2-14-KN09

近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

吉田健一 犀川そして金沢

 ぼくがまだ小学生だった昭和42年まで、金沢市内には路面電車が走っていました。家の近くの寺町大通りにも2番と5番の電車が通っていて、最寄の停車場だった寺町3丁目から2番に乗ると金沢駅まで乗り換えなしで行けました。その停車場はオカサクという造り酒屋の前で、ぼくはその酒屋の隣にある幼稚園に通っていました。幼稚園の往き帰りオカサクの蔵の戸が開いているとプ〜ンとお酒の臭いがして、ぼくはこの臭いが嫌で蔵の前を駆けて通ったのを憶えています。
 憶えているといえば年長組のときだったか、鍔くんという男の子がいました。この子の家は「つば甚」だという噂でした。「つば甚」は犀川を見下ろす寺町台の西端に藩政期から続く金沢一の高級料亭です。幕末の日本に来た英国の外交官アーネスト・サトウは金沢も訪れていて加賀藩は「つば甚」をそのもてなしの場としたといいます。まだ幼稚園なのに「つば甚」を知っていたのは、そばにある諏訪神社へ春と秋のお祭りにみんなで行っていたからで、でもこどものことだから知っていたのはただ料理屋さんだということだけでした。ぼくはこの鍔くんとは遊んだり喧嘩したりした憶えはなく、ただそういう子がいたということだけが記憶にあります。


小説「金沢」
犀川 桜橋から上流方向 「そこの庭の向こうに、その遠く下に犀川が流れるのを見ていると少なくともこの町にいる人間が時間がたたせるのではなくてたつものであることを知っていてその時間が二つの川とともに前からこの町に流れているという気がした。何故そうなのか考える必要はない。それが人間の生活の本来あるべき姿であるならば町でもそうだった。」
 これは吉田健一の小説「金沢」(講談社文芸文庫版)の第二章の中の一節です。独特の文章がおもしろいと思うのですが、でも普通には読み辛い文章ですね。どこがどことどう繋がっているのかよくわかりませんよね。これはなにを言っているでしょう。この町とは金沢のことですが、時間がたたせるのではなくてたつものであるってなんのことでしょう。
 この小説はいったい何が書いてあるのか、本人にしかわからないことを他人が代わりに書いた日記のような話で読んでいるうちになんとなくボーとして気が遠くなっていきます。それを解題しようなんていう魂胆はありません。ただこの小説はある種の金沢論のようなところがあるのでひとりの金沢人として、小説の主人公に吉田さん自身を重ね合せてこれはどういう意味だろうとちょっと考えてみたいのです。(写真は桜橋から上流方向を眺めた冬の犀川。)

 この一節の前に「東京にいればすることがあり、この東京という町の性格もあって何もしないでいられる時間が少ないから金沢に来るのであってもそれではどうしてそれが金沢で他の町ではいけないのか、・・・偶然とは思えなかった」と書いてあります。
 東京と比べていますね、しかも金沢でないといけないのは偶然ではないと。これから想像すると、どうしてもしなければならないことがない自由な時間が金沢にはあるという意味と取れますが、もう少しその時間の種類に拘って考えると、金沢の人はなにかをして経っていく時間じゃなくて、なにもしなくても経っていく時間、というよりむしろ、なにもしないから経っていく時間もあるということを知っているということでしょう。そういう時間のあることを知っているのが人間の本来あるべき姿で、つまり人間の理想の姿ならそれは町も同じで、それを知っている人がいてそういう時間が流れている金沢がそういう町だというのでしょう。
 こう解釈してみても、どうも言葉が多すぎてわかり難いですね。それでもっと短く簡単にすると、なにもしないから経っていく時間というのは、ぼんやりしていられる時間ということでしょうか。さらに縮めて、ぼんやりする時間と言って良いなら、ぼんやりする時間を持っている町では自分もぼんやりする時間を持てる、だから金沢がいいと・・・、ただそれだけのことを難しく書いただけ、と言っては身も蓋もありませんが、そういうことだろうと思います。ぼくはもちろん金沢の人はぼんやりしています。というのは・・・関係ありません。どうも褒めてもらっているような気はしないのですが、金沢を貶しているわけでもなさそうです。

犀川
 吉田健一さんはご存知のとおり吉田茂の長男です。政治には行かずにお酒と文学に向かった人ですが、金沢がよほど気に入っていて、昭和35年から65歳で亡くなる昭和49年までの毎年、だれもわざわざ来たがらないような真冬の2月に金沢を訪れ「つば甚」の離れにしばらく滞在したそうです。今と違ってそのころの金沢は38豪雪に代表されるように雪がよく降り、寝雪(ねゆき、金沢では根雪と書かずに寝雪と書きます)といって一度降った雪は積もったまま春まで消えることがありませんでした。
 「つば甚」は犀川を見下ろす寺町台にあると最初に書きました。そこは崖の縁で直下に犀川です。吉田さんは「つば甚」の離れで眼下に流れる雪景色の犀川を眺めてゴリの空揚げでも肴に手酌でやりながら、同行者がふたりばかりいたそうですが、金沢はぼんやりしていられるからいい、癒されるねぇ、とでも呟いて、のんびりしていたんでしょうか。
 でもなんで犀川なんでしょう、浅野川ではいけないんでしょうか。2番じゃだめなんですか、みたいな問いですが・・・。そりゃいけないもなにも吉田さんが滞在するとなれば「つば甚」しかないのだし「つば甚」が犀川を見下ろす崖の上にあるんだからそうなるんじゃないの、と言えばそうなんでしょう。でも大概の作家や文化人というような人たちは一致して浅野川ファンだから、そんな単純なことじゃないとするなら、これはいったいどういうわけになるんでしょう。

おとこ川、おんな川
 犀川と浅野川の間だけが金沢でその外側は金沢ではない。これは金沢の特に中央部でよく聞かれるある意味差別的な言葉です。犀川と浅野川のそれぞれお城とは反対側にはお寺が密集していて、それぞれ寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群と呼ばれています。このふたつの寺院群は3代藩主の利常さんが意図的に集めたもので、城下の防衛を強化しようという目的で整備されたものです。しかも浄土真宗のお寺はひとつも含めないという徹底した用心ぶりでした。前田家にとっては一向一揆の記憶がまだ最近のことでした。
 こんなことでこのふたつの川に挟まれた域内だけが金沢の城下なんだから同じ金沢の旧市街といってもそこは違うんだよと主張してこんな差別的なことを言うのですが、金沢らしさの町並みというのが概ねこのふたつの川の間に見られるのもそのためです。
 このふたつの川には別名があって犀川はおとこ川、浅野川はおんな川と呼ばれています。といってもだれも普通にはそんな呼び方で話したりはしませんが、ふたつの川を比べれば見た目の印象はそんな感じです。ちなみにぼくが幼稚園のころ大雨による増水で犀川に掛かる桜橋が落ちたことがあって、それが夜だったからドーンという鈍く響く音が家にいて聞こえたのを憶えています。
 ところでこの犀川はおとこ川で浅野川はおんな川というのは、泉鏡花が「所縁の女」に浅野川をおんな川と書いてからそうなったという話があって、藩政期には逆で浅野川がおとこ川で犀川がおんな川と言われていたそうです。3代藩主の利常さんは、また利常さんが出てきましたが、犀川の氾濫を抑えるために元々2本に別れていた流れをひとつにする工事をしているから、江戸時代もやはり犀川は荒々しい川だったのにおんな川と呼ばれていたのです。
 それが明治になって逆になったというのはいくら泉鏡花が浅野川をおんな川にしてしまったからといって、それが普通に受け入れられるにはなにかわけがあったはずで、文明開化で価値観が変わり男性的女性的をどう定義するかということまで変わってしまったんでしょう。というのは理屈っぽい人が言いそうな話ですが、いつから逆になったのかははっきりしないようで、本当のところはどうなんでしょう。

眺め 季節 距離
浅野川 東山の寶泉寺からの眺め どっちがおとこ川でどっちがおんな川かは兎も角、このふたつの川を高台から見下ろす眺めが対照的なのはだれが見てもそうです。犀川を見下ろす「つば甚」がある辺り(「つば甚」じゃありません、・・がある辺りです、ぼくは「つば甚」に入ったことはどんな用でも一度もありません)から金沢の町を眺めると川幅が広いから眺望が良く家並みが遠くにあって町を見下ろせても人の姿は隠れてしまっているのに比べ、浅野川を見下ろす東山の宝泉寺のあたりからの眺めは低い屋根が連なり古都金沢のイメージにピッタリで、黄昏時はどこか物悲しいような風情ある景色となり、雪が降れば白くなった屋根がずっと続いて冬の金沢を象徴する絵になる風景ですが、びっしりと並ぶ家々が間近に迫って住む人々の日常までが見えるようです。(写真は東山の寶泉寺から眺める冬の浅野川沿い。中央右寄りにちいさく見えるアーチが浅野川大橋で、右端がひがし茶屋街。)
 というようなことを思うと、吉田さんはきっと浅野川の情緒はあっても人の生活が間近に感じられるような眺めを嫌ったんじゃないかという気がします。やはり犀川畔の崖から向こう岸の町を見下ろす眺めじゃないといけなかったんでしょう。そういうことなら季節が低く重々しい雲の下で雪に埋もれるだれも来たがらないような真冬だったというのも、それが東京の日常とはもっとも懸け離れていたからでしょう。それに食べ物が一番おいしいのも冬ですから。
 加えて金沢は東京からの距離もちょうど良かったのかも知れません。距離と時間は人の移動という行為においては同義語です。距離が来る人を選ぶというのは本当にそうで、そのころは金沢までは6時間あまりで兼六園をいっぺん見てみたいという人でも気楽に来ることができるというわけではなかったのが、北陸新幹線が通って東京から金沢まで2時間半という距離になった途端に人が大勢押し寄せています。
 歴史があって古い街並みの残っている町が訪れる人を選ぶ適当な距離にあるというのは、場所の要件としてそういうことはあったろうと思います。近ごろ雪もめっきり少なくなったし、もし50年前の金沢が今と同じ訪れる人が多くて降る雪は少ない金沢だったら、吉田さんは毎年真冬の金沢を通うように訪れることはなかったという気がします。

兼六園 成巽閣 加賀料理
 吉田さんはどうも自分が関心のないことには見向きもせず、せっかく来たんだからとあっちもこっちもと歩きまわるというむやみなことはしない人だったようで、兼六園にさえ行っていません。だからでしょうか、成巽閣は兼六公園のなかにあって将軍家から嫁いできた何代目かの藩主の奥方の隠居所だったと間違ったことを書いています。兼六園を兼六公園と書いているのは正しくてそのころはそう呼んでいました。でも、成巽閣は兼六園に隣接しているだけでなかにあるわけじゃないし、13代藩主の斉泰さんが母の真龍院さん(12代藩主斉永の継室)隠居所(当時は巽御殿)として建てたものですが、真龍院さんのお里は将軍家ではなくて京都の公家の鷹司家でした。もっとも小説の主人公の関心事は専ら成巽閣の「群青の間」で、だれが住んでいたかなんてことは吉田さんにとってもどうでも良いことだったに違いないから、また読み手にとってもそれは同じなら、こんなところに反応するのはぼくぐらいでしょう。
 普通に観光はしなかった吉田さんですが、ひがしの芸妓さんたち(「げいぎ」じゃなくて、「げいこ」と読みます)とは懇意だったみたいだし、飲んだり食べたりは普通の倍以上に関心があったようで、金沢の料理を「加賀料理」と名付けたのは吉田さんだったそうです。ある意味、ぼくよりよっぽどよく金沢を知っていました。

異次元の世界
 ぼくは吉田さんのほかの本のことはなにも知りません。そもそも名前しか知らなかった吉田健一さんの文章に初めて触れたのは、35年ほど前に渡辺昇一さんの「ドイツ参謀本部」(中公新書版)という本に引用されていた「ヨオロッパの世紀末」に出てくるスタアンの「感傷旅行」を紹介した部分を読んだことで、わずか700文字ほどでした。
 それがおもしろい文章だと思ったのに、でもそれだからと吉田さんの本をちょっと読んでみたいとその時は思わなかったというのは、ぼくが自分を制御できずにみさかいなく手を出すのは唯一飛行機のプラ模型だけで、本は古今東西の名作だろうが、みんながこぞって読む話題の本だろうが、なんとか賞をもらって書店に山積みの本だろうが、そういうことは一切関係なく、自分が関心のある内容でなければ読まないからで、その時ぼくに読める吉田さんの本を見つけることができなかったのです。それが20年ほども経ってたまたま本屋で「金沢」を見つけて、これならばとこの一冊だけを読んだのでした。
 だからそれくらいのことで吉田健一にとっての金沢はこうでしたなどと断ずるのは極めて不当なことで恐れ多いことなんですが「金沢」には吉田さんにとっての金沢が凝縮されているようだし、それに奮発して余計なことまで長く書きすぎてせっかく読んでくれている人はもううんざりしているはずだから、このへんでなにかしらのまとめをして終わらせないといけません。

 吉田健一さんにとっての金沢は日本でもないヨーロッパでもない、およそ地理的な意味を持たない異次元の世界で、けだし心が安寧でいられる唯一の場所だったんでしょう。それは幻想か妄想かその中間の世界でした。ぼくは金沢ってそんなところだろうかと首を傾げます。あるいは40年で金沢が変わってしまったんでしょうか。金沢がそんな風に見えた吉田健一さんはやはり幸福だったと思えます。


 妙に静かだなと思ったら、窓の外はお昼ごろから降っている落ちては融ける重く湿った雪がいつの間にかゆっくりと宙を舞う軽く乾いた雪に変わっていました。積もりはしても寝雪になることのない雪です。(2017年1月24日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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