23  鳥越村

加賀百万石以前 鳥越城跡

 6月中旬の梅雨が小休止となった日曜日、友達と二人で鳥越城跡と二曲城跡に出掛けました。この二つの城跡は加賀一向一揆最後の戦場でした。
 室町時代の末期、応仁の乱の終結から間もない頃、加賀では守護富樫氏の家督相続争いをきっかけとして一向一揆が蜂起し、やがて守護の富樫政親を滅ぼすと、門徒衆(浄土真宗の信徒)、本願寺僧侶、地侍の合議による一種の共和制度を作り自治を始めました。「実悟記拾遺」という書物に「百姓の持ちたる国のやうになり行き候」と書かれたこの体制は100年間続き、本拠地の金沢御堂が織田信長によって潰されたことで実質的に消滅します。しかし、白山麓の村々の山内衆(手取川上流の村々の連合一揆軍)は降伏せず、鳥越、二曲の二城を中心にして激しい攻防戦を展開しました。

城山と大日川
城山(中央)と大日川

 鶴来から田んぼの中の新道を行き、鳥越城のあった城山が遠くに小さく見えはじめる辺りに車を止めて、鳥越城攻略の織田軍はここを通ったのだろうかと想像していると、藪から棒に友達が、百万石まつりの利家入城行列は、あれはちょっといけない、戦国時代の武士というものは、ああいう風に兜を横っちょに被ったりして、だらだら歩いてはいなかっただろう、と言います。つまり、戦国時代の武士というものは具足を着込めば自動的に戦闘用の面構えになり、まして入城の時などは威容を整えて堂々と行進したはずだろうと言いたいらしのですが、この場には無関係のようなこの発言は、これから行く鳥越城跡が一向一揆における最後の戦場であったことに、強く思いを馳せていた結果で、彼としてはこの一週間前にあった百万石まつりがどうのというのではなく、ここを通ったのかも知れない一揆掃討の織田軍を想像していたら、ついそういうことも思ってしまったということのようでした。
 しかし、なるほど、利家は平和的に進駐したわけではないのだから確かに彼の言う通りでしょう。もっとも、黒沢明監督の映画みたいに緊張感みなぎって行進されたら、どことなく典雅な百万石まつりは、ただそれだけで金沢らしさを失いそうだから、あれはあれで良いような気もします。
 こんな風に途中何度も止まって、次第に大きくなってくる城山を眺めて気分を盛り上げつつ、少しずつ城跡に向けて進んでいきました。はじめに二曲城跡へ、そのあと鳥越城跡へ行きました。

城山
二曲城跡から見た城山

 鳥越城は二曲城とともに織田信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」の頃に、織田軍の来襲に備えて築かれたようです。城山は手取川と大日川に挟まれた、高さ300メートルあまりの海鼠のような形をした小山で、いかにも要害といった感じです。
 登り口近くまで行くと、すぐ近くにある今年四月に開館したばかりの「一向一揆歴史館」から回ってくるらしい車が何台か上って行きます。ぼくらは中ほどまで車で行き、あとは歩いて登ることにしました。ここで繰り広げられた戦闘の有様を想像しながら登ってみようというわけです。しかし、何も想定しないで登れば、漫然として何となく登ってしまいそうだから、織田軍か山内衆か、どちらかに想定します。
 鳥越城の攻防戦は短期で終わったわけではなく、取ったり取られたりを繰り返したようだから、攻め登ったのは織田軍とは限らないのですが、考えてみたいのは最後の戦闘です。だから、想定は織田軍ということになります。しかし、梅雨の晴れ間は蒸します。車から外へ出ただけで、まだ登らないうちに汗が吹き出てきました。
 昔もこの道だったんだろうか、上から鉄砲で狙われるんじゃないか、こんな崖はとても登れないな、昔はこんなに木がはえていなかっただろう、一気に攻め登って落としたんじゃないか、とぼくらは何も知らないのを良いことに、思いつくまま勝手なことを話しながら頂上を目指します。崖っ縁から谷を覗き込んでも、風はそよとも吹いて来ません。一揆側は立てこもらず城外へ出てゲリラ戦だな、地形を知っているから有利だ、あの辺りに身を伏せて上ってくる奴を鉄砲で撃つか斬りかかる、こっちは何人ぐらいいたのだろう、と次第に気分が乗ってきたからか、暑さで想定も何も忘れたからか、石川の人間らしく識らず知らず山内衆の味方をしているのか、織田軍のつもりがぼくらはいつの間にか守る側の山内衆になって古戦場を登っていました。

城址からの眺め
本丸跡からの眺め 慰霊碑

 城跡には20人ほどの見物人が来ていました。その人達に混じって再建された櫓や門、建物の遺構を見て回りながら、先程からの続きで、戦いの様子を想ってみようとしますが、本丸跡から辺りを見渡せば、そういうことを想像するには、あまりにも不適切な景色が下に見えています。
 緑が鮮やかな田んぼが広がり、その中に民家や学校がのんびりと散らばっています。大日川は西側を回って南から北へゆったりと流れ、やがて手取川と合流するその遥か先には獅子吼の山並みが見えているという平和そのものの風景です。獅子吼高原の向こうには一向一揆が攻め落とした加賀の守護富樫政親の高尾(たこ)城址があるはずだと思ってみても、たまに涼しい風まで吹いてくるから、戦いの想像はいよいよ困難になります。
 そこで、少々意地になって意識を集中し、この眺めは420年前もさほど変らなかったろう、広く見通せるのは鶴来の方向だけでその他三方は山が迫っている、などと地勢を考えてみて、織田軍はこちらから来た、とかなんとか勝手に決め付けてみると、漸く当時の戦いを想像できそうでした。
 でも、具体的な戦闘の様子は、何かエピソードでも知っていればともかく、何も知らないのだから想像出来たことと言えば、冬の戦闘では雪を血で赤く染めただろうし、大日川はおびただしい数の死体に堰き止められ、あるいは血の川となったに違いない、ということぐらいです。こんな貧弱で考証も何もない想像ばかりしていましたが、なんとなくそれで充分なような気がしました。横では友達が、鈴木出羽守(鳥越城主で白山麓門徒衆のリーダー)は柴田勝家の騙まし討ちにあってとっくに死んでいたんだよな、と呟いていました。
 山内衆は丸二年に及ぶ孤軍奮闘の末力尽き、織田軍の佐久間盛政によって完全に制圧されました。戦闘終結後の1582年3月1日(旧暦)、生け捕られた者370人が磔刑になったということです。その慰霊碑が後三の丸跡の崖下にあります。加賀一向一揆の悲しい終焉でした。

 鳥越城の落城から三ヵ月後、信長は本能寺で明智光秀に襲われ自刃します。そのあと信長の後継をめぐって柴田勝家と羽柴秀吉の間で争いが起きますが、最終的に秀吉についた利家は秀吉軍の先鋒として勝家を滅ぼし、佐久間盛政の家臣から金沢城を摂取して入城(旧暦の1583年4月27日か28日)、金沢城主となりました。鳥越城陥落からわずか一年二ヶ月後のことでした。更にその17年後、関が原の戦いを経て二代藩主前田利長が領地を拡大し、加賀百万石が誕生することになります。
 ぼくらは加賀百万石時代の様子を、たとえ大雑把にしろ知っています。特に幕末維新の頃の加賀藩がとった行動、と言うより何もしなかったに等しい態度には、ちょっとした不甲斐なさを感じてしまいます。それで加賀百万石以前、一向一揆の頃の加賀人は積極果敢で行動的な人達だったと、ごく自然に思っています。しかし、既に時が去っていたにもかかわらず、鳥越城や二曲城で徹底抗戦の末、無残に果てた人達の思いは何だったのか、どこまでそれを正しく感ずることができるのかと言えば、平和しか知らないぼくらには、それほど簡単なことではないように思われます。ならば、せめて一念口称、南無阿弥陀仏。(平成13年7月4日 メキラ・シンエモン)


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