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法輪寺 飛鳥仏の微笑み

 和辻哲郎の「古寺巡禮」と亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」は、ぼくが高校生のころにはまだ奈良の古刹をめぐる人たちの間ではよく読まれていたということを新薬師寺のページで書きました。この2冊に今回ぼくとミキオ君がめぐっている斑鳩も出てきます。和辻さんは最後の最後に斑鳩を登場させていますし、亀井さんの方は斑鳩に興味津々で前半分はすべて斑鳩の話です。
 では今行ってきたばかりの法起寺とこれから行くつもりの法輪寺のことはというと、法起寺はふたりからまったく相手にされず、つまり一言も触れていませんが、法輪寺の方は和辻さんが最後のページで旅の締めくくりのように登場させて簡単な情景描写とともに、荒廃した境内の風情も面白かったとしみじみして語り、亀井さんはそれなりのページを割いて、荒廃した境内を見て感傷を満喫しています。ふたりとも古刹の荒廃ぶりが趣ある情景として気に入っていたようです。「古寺巡禮」は大正7年の、「大和古寺風物詩」は昭和17年の旅の記録です。ふたりとも法隆寺から法輪寺へまわっていて、ぼくらとはやはり逆まわりでした。


法輪寺へ
 法起寺でコスモス越しに三重塔の写真を撮ったあと、ぼくらは法輪寺へまわりました。両方のお寺は500メートルほどしか離れていません。この距離ならすぐに高さ24メートル弱もある法輪寺の三重塔が見えるかというと、それが林などの陰に入ってしまって歩いている道からは見えません。でも稲刈りのまだ全部終わっていない田園風景が続き長閑(のどか)な気分です。途中、山背大兄王の墓とされる古墳が左に見えます。法輪寺もまた法起寺同様に山背大兄王の創建です。(別の説もあります。)
 三重塔が見えたのは漸く南門前の駐車場の近くまで来てからでした。ところが・・・、どうもいけないね、とぼくらはふたりともがっかりしたんです。三重塔は駐車している数台の車の屋根の上に見えていました。それでも南門の正面にまわってみれば、うしろに三重塔が見えていていい感じです。拝観を終えて法隆寺へ向けて門を出て少し行ったところで振り返れば南門と三重塔はさらに趣ある情景となり、三重塔に見送られているような気分でした。

三重塔
 南門から入るとすぐに拝観受付があり、いらっしゃいませ、とここでも受付の女の人が、慈光院や法起寺同様に声を出して出迎えてくれました。やはりここら辺りの人はおおらかなようです。ぼくらも反射的に、こんにちは、と返してしまいます。
 受付を済ませて境内を見渡せば、すぐ左に三重塔、その向かいに金堂、そして正面には収蔵庫にもなっている講堂が見えています。法輪寺は法隆寺式伽藍でその三分の二の規模だったそうです。室町時代までは創建時の堂塔を保っていたといいますが、今はすべて後世の再建です。それでも金堂、三重塔、講堂が当初と同じ位置に建っているというから創建時の姿を想像できないこともありませんが、金堂は小さめになっているというし、講堂は鉄筋コンクリート造りです。ただ三重塔は最近の再建ですが忠実に復元されています。

 三重塔は戦争中の1944年(昭和19年)7月21日に落雷で焼失しました。国宝でした。ということは、法輪寺の荒廃ぶりを愛でていた和辻哲郎も亀井勝一郎も焼失前の三重塔を観ているわけです。ちなみに法起寺の三重塔は昭和50年の解体修理で創建時の姿に復元されていて、それまでは江戸時代の修理により創建当初とはちょっと違った姿になっていたそうで、もし和辻さんと亀井さんが法起寺も訪れていたとしたら、ぼくらが観たのとは少し異なる姿の三重塔を観ていたことになります。
 それはともかく、法輪寺の三重塔が創建から1300年も建っていたのに雷で焼けてしまったというのはいかにも惜しいことでした。境内の案内板によると、すぐに再建を発願しますが全焼だったため国宝指定を解除されまったくの独力での再建となり費用の工面が大変だったようで、作家の幸田文(幸田露伴の娘)の支援などを得て、宮大工の西岡常一(薬師寺金堂西塔の再建で知られる)により創建時の姿に復元されて昭和50年3月に落成しています。
 実は、ぼくはその年の春4月、初めての仏像めぐりの旅で法輪寺を訪れて、再建直後の丹も真新しい三重塔を観ています。もちろんその時はそういうこととは知らなかったから、まだ新しいんじゃないの、と、特に感慨深いものもなく観ていました。

講堂
 ぼくとミキオ君の旅は基本的に仏像めぐりです。ここ法輪寺で漸く名を知られた仏像と対面することになります。講堂の諸仏です。なかに入るとここにもお寺の人がいました。上品な感じの尼さんです。法輪寺は、法起寺もそうなんですが、創建時からの尼寺です。いらっしゃいませ、とやっぱりあいさつしてくれます。ぼくらも、こんにちは、とあいさつを返します。尼さんは簡潔に仏さんの説明をしてくれたあと、絵ハガキなどを並べている台の横の席に店番するように座り俯いてなにか書いていました。
 堂内は明るく開放感があって仏像がよく見えます。お堂でも収蔵庫でも、なにが置いてあるのかわからないほどに薄暗くしているお寺もあるのに、ここはおおらかならものです。全部で10体の仏像が安置され、伽藍図や鴟尾瓦(しびがわら)などが展示されています。

十一面観音菩薩立像
 須弥壇に横一列に並んだ7体の仏像のうち、よく知られているのは中央の3体で、その中心に立つのは講堂の本尊十一面観音菩薩立像です。高さ3.6メートルの巨像で、10世紀平安時代の作といわれ重要文化財です。頭部から胴体台座までを杉の一木で造り、膝までとどくほどの長い両腕は別材になっています。なんといっても印象的なのはその顔立ちで、四角い平べったい顔、太目の三日月眉、大きな目は大きく開いて少々吊り上がる、という異相と言えば異相ですが、その個性的な顔は愛嬌がありどこか人懐っこさみたいなものを感じます。こんな顔の観音様はほかにはいないでしょう。何回観ても見飽きない顔です。

 境内には、美術史家で歌人だった會津八一がこの十一面観音菩薩立像を詠んだ歌の歌碑があります。
   くわんおんの しろきひたひに やうらくの かげうごかして かぜわたるみゆ
やうらくは瓔珞(ようらく)で装身具のことで、ひたいに、というんだから、頭に載せた冠のことでしょう。ティアラみたいな冠には小さな宝石のような飾がたくさん下がっています。そこで一首の意味は、白い顔の観音様の冠飾が揺れたみたいだ、風が吹いてきたんだろう、というんでしょう。戦前のことだから、會津八一が観た十一面観音菩薩立像は荒れ果てた旧講堂に安置されていたはずですが、お堂の開いた扉から、一瞬、風が入ってきたんでしょうか、歌には情緒が感じられます。

暴悪大笑面
 ところで、この収蔵庫を兼ねた講堂の仏像安置の仕方がおもしろいと思うのは、仏像の後ろにまわって背面も拝することができることで、めったに見ることができない十一面観音菩薩立像の頭の真後ろに付く一面、暴悪大笑面(ぼうばくだいしょうめん、ぼうあくだいしょうめん)が見られます。
 暴悪大笑面というのは、十一面観音菩薩は人々を救う時、その人にもっとも相応しい表情で導くために、正面の大きな顔のほかに表情の異なる4種類の顔を持っていますが、そのなかで唯一後頭部に付いているのが暴悪大笑面です。その名のとおり口を思いっきり開けてかなり下品に大笑いしていて、この笑いは軽蔑侮蔑の笑いだといいます。辱めることで改心させて救うというんです。暴悪大笑面は十一面のなかのたった一面だけで、しかもうしろについていますから、この表情を見せるとき観音様はうしろを向くわけです。観音様にそっぽを向かれたらその人は見捨てられると思い、きっと悔い改めるでしょう。これはまた、十一面のなかで笑っている顔はひとつだけでそれも正面から見えない裏にあることから、人を笑ってはいけないという人生訓でもあるといいます。
 いずれにしてもこの暴悪大笑面は本面との表情のギャップが大きくて、そもそも後頭部に顔が飛び出ているなんて、頭の上にずらり並ぶ顔は冠に見えないこともありませんが、これは異常で怪奇なことで、観音様のイメージを崩したくなければ見ない方が良いかもしれません。

 講堂の尼さんは観音様の後ろの顔が光背の穴から見えるのでどうぞ見てくださいと勧めていましたが、頭は台座に須弥壇の高さも合わせれば4メートル以上の高いところにあって、下から見上げると暴悪大笑面は笑っていることはわかりますが、その表情はあまりよく見えませんでした。

薬師如来坐像と虚空蔵菩薩立像
 本尊の両脇は飛鳥時代後期の仏像で、向かって右に薬師如来坐像、左は虚空蔵菩薩立像です。この2体はとも楠材を用いていて重要文化財です。薬師如来坐像は法隆寺金堂の釈迦如来坐像に似ているといわれています。様式的にはよく似ていますが、面長の顔は同じでも表情が全く異なり、アルカイックスマイルは見られません。
 アルカイックスマイルとは飛鳥仏の特徴のひとつで、口元が微かに笑っているように見える表情のことです。例として広隆寺の弥勒菩薩半跏惟像、法隆寺の釈迦如来像、中宮寺の如意輪観音像がよく知られています。アルカイックは「古い」を意味するギリシャ語の「アルケー」から来ていて元々古代ギリシャの美術様式を指す言葉です。「古拙」が近い意味に当たるようです。しかし、エンタシスだのアルカイックだの、どうも日本人は自国の美術様式を西洋様式で言いたがる傾向というか癖があるようで・・・嫌なので、アルカイックスマイルは、「古拙の微笑」では字面も音も硬すぎて微笑んでいる感じがしないから、「古代の微笑」と言い換えておきます。この薬師如来像にはその古代の微笑がなく、といって無表情というわけでもなく、どことなくにこやかな顔ですが、微笑んでいるようではありません。

 もう一体の飛鳥仏は亀井勝一郎が「大和古寺風物誌」のなかで、飛鳥仏のうちでもっとも風格をそなえた美しい虚空蔵菩薩立像、と書いていますが、ぼくにはそれほどとは思えません。額に阿弥陀如来の化仏を付けていませんが、左手に水瓶を持つところはどうみても観音菩薩像です。薬師如来像よりもっと面長で、やはり古代の微笑は見られず、あまり表情のない、どちらかというと澄まし顔でスーと立っています。2体とも微笑まない飛鳥仏でした。


 講堂を出るときミキオ君は2種類の絵はがきのセットを、尼さんにどんな写真が入っているのかと念入りに訊いてから買いました。慈光院でも法起寺でも買っていました。ぼくも若いころは古刹を訪れるたびに、絵はがきセットや飛鳥園の仏像写真を買い求めたものでした。今も本棚の下の引き出しに大事にしまってあります。(2018年10月31日 メキラ・シンエモン)

次はいよいよ法隆寺です。が、その前に中宮寺の菩薩半跏思惟像を観ようと思います。

写真:メキラ・シンエモン


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