに、祭りが終わったからと、さっさと取り外してしまうなんて、とんでもないことだ。
 葵に限らず御帳にかける薬玉も9月9日に菊に取り換えるということは、5月の菖蒲はその時までそのままにしておくということだ。三條帝の中宮、枇杷皇太后宮が亡くなられたあと、古い御簾の内に、菖蒲や薬玉などの枯れたままにしてあるのを見て「季節外れの菖蒲の根をまだかけたままにして・・・」と弁の乳母が詠んだ歌の返しに、江侍従が「菖蒲の花は今もそのままあるのに・・・」と詠んだというではないか。

所感
 先の段の続きとも読めます。余韻を楽しむ、あるいは名残を惜しむ、ということなんでしょう。なんでも事務的機械的無機的に処理してはいけないと言うんでしょう。それが風流というものであり、真の教養というものだと言っているようです。間違っても、未練がましいのがいいとか、いつまでも片付けないでダラダラしているのがいいとか言うのではないでしょう。
 あとを引きずることを嫌い、嬉しさも悲しさも、事が終わればさっさと気持ちを切り替えていち早く通常に戻るべし、という価値観に支配されているのが今のぼくらです。仕事に支障があるとか、スピードが要求されるとか、しっかり者に見えるとか、大抵はそんな理由なんですが、そうでないと評価してもらえない世界にぼくらは生きています。でもそういう世界は、なんだか作り笑いの相手がいなくなるやいなや一瞬で無表情に戻るのに似ているようで、そのままにしておこうよ、という気分は情緒があっていいなと思います。そんなことではこのせわしない世の中、とうていやってはいけないのですが・・・。



第141段
 悲田院尭蓮上人(ひでんゐんのげうれんしゃうにん)は、俗姓は三浦の某とかや、双(そう)なき武者(むしゃ)なり。故郷(ふるさと)の人の来たりて、物語すとて、「吾妻人(あづまうど)こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、己(おのれ)は都に久しく住みて、馴れて見侍(はんべ)るに、人の心劣れりとは思い侍らず。なべて、心柔かに、情けある故に、人の言ふほど事、けやけく否(いな)び難くて、万(よろづ)言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんと思わねど、乏(とも)しく、叶わぬ人のみあれば、自(おのづか)ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏(ひとへ)にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑(にぎ)はひ、豊なれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教(しゃうげう)の細やかなる理(ことわり)いと辨(わきま)へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくゝ成りて、多かるる中に寺をも住持せらるゝは、かく柔(やわら)ぎたる所ありて、その益(やく)もあるにこそと覚え侍りし。

現代文
 悲田院尭蓮上人(ひでんいんのぎょうれんしょうにん)は、俗名は三浦某といい、かつては並ぶ者がないほどの荒武者だったという。その生まれ故郷の人が訪ねてきて「東国の人は頼りになりますが、都の人は口でうまいこと言うだけで、誠実さがないようです。」と語ったのを、上人は「それはそう思えるかもしらんが、いや、わしも都は長くなってすこし馴れてみると、都の人が不誠実とも思えん。大方こちらの人は心が優しく情に篤く、人に頼まれるとはっきり断ることができないから、どんなことでも、つい、いい顔をしてしまう。嘘をつく気はないのだが、なにせ貧乏な人ばかりで、思い通りにならん事も多い。そこへいくと、生まれ故郷のことながら、東国の人はどうも心の優しさが足りず情も薄い、なにごとにつけだめだと思えば言下に断ってしまう。東国は暮らし向きがよいから、人は頼っていくのだ。」と自分が考えるところを話された。この上人は声もしわがれ荒々しくて仏教の奥義などわかっていないように思っていたが、この言葉を聞いてみれば、なかなかの人物に思えてきて、僧侶も多い中で一寺を任されるのも、このような優しいところがあり、その資格があってのことか、なるほど、と思った。

所感
 この上人は都の人を好意的に見ていて、自身都の人間である兼好さんは嬉しかったんでしょう。もしこれをコミュニケーション論として見るなら、田舎の人とはその言葉のままに付き合えばよく、都会の人と付き合うにはその言葉を額面通りに考えてはいけないと言っているようにも思えます。
 それにしても、この上人の人を観察する目は確かです。また人の話を聞くのが上手な人です。人に慕われる条件だからリーダーの資格ありで、それは武士だったころに鍛えられたものかもしれず、そのあたりが渡り者ながら都で住職になれた理由なんでしょう。こういう記事はなんでもないことのようで、ぼくにはおもしろく思えます。



第144段
 栂尾(とがのを)の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男(をのこ)、「あしあし」と言ひければ、上人立止りて、「あな尊(たふと)や。宿執開発(しゅくしふかいほつ)の人かな。阿字(あじ)々々と唱ふるぞや。如何なる人の御馬(おんうま)ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(ふしゃうどの)の御馬に候(さうら)ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生(あじほんふしゃう)にこそあンなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな」とて、感涙を拭(のご)はれるとぞ。

現代文
 栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人が道を歩いていると川で馬を洗っている男がいて「あし、あし。」と言っていた。男は馬に足を上げろと言っていただけなのに、なにを思ったか上人は立ち止まって「なんと尊いことだろう。宿執開発(しゅくしうかいほつ)の人だ。阿字阿字(あじあじ)と唱えている。どのような方の馬ですか。余りに尊いことに思えます。」と尋ねた。すると男は「府生(ふしょう:下級官吏)殿の馬でございます。」と答えた。上人は今度もまた府生を不生だと思い込み「これは、なんとめでたいことだろう。阿字本不生(あじほんふしょう)とは・・・。嬉しい仏縁を結ぶことができました。」と言って、感激の涙を流したということだ。

所感
 難しい仏教の言葉がたくさん出ています。阿字阿字(あじあじ)の阿字は梵語の最初の文字であることからすべてのことが始まる根源であり、宇宙の根本を表すといいます。宿執開発(しゅくしうかいほつ)は前世での良い行いがこの世での良いことになって現れるという意味です。阿字本不生(あじほんふしょう)は、阿字はそれ自体が存在の原因であり、ほかのなにかから生まれたものではなく、だから消えることもない、それですべての存在は阿字に含まれる、したがってあらゆる現象は存在しているように見えるだけで本当は存在していない、という不生不滅を言ったもので、仏教の基本原理を指します。密教に阿の文字を見ながら瞑想する「阿字観」という心を集中させるための行があります。
 明恵上人は鎌倉時代の有名な高僧です。華厳宗のお坊さんですが京都栂尾の高山寺の再興や臨済宗の開祖栄西禅師が中国から持ってきたお茶を全国に広めたことで知られています。また鎌倉幕府3代執権で御成敗式目を制定した北条泰時が師として仰いだといいます。決して浮世離れしたようなお坊さんではありません。でも、これを読むと、勘違いするわけがないことをまじめに勘違いして、心からありがたがって涙を流すんだから、どっちかというと天然ぽいところがあったみたいで、もしそうだったのなら、これはもう放っておけないほど最高です。



第148段
 四十以後の人、身に灸を加えて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

現代文
 四十を超えた人は三里にお灸をすえないとのぼせてしまう。必ずお灸をしないといけない。

所感
 三里というのは脚のツボで、左右の膝の三寸ほど下の窪んだところだそうですが、四十を過ぎると更年期でのぼせるから、そこへ毎日お灸をすえないといけないというんです。この三里は、芭蕉の「奥のほそ道」に「・・・、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、・・・」と出てきます。ぼくは中学生のころ初めてこれを読んだとき、この"三里"は距離のことだと思って、以来ずっと、芭蕉さんは三里行くごとにお灸をすえないと歩けないのだ、大変だったね、と解釈していて、高校生の時かもっとあとだったか、だいぶ経ってから三里はツボのことだとわかって、ひとりで笑ったことがあります。
 ちなみに、のぼせとお灸ということで思い出すのは、上方落語の「池田の猪(しし)買い」という噺で、ある男が冷え性には牡丹鍋つまり猪鍋を食べるのがいいと聞いて、大阪北部の池田まで猪の肉を買いに行くという話なんですが、その冷え性になった原因というのが、のぼせを治すためのお灸が効きすぎたというもので、ここではお灸をすえたツボは三里ではなくて、ぼんの窪、つまり首筋の真ん中の窪んだところになっていました。おもしろい噺ですが、桂枝雀さんの高座はもう最高で、それがね、と書き出すとまた止まらなくなるといけないのでやめときます。
 ところで、この前の第147段はやはりお灸の話で、すぐ後ろの第148段も保健に関することになっていて、徒然草によくあるシリーズ構成です。でも、兼好さんはなんでこんなことまで随筆に書いたんでしょう。このシリーズの前後の段ではテーマがまるっきり異なっていて、すなわち第145段は不思議な事の話が、第149段は名人上手の話が書かれていて、このふたつは同じ感覚では読めないから、知っておくと有用な知識ではあっても思索をめぐらすことのない単純な話をあいだに入れ、気分をリセットさせようとしたのかもしれません。

(第138段から第148段まで 2019年3月8日 メキラ・シンエモン)



第206段
 徳大寺故大臣殿(とくだいじのこおほいとの)、検非違使(けんびゐし)の別当(べったう)の時、中門にて使庁(しちゃう)の評定(ひゃうぢゃう)行われける程に、官人(くわんにん)章兼(あきかね)が牛放たれて、庁の内へ入(い)りて、大理の座の浜床の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師(おんやうじ)の許へ遣(つかは)すべきよし、各々申しけるを、父の相国(しゃうこく)聞き給いて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。わう弱の官人、たまたま出仕の微牛(びぎう)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
 「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

現代文
 徳大寺藤原公考(ふじわらのきんたか)の大臣が検非違使の長官だったころ、庁舎としていた自邸の中門の廊下で検非違使庁の会議をしていると、中原章兼という役人が乗ってきた牛車(ぎっしゃ)の牛が車から離れて廊下の中に入って来て、長官の座る台に登り反芻しながら横になってしまった。これは重大な怪異だから牛を陰陽師に引き渡すべきだと皆が言っているのを、長官の父親で相国(太政大臣)の藤原実基(ふじわらのさねもと)の大臣が耳にされて「牛に善し悪しがわかるものか。足があればどこへでも登るだろう。薄給の役人がたまに出仕する時のみすぼらしい牛を持っていかれる理由はない。」と言うと、牛を持ち主に返し、牛が横になっていた畳を取り換えた。それで別に凶事は起こらなかったという。
 「怪しいことを見ても気にしなければ、怪しいことは成り立たなくなる。」と言われている。

所感
 拍手、拍手。なんとも胸がすく話で、すこぶる最高です。陰陽師がいた時代、奇怪なことなど気にしないで、弱い立場の人のことを考えるんだから、藤原実基という人は合理的な考えの持ち主と言うより、度胸があって思い遣りのある人でした。そう、思い遣りのある人というのは度胸のある人です。次の段もまた、この人の逸話です。



第207段
 亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなは)、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由(よし)を申しけらば、「いかゞあるべき」と勅問(ちょくもん)ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人(みなひと)申されけるに、この大臣(おとゞ)、一人、「王土(わうど)にをらん虫、皇居(くわうきょ)を建てられんに、何の祟りをなすべき。鬼神(きしん)はよこしまなし。咎(とが)むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩(くづ)して、蛇を大井河(おほゐがは)にながしてンげり。
 さらに祟りなかりけり。

現代文
 後嵯峨上皇が御所を建てようと地ならしをなされているときに、大きな蛇が数えきれないくらい集まっている塚が出てきた。「この場所の主の神霊だ。」と人々が言って、事の次第を上皇に申し上げると「どうしたら良いか。」とお尋ねになられ「昔からこの地を占めている物だから、むやみに掘って捨てるわけにはいかない。」と皆が申し上げた中で、藤原実基の大臣ただ一人が「天皇の治める地にいる蛇だ、上皇が皇居を建てられるのに、何の祟りがあるものか。神霊が悪さなどしない。問題にすることはない。全部掘り出して捨てるべきだ。」と言われたので、塚を崩して蛇をみんな大井河(桂川)に流してしまった。
 あとから祟りはなかった。

所感
 藤原実基の前段よりさらに大胆な行いです。思わぬところからたくさんの蛇が出てきて、みんなが祟りを恐れるなか、だれも反駁できない理屈を立てて、祟りなんかないと言い切り、上皇はじめ皆を安心させているのは見事です。結局何事も起こらなかったのだから、前の段に書いてあったように、むやみに怖がるから奇怪なことが起こるのかもしれません。実基という人は頭脳明晰で理路整然とした人でした。



第215段
 平亘時朝臣(たひらののぶときあっそん)、老の後、「最明寺入道(さいみゃうじのにふだう)、或宵(あるよい)の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくてとかくせしほどに、また、使(つかひ)来りて、『直垂などの候(さうら)はぬにや。夜なれば、異様(ことやう)なりとも、疾(と)く』とありしかば、萎(な)えたる直垂、うちうちのまゝにて罷(まか)りたりしに、銚子に土器(かはらけ)取り添えて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙蜀(しそく)さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器(こがはらけ)に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献(すこん)に及びて、興に入らせ侍(はんべ)りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

現代文
 これは平亘時の朝臣が年を取ってから語られたことだが「最明寺の入道(鎌倉幕府5代執権北条時頼)の殿が、ある夜突然わたしをお呼びになられたことがありました。わたしは『ただちに。』と申し上げながらも、着ていく直垂がなかったので、もたもたしていますと、また使いが来まして『着ていく直垂をどうしようと困っているんじゃないか、夜のことだ、格好などどうでもよい、早く来い。』とのことでしたので、よれよれの直垂をそのまま着て参上しますと、殿は銚子と盃を手にして出てこられ『よい酒が手にはいったが、ひとりで飲んでもつまらん。それでおぬしを呼んだのだ。しかし酒の肴がない。もう奥は寝静まっているから、なにか肴になるようなものがないか、すまんが屋敷中を探してみてくれんか。』と仰せでした。そこで紙蝋を灯して隅々まで探しますと、台所の棚で小皿に味噌が少しあるのを見つけましたので『これがございました。』と申し上げますと、殿は『十分だ。』と仰せになり、気持ちよさそうに数献召し上がられ、すこぶるご機嫌でございました。そのころはこんな感じでございました。」と懐かしそうに話された。

所感
 能の「鉢木(はちのき)」にワキで登場する北条時頼の話です。「鉢木」は史実ではないと言われているようですが、この段を見ると、史実であってもおかしくない、という気になります。ちなみに、シテの佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)が後に恩賞として新たに得る領地のひとつが加賀国梅田庄で、今の金沢市梅田町です。ということで、金沢は能が盛んでもあるし、時頼とはまんざら無縁でもありません。
 それはともかく、一献は盃3杯だというから、このとき時頼は12杯ほども飲んだことになり、うまい酒をお気に入りの若手家臣相手に飲むなら、肴が味噌だけでも、そりゃ、気分は良かったでしょう。きっと味噌もおいしい味噌だった。それにしても、微笑ましくも思える主従の話で、言い様がないほど最高に最高です。「鉢木」といい、この段といい、北条時頼という人は最高の指揮官でした。37歳で亡くなったといいます。



第229段
 よき細工は、少し鈍き刀を使うといふ。妙観(めうかわん)が刀はいたく立たず。

現代文
 腕の立つ細工師は、少し切れ味の鈍い刃物を使うという。妙観の使う刃物はあまり切れなかった。

所感
 妙観という人は仏師だったようで、岩波文庫の注では、大阪箕面の勝尾寺(かづおじ)の観音像と四天王像を780年に彫った僧だということです。しかし、仏像関係はかなりよく知っているつもりですが、この仏師の名前を聞いたこともなければ、勝尾寺の観音像と四天王像も知りません。
 この段は名人上手の話で、そのまま素直に読めば、彫刻の名人は少々切れ味の悪いノミや小刀を使うものだ、ということですが、(本来の意味での)穿った読み方をして、頭の働きの鋭い人はなにか言うにも直接的な言葉や表現を避け、凡人には真意がわからないがわかる人にはわかる、ちょっと引いた感じに、ぼかしたような言葉や表現を使うものだ、という意味のことを言っていると解釈することが多いようです。小林秀雄が随筆のなかでこの段を引用したのはそういう意味でした。
 ところで、ぼくは飛行機のプラ模型を随分と作りましたが、と言っても完成させたのは500機ほどで買った数の五分の一程度ですが、プラスチックを削るときはカミソリのような鋭利な刃物は使いません。材質が硬いと思わぬ方向に刃が深く入ってしまうからで、普通のカッターナイフか細目のヤスリを使います。特にキャノピーなどの透明プラスチックはそうです。下手をすると割れてしまうのでコツが要ります。ヤスリで少しずつ削るのが無難です。逆にゴムやパテなどの形成材の場合は鋭い刃でないとうまく切れません。弾力があったり柔らかめだったりするからです。削った跡の細かな傷を消すために表面を磨くときも、目の細かい水ペーパーをかけたあと、さらに最後の仕上げは、ほとんどクリームのようなコンパウンドを指先に付けて使います。パテで修正した部分を磨くときは特に慎重に様子を見ながら少しずつ撫でるように磨きます。そうしないとパテばかりが削れてしまい境目が段になるからです。



第236段
 丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おおやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の比(ころ)、聖海上人(しゃうかいしゃうにん)、その外(ほか)も人数多(ひとあまた)誘いて、「いざ給へ、出雲拝(をが)みに。かいもちひ召させん」とて具(ぐ)しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信(しん)起こしたり。
 御前(みまへ)なる獅子・狛犬、背(そむ)きて、後(うしろ)さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様(やう)、いとめづらし。深き故(ゆゑ)あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(とのばら)、殊勝の事は御覧じ咎(とが)めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官(じんぐあん)を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍(はんべ)らん。ちと承(うけたまは)らばや」と言われければ、「その事に候ふ。さがなき童(わらはべ)どもの仕(つかまつ)りける、奇怪(きくわい)に候ふ事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往(い)にければ、上人の感涙(かんるゐ)いたづらになりにけり。

現代文
 丹波に出雲というところがある。出雲大社を勧請(かんじょう)して立派な社が建っている。しだの某とかいう者の領地で、秋ごろに、聖海上人(しょうかいしょうにん)ほか多くの人たちを誘って「さあ、みなさん、出雲神社へお参りにまいりましょう。ぼた餅もご馳走します。」と言い、みんなでぞろぞろ出掛けた。各々がお参りして、とても敬虔な気持ちになった。
 見ると拝殿の前の獅子と狛犬が背中合わせで普通とは逆向きになっていたので、上人はとても感じ入り「なんとすばらしいことだろう。この狛犬の立っている様子はとても珍しい。なにか深い訳があるのだろう。」と涙ぐみ「どうです皆さん、この特別すばらしい狛犬の様子をご覧になって、不思議に思われませんか。なに、思えない、それはないでしょう。」と言うと、人々も、確かにおかしなことだと思い「ほんとですね、ほかの神社とはちがいます。」「都への土産話にしましょう。」などと言う。それで上人は、ますます訳があるに違いないと思い、年配のいろいろ知っていそうな顔をした神官を呼んで「この拝殿前の狛犬の向きは、これはきっとなにか言い伝えでもあって、こうされているのでしょう。ちと訳をお聞かせ願いたい。」と言った。聞かれた神官は「あっ、またやられた。いえね、そのことですよ。いたずらな子供たちがしたことでして、まったく、けしからんことです。」と言って、近寄ると狛犬を据え直して往ってしまったから、上人の感激の涙も無駄になってしまった。

所感
 秋晴れの行楽日和、丹波の出雲神社に近くの人々と参拝したお坊さんのおもしろい話で、落ちが付いていてなんだか落語のような話ですが、このお上人を滑稽だとか粗忽だとか言ってはいけません。それにしても、狛犬って石像でしょう、そんなに簡単に180度向きを変えられるほど軽くはないと思いますが・・・、それとも小さな狛犬だったんでしょうか。というようなことはともかく、上人の感涙は無駄になったと兼好さんは書いていますが、そうでしょうか。純粋な信仰心を持ったお上人ですが、その分、気分が高揚するとちょっと乗りすぎてしまう癖があったようで、それにやや天然ぽい人だったみたいだから、きっと人気者だったはずで、だから一緒にと誘われたんだろうし、附いて行った人たちも、これはなにか起きそうだという期待があったのかもしれず、そのとおりになって大笑いしたんじゃないでしょうか。でも、このことで、人々はますますこのお上人を慕う気持ちが強くなったことでしょう。だとすれば、お上人の感激の涙は、決して無駄なものではなかったという気がします。純真な心にはかないません。


 これらの段に最後の第243段を加えた計17段が、ぼくが特におもしろく、また深く心に感じ入った徒然草の各段でした。なかでも第10段第39段第144段第206段第215段第236段、そして最後の第243段は最高でした。(2019年3月13日 メキラ・シンエモン)




徒然草の各段 つづき
 上記の段以外で段ナンバーのみ挙げた段です。

第54段
 御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出(いだ)して遊ばんと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流(ふうりう)の破子(わりご)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたゝめ入れて、双の岡(ならびのをか)の便(びん)よき所に埋(うづ)み置きて、紅葉(もみぢ)散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参(まゐ)りて、児をそゝのかし出でにけり。
 うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並(な)み居(ゐ)て、「いたうこそ困(こう)じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼(た)かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木(こ)の下(もと)に向きて、数珠(じゅず)おし摩(す)り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
 あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

現代文
 仁和寺にとてもかわいい稚児がいるので、なんとかして誘い出して遊ぼうと企む坊さんたちがいた。遊僧(僧の格好をした芸人)などとも相談して、ちょっとしゃれた感じの折箱を念入りに拵えると、それを箱に入れて双が岡に運び、企みによさそうなところに埋めて上からもみじなどをかけてわからないようにした。それから門跡の御所へ行って、そのかわいい稚児をうまいこと言って誘い出した。
 坊さんたちは計画通りいったと喜んであっちこっち遊びまわり、箱を埋めた場所の近くの苔の上に並んで座った。「ああひどく疲れたね。」、「落葉でも焚いてくれる人がいたらいいのに・・・。(白氏文集の言葉)」、「効験あらたかな僧たち、祈祷してみなさいよ。」などと言い合って、折箱を埋めた木の根元に向かって数珠(じゅず)を磨って印をもっともらしく結ぶなど、大袈裟な真似をして見せ、落ち葉を掻き除けたが、なにも出てこない。場所を間違えたかと思って、掘り返さないところはないほどにそこいらじゅうを探したがやっぱりない。いくら探しても見つかるはずがなかったというのは、箱を埋めているところを人が見ていて、門跡の御所へ行っている間に盗んでしまったのである。坊さんたちはその場を取り繕う言葉もなく、聞いていられないほど罵り合ったあと、腹を立てて帰って行ったのだった。
 あまりに凝ったことをすると、必ず裏目に出るものである。

所感
 第52段からこの段までの3段は仁和寺シリーズになっています。いずれもドジな坊さんの話ですが、門跡寺院の坊さんは窮屈な毎日なのかと思えば、こんなことをしていたなんてわりと好き勝手ができたみたいで・・・と思う前に、本当の話なんでしょうか。ちょっと考えてみればわかることですが、盗まれたことは埋めたところを掘ったときにすぐにわかったはずで、「所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども」なんてありえないでしょう。それとも泥棒は犯行の痕跡が残らぬように元通りに穴を埋めなおしたとでも・・・。考えてみれば仁和寺シリーズの各段はいずれもそうで、どこか作り話の臭いがします。でも検証できることではないから、本当のことだとするなら、仁和寺の坊さんたちより第115段のぼろぼろの方がよっぽど上等に思えます。



第75段
 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそよけれ。
 世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交(まじは)れば、言葉、よその聞きに随(したが)ひて、さながら、心にあらず。人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度(ひとたび)は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起こりて、得失止む時なし。惑ひの上に酔(ゑ)へり。酔(ゑひ)の中(うち)に夢をなす。走りて急(いそ)がしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
 未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづ)かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しゃうくわつ)・人事(にんじ)伎能(ぎのう)・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観(まかしくわん)にも侍(はんべ)れ。

現代文
 何もすることがないのはどうもね・・・、という人は、いったいどういう心境なのだろうか。何かに関わることなくひとりでいることこそ楽なのに・・・。
 世間に合わせればなにかと面倒に巻き込まれ心は乱されやすく、人に交われば人の言葉が気になって自分の心を偽ることになる。人と戯れ、あるいは争い、恨んでみたり、喜んでみたり、心はいつも揺れている。余計なことを考えるようになり損得ばかりを気にする。惑わされて酒に酔ったようになり、酔って夢を見ているようだ。忙しく走り回り、あるいはぼんやりして物事を忘れる。世の中、人はみんな同じである。
 仏の教えを知らなかったとしても、自分を外の世界から切り離して何事にも関わらず心安らかにいることが、それが束の間でも人生を楽しむということだ。生活、人付き合い、仕事や芸事、学問などの諸々の関係を断ち切れ、と摩訶止観(天台宗を大成した智(ちぎ)の教えを弟子が記録した書)にもある。

所感
 名文だと思います。この前の第74段はこの段の導入部のような感じで、しかも格調高い名文で、後に続く第76段からの4段はこの段の補足になっているところをみると、この第75段はずいぶんと力を入れて書いたみたいです。
 だれでも楽しく生きていきたいでしょう。その秘訣はだれとも関わらなければなにもしないことだというのです。こんなこと、そんなのつまらんと思う人でも世の中を嫌なところだと思い、あるいは人間関係は煩わしいと感じたことが一度ぐらいはきっとあるはずです。であるのなら、なるほど、ひとりが楽なんだということになるのかと言うと、人はだれでもやはり一人ぼっちは寂しいのだし、自分のことをだれも知らないなんて、そんなの悲しすぎるでしょう。
 兼好さんだって徒然草を書いたのは、まさか寝っ転がって自分で読んで一人でニヤニヤするためじゃなかったはずで、ある程度の地位と教養のある人たちを読者として想定し、源氏物語や枕草子のように後世に読み継がれることもきっと期待していたに違いないから、だとすれば兼好さんも天台摩訶止観にあるような生き方をするつもりなど毛頭なかったはずです。それとも、この段を書いたとき、ひとりがいいよ、ひとりが、絶対に、と心に強く思うほどの嫌なことでもあって、真相は隠して結論だけを記録しておいたんでしょうか。
 人生はなにをしてみてもどこへ行ってみても嫌なことは常についてまわります。でも嫌なことばかりではない。「浮世の苦楽は壁一重」という諺もあり、また「苦あれば楽あり楽あれば苦あり」「楽は苦の種苦は楽の種」などとも言うように、畢竟、苦しい楽しいは相対的な心の働きなのなら、今の自分そのままに、お金も能力も有れば有るように無ければ無いように暮らし、自分を信じてくれるだれかのために、一所懸命に生きるのがぼくら凡人には一番楽しい人生みたいです。

(2019年4月5日 メキラ・シンエモン)



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