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佐保路シリーズ

西大寺 四王堂のご本尊は増長天の足の下

 目が覚めて時計を見るとまだ真夜中の午前3時で、なんだか軽いめまいがします。これからまた寝ると寝過ごすかと思って起きていることにしました。10月半ばの平日、今日は一年ぶりにいつものミキオ君と一緒に奈良のお寺をまわることにしている日でした。JR北陸線のサンダーバード4号に金沢駅から乗るために、5時少し前に家を出れば夜明け前の空は雲もなく空気が澄んで、鎌のように細い上弦の月は邪魔をしない満天の星空です。寒くはないし気分もいい。めまいはすっかり忘れていました。


佐保路へ
 去年は飛鳥路を歩きました。今年は奈良市内で佐保路(さほじ)を歩きます。東大寺の転害門(てがいもん)から一条通りを西へ西大寺のあたりまでを佐保路と言っています。今回巡る順番は西から東へ、西大寺、秋篠寺、海龍王寺、法華寺、不退寺、そしてできれば般若寺にも、という予定でした。

西大寺
 京都から乗った近鉄の急行電車を大和西大寺で降りてミキオ君と合流しました。互いの元気を確認し再会を喜び合いますが、ふたりともマスクをしているのが去年と大きく違っています。あの顎髭はどうなっているのか、とマスクの下がちょっと気になります。
 最初に行くのはすぐそこにある西大寺です。西大寺を訪れる多くの人がするように駅を南口から出てそのまままっすぐ進んで東門から入ったので、拝観の順序は四王堂からになります。
 あれっ、お堂の受付にだれもいない。どこへ行ったのか、よわったね、拝観料を払わないで黙って入るわけにもいかんし、拝観券は確か共通券で本堂で買わないといけないんじゃない、ここでも買えるんじゃないか、とにかく人がいなんじゃ、と話しているところへ後ろから、すいません、と謝る声がして、そっちを見れば年配の男の人が慌てた様子で走ってきます。受付の人は愛想がいい、どちらかというとお年寄りでした。トイレにでも行っていたんでしょう。とにかく、ホッとしました。去年の飛鳥では橘寺で門の外の受付に見えるところには誰もいないから、さては受付は中なのかと思って入ったら、中にいたおっさんがいきなり拝観料と叫ぶから、なにを大声出して、いなかったくせに・・・、と、ちょっとムッとしました。でも、このおっさんからは帰り際に亀石へ行く道を丁寧に教えてもらいました。やはりぶっきらぼうでしたが・・・。(橘寺はHPには書いていません。これといって書くようなことがなかったんです。)

四王堂
 西大寺は奈良時代に聖武天皇と光明皇后の娘だった称徳女帝の発願で建立された古いお寺です。そのいきさつは長くなるのでここで書くのは止めておきますが、四王堂は四天王を祀るためのお堂として西大寺の伽藍の中で一番初めに建てられていて、ここから西大寺は始まったと言っても良いようです。そんな四王堂も古刹のならいで現在の建物は創建当時のものではなく江戸時代の再建です。しかもご本尊はよそから移されたという丈六サイズの巨大な十一面観音菩薩立像(平安時代 錫杖を持つ長谷寺様式 重文)を祀っています。では、四天王像はどうなっているのかというと、やはりこちらも当初の像(銅造)は被災により失われ後世のもの(室町時代以降の作 重文)に変わっていて、普通に須弥壇の四隅に立ってご本尊を守っています。しかも多聞天像だけが(制作年代が異なり)木造でほかの3体は銅造というちぐはぐな構成です。もう四天王がメインのお堂ではないのにそれでも四王堂と呼ばれているのはやはりお寺にとって重要な意味を持つお堂だからということなんでしょう。


増長天の邪鬼
 西大寺で仏像と言えば、まず頭に浮かぶのは愛染明王坐像(重文)と叡尊(えいそん)の肖像彫刻(国宝)です。次に本堂の清凉寺式釈迦如来立像(重文)で、その次はやはり本堂にある文殊菩薩の渡海群像(重文)です。これらの仏像のほかに四王堂の四天王のうちの1体、増長天の邪鬼もよく知られています。増長天本体ではなくて足の下でうずくまる邪鬼です。というようなことを、ミキオ君を増長天の前に誘い、わかったような顔で講釈を垂れていると、いつの間にかさっきの受付の人が傍にいて、ぜひ増長天の邪鬼を見てください、と言います。ビックリしていると、この下から、ここ、この隙間からよく見えます、と教えてくれました。言われた通りにかがんでみれば、なるほど、よく見えました。
 この邪鬼のなにがそんなに特別なのかというと、創建時から唯一残る天平彫刻でした。銅造だった当初の四天王像は火災で焼け落ちましたが、増長天の邪鬼だけが焼けずに残りました。そこで再建に伴う造仏ではこの焼け残った邪鬼につながるように増長天の本体を作ったのです。どうしてそんな面倒なことをしたのか。邪鬼まで一体に新しく鋳造する方が楽だったはずだから、リサイクルではないでしょう。西大寺の坊さんたちは寺の始まりの象徴とも言える創建時の四天王像への思い入れがよほど強かったんだと思います。
 では、21世のぼくらがこの邪鬼を観るときはどうなるのか。創建時から残る唯一西大寺の歴史を貫く存在だったとしても邪鬼は邪鬼で、四天王に踏まれている台座の一部と言っても間違いではないのが邪鬼です。創建時からの遺物だからというだけのことでは見ておこうか、ということにはなりません。その造形が見逃せないのです。上に載せている増長天と見比べればそれがよくわかるでしょう。
 写真だとなんということもないように見えないこともない邪鬼ですが、間近で見るといかにも天平彫刻らしい雰囲気、周囲の空気を圧するような迫力があって、四天王像自体が2メートルを超す大型だったから邪鬼もまた大きく、その悶え苦しむ姿表情は東大寺戒壇堂の四天王像の邪鬼より真に迫って激しいようにも感じられます。実物を観ないと写真では凄さがわからない仏像でした。

 脇役のはずの邪鬼がここでは上から踏みつける四天王を憚ることなく、どころか本尊の観音様までも押し退けて主役になっていました。影のご本尊、いや、実質のご本尊かもしれません、四王堂の、と言うより西大寺の。まさか、そこまでは・・・。


 それにしても受付の人が拝観者の傍まで来てこの仏像を観てくださいと教えるのはちょっとないことでした。興福寺の東金堂でボランティアらしい案内のおばさんに声を掛けられたことがあったし、法輪寺中宮寺では尼さんが、飛鳥大仏ではボランティアの爺さんが解説していましたが、それはあっても不自然なことではありません。でも受付の人がしゃしゃり出て・・・、というのは今までになかったことで、違和感は否めませんでした。ひょっとして、ぼくらが来たとき席をはずしていて申し訳ないと思ってのことだったのか、それともぼくがミキオ君に講釈しているのが聞こえたから自分も参加したかったのか、あるいは拝観者にはいつもそうしていて、四天王の邪鬼なんて普通はだれも注意して観ることはないけどこの邪鬼は違うんだから観ないで帰られては申し訳ない、拝観料をもらっているんだから教えておく義務がある、でないと罰(ばち)が当たる、とでも思ってのことだったのかもしれません。想像が過ぎますか。そうかもしれません。いずれにしても拝観者が押し寄せる大寺では絶対にありえない、それは親切なことでした。(2020年10月23日 メキラ・シンエモン)



冬がまた来る
 女房が、食べよう、と言うので、今日、みかんを食べました。今シーズンの初めてです。皮を剥くと甘酸っぱい香りがして木下利玄の短歌「街を行き子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る」が頭に浮かびます。今日は少し寒い日だったから、それが条件反射のようなものだったとしても、まだ10月のうちから「冬がまた来る」なんて頭に浮かぶのは季節感のないことでした。
 今年はどこまでが夏だったのか、隣の人に暑いですねとあいさつした次の日、寒くなりましたと逆のことを言ったかと思うとその翌日はまた、暑いですねに戻るということを、ついこないだまで繰り返していたような気がしますが、先日いつもの年より十日ほども早く白山に初冠雪があったというし、気が付けば家の周りでも紅葉が始まっていて、ああ秋か、と漸く秋を実感するのだから、なだらかに季節のうつろいが感じられないまま秋は過ぎて冬になってしまうみたいです。
 いや、季節感のないこと、というのは間違いで、季節の方がなくなりかけているのかもしれません。いずれにしても、昔のような感覚で季節を感じることはもうできないみたいです。情緒のないことです。それはいつからのこと。さあ、いつのころからだったのか、最近気が付いて・・・、いいえ、ずっと前から気付いていたのに認めたくなかったのかもしれません。(2020年10月23日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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