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興福寺 仮講堂の阿修羅像

 早春の奈良公園、猿沢池から興福寺の五重塔への石段を、三人の男女が登っていきます。雨がぱらついているようです。三人は東金堂の前で番傘を差して待ち受けていた三人の坊さんと短い挨拶を交わすと、一緒に再建工事も終盤の中金堂の脇を通って向かったのは、創建時の講堂跡に建つ、以前は仮金堂と呼ばれていた仮講堂でした。一行が仮講堂の前まで来ると、一番地位の高そうな坊さんが、非常に贅沢な宗教空間です、と三人に誇らしげに話します。
 これは4月に放送されたNHKのあるテレビ番組のはじめの部分です。そのあと仮講堂の中が映しだされ、坊さんが非常に贅沢な宗教空間と言ったその中はどうなっていたのかというと、国宝館に展示してあった阿修羅像をはじめとする天龍八部衆像、十大弟子像、天燈鬼・龍燈鬼像、金剛力士像、梵天・帝釈天像、四天王像などが、本尊阿弥陀三尊像の周りに整然と安置されていました。


仮講堂
 奈良博で「なら仏像館」と新館の特別展「快慶」を観るまえに興福寺へ行きました。降っている雨はこのあと強くなるかもしれない、興福寺と奈良博のどっちを先にしようかと歩きながらミキオ君と話しますが、どっちとも決められないまま興福寺へ来てしまったのでした。
 まずは中がどうなっているのか気にかかる仮講堂へ行きます。雨だから人は少なく、大勢が押し寄せると想定して設けたらしい片側一方通行の通路が大袈裟に見えます。ミキオ君にあの番組は見たのかと訊いてみると、録画しただけでまだ見ていないようでした。

 簡素な造りの仮講堂内に入るとテレビで見た通りに仏像が並んでいます。当たり前です。テレビ番組のタイトル場面のナレーションでは、この春、阿修羅は造られた奈良時代を彷彿とさせる並びで安置されました、と言っていました。奈良時代を彷彿とさせるか、なるほどこんな風に並んでいたのかと思うと、ちょっと違うみたいです。
 阿修羅像は、藤原不比等の三女で聖武天皇の妃光明皇后が生母橘三千代の一周忌に、菩提を弔うために建立した、今は失われている西金堂に安置されていました。西金堂の諸仏は、金光明最勝王経の熱烈な信者だった皇后さんが、経典に描かれている神々や人々がお釈迦様の前で懺悔する場面を、群像として造らせ安置したものだったそうですが、天燈鬼・龍燈鬼像は鎌倉時代の再建時に新造追加されたものだというから、仮講堂内の様子は奈良時代に阿修羅像が安置されていたころの西金堂のそれとは、ちょっと違っていることになります。
 また、興福寺曼荼羅という奈良時代の興福寺の各お堂に安置されていた仏像を描いた絵図があって、それを見ると西金堂の阿修羅像は釈迦如来像の右側、重なる仏像の列の一番奥に描いてあるのに、仮講堂では一番手前にきています。もちろん、そんなことはお寺では百も承知、十分わかっていて、いろいろ考えた末に、やっぱり阿修羅像がよく見えるのが良いだろうと、あえて最前列中央寄りに持ってきたんでしょう、きっと。

 テレビで坊さんは、並べていてゾクゾクッとしました、と言っていました。でも、仮講堂内陣の様子は、こんな雰囲気だったのかとは思っても興奮はなく、むしろどうもしっくりこない感じでした。番組を見ていなかったミキオ君の目にも、この光景はあまりよくは映らなかったみたいで、感動しているようすはありませんでした。なぜなんだろうかと思ったら、どうも阿修羅像のせいみたいです。
 ぼくは阿修羅像が国宝館にいる姿を、それも映像や写真で見すぎていたのかもしれません。その姿や表情を唯一のものとして、国宝館の空間もろとも心の奥底に仕舞い込んでいるから、仮講堂に普通に安置されている阿修羅像を心に思い描くことができず、現実のものとして目の前にあっても、こういうのは許さないと心の深いところで拒絶しているのでしょうか。仮講堂の阿修羅像、確かにそれが仏像の本来あるべき姿で、お堂に収まっていてこそ仏さんに違いないのですが・・・、興福寺の阿修羅像には国宝館がよく似合う、・・・みたいです。

将軍万福
 テレビ番組では阿修羅像の内部をX線で透視して詳細に調べるようすも紹介されていました。阿修羅像は脱活乾漆造りです。粘土で作った型の上から漆を塗った麻布を何枚も貼り重ね、乾いたら中の粘土を取り出して木の芯を入れた張り子にし、漆に木の粉を混ぜて粘りを出した木屎漆(こくそうるし)を盛って細部を造り仕上げます。X線で調査したら、正面の顔の表情が粘土の型と今見るのとでは随分違っていて、粘土の型では目を吊り上げたキツイ顔だったことがわかったんだそうです。

 光明皇后が阿修羅像を造らせたのは、将軍万福(しょうぐんまんぷく)という仏師だったと正倉院文書からわかっているそうです。
 万福さんは女性だったんじゃないのかなぁ・・・、将軍というのはなにか軍人を思わせますが・・・どうも女の人っぽい。八部衆や十大弟子の造形は、皇后さんの好みもあったんでしょうが、あれは女性の仕業じゃないかと思います。
 万福さんは皇后さんとは話がよく合う仲良しで、ふたりで仏像のデザインを決めたら、あとは、首から下の胴体は突っ立っているだけだから、脱活乾漆の張り子の工程までは弟子か助手にやらせておいて、万福さんは皇后さんとふたりで、こうしようか、ああしたら、ああ、それ、いいんじゃないの、そうでしょう、と楽しそうに話し合いながら、最後に顔を造った・・・んじゃないのかなぁ、とは飛躍のすぎた想像でした。
 でも、粘土の型と完成時では顔が違う像は、阿修羅像だけじゃなくて、ほかにもあるんじゃないのかなという気がします。

妄想の阿修羅像
 そもそも阿修羅像は特別な存在として造られたんでしょうか。興福寺曼荼羅では、阿修羅像は一番奥に描かれていました。奥に置かれたのは、群像としての見た目のバランスを考えたのか、あるいは阿修羅像を前列に置けば横に大きく張り出した、昆虫のナナフシの肢みたいな六本の長い腕が空間を大きく占拠してしまい、うしろの像は見えにくくなるからでしょうか。でも、一番奥まったところなら、阿修羅像は前にある像の影になってしまうし、距離も遠くて、顔はあまりよく見えなくなるでしょう。
 それでもよかったというのなら、阿修羅像を特別に思うのは、現代のぼくらにはそう見えるだけの、妄想なのかもしれません。万福さんが阿修羅像の顔を造り直したのも、別段なにか訳があったからではなかったのかもしれません。

 その表情を観照し、その造形の秘密を探り、発願者の光明皇后の心にまで思いを巡らす、なんとも心を揺さぶられる興福寺の阿修羅像ですが、すべてはその顔の表情がそうさせています。でも、今ぼくらが見ているその顔は完成直後の顔ではないのです。
 今の姿表情の阿修羅像があって、今の時代の見方があって一人ひとりの感じ方があります。そしてぼくらはなにかを考えなにかを思う。それで良いと思います、妄想でもなんでも。


 明治維新直後、日本中に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐から、興福寺の阿修羅像を救ったのは日本人の信仰ではありませんでした。美術品あるいは文化財という概念で、鑑賞の対象としてあるいは歴史を偲ぶ遺物としての価値を仏像に賦与した西洋文明の精神が、阿修羅像を粗大ごみの中から拾い上げたのでした。
 ぼくが今日、興福寺の仮講堂を訪れ阿修羅像を観たのは、日本の美術史あるいは文化史が無教養の一般大衆に作用したひとつの小さな結果です。そう思うと、非常に贅沢な宗教空間など、なんだか空々しいものに聞こえます。(2017年5月26日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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