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中宮寺 如意輪観音菩薩

 法輪寺の南門からまっすぐ伸びる田園風景のなかの道を、三重塔を背にして中宮寺へ向かって歩きます。しばらく行くと突き当りに溜池があって田園風景は終わりです。池を右にまわり込みさらに進むと、民家の屋根と屋根のあいだから法隆寺の五重塔が、五重と相輪だけ小さく見えていました。
 どれほど歩いたでしょうか、漸く道の左側が築地になっているところへ来ました。塀のずっと先に法隆寺の東院伽藍(夢殿)の四脚門が小さく見えています

 ぼくとミキオ君の斑鳩めぐりは慈光院からはじめて法起寺法輪寺をまわって法隆寺の東院まできました。和辻哲郎、亀井勝一郎をはじめ多くの人が辿るのとは逆のコースです。逆順なら次は中宮寺で、そして東院伽藍へまわり、最後に西院伽藍(金堂、五重塔、大講堂)を拝するということになるのですが、中宮寺へは東院の境内を通って行くようになっています。その東院の拝観券は西院との共通券になっていて、それは西院で買わねばなりません。西院と東院は四脚門と東大門のあいだの参道で繋がっています。それでここからの拝観順序は金堂→五重塔→大講堂→大宝蔵院→夢殿→中宮寺が効率的となります。でも書く順番はわけあって、夢殿と中宮寺→中蔵と南蔵→金堂と五重塔→大宝蔵院にします。


東院伽藍 夢殿
 法隆寺の東院と中宮寺はともに聖徳太子を悼むお寺です。夢殿のある東院が建つ場所は聖徳太子の斑鳩宮があったところです。東院のはじまりは、奈良時代の初めに行信(ぎょうしん)という坊さんが斑鳩宮の跡が荒廃している様を嘆き、太子を供養するために建てた上宮王院(じょうぐうおういん)というお寺でした。一時衰退しますが平安時代の初めに道詮(どうせん)という坊さんが復興しました。その後平安時代の中ごろ法隆寺と合体し、それ以来東院と呼ばれています。

 夢殿は上から見ると八角形をした八角円堂という形式のお堂です。八角円堂は亡くなった人を追悼する形だといいます。夢殿という呼び名は奈良時代の終わりごろからで、はじめは八角堂、八角円堂、正堂、聖堂などと言ったそうです。鎌倉時代の修理で当初より屋根が2メートルほど高くなっています。
 八角円堂の屋根の頂部には露盤(ろばん)という、三重塔などの相輪に当たる飾が載っています。夢殿のそれは大き目で宝珠(ほうじゅ)が光を放つ意匠がとても豪華です。創建当初からのものだといいます。優れた良いデザインだと思います。

 ところでなぜ夢殿なんでしょう。聖徳太子が夢の中で金人(仏)に出会ったという話に由来するとも、逆に夢殿という名前からそういう話が生まれたともいいます。ロマンを感じさせる呼称だと普通は言うようですが、夢うつつなのか、それとも叶わぬ夢なのか、ぼくはどうもこの呼び名には大安寺の「嘶堂(いななきどう)」のような気の利いた洒落が感じられません。「虚仮殿(こけどの)」いや「虚仮堂」というのはどうでしょうか、字面も音もあまり良くないので一般受けしないこと請け合いですけど・・・。でも、ご本尊はあの観音様ですよ、夢殿の"夢"は、まさか怖い夢じゃないでしょうね。

救世観音菩薩立像
 夢殿の本尊は聖徳太子の生前の姿を写したといわれる像高180cmの救世観音菩薩立像です。聖徳太子は背が高かったようです。秘仏で春と秋に御開帳がありますが、きょうは厨子の扉は閉じたままです。少し日をうしろにずらせば観ることができました。
 今回の旅ははじめ考えていた柳生街道の「滝坂の道」が9月の台風で崩れて通行止めになってしまい、オルタネイトにと考えていた斑鳩になったのでした。斑鳩に決める時、ミキオ君に法隆寺で「法隆寺秘宝展」も観られるからと言うと、少し日にちを遅らせれば夢殿の救世観音の御開帳で上御堂(かみのみどう)の御開帳もありますよと教えてくれました。上御堂は藤原初期の釈迦三尊像を安置していてちょっと魅力でしたが、救世観音は昔からどうも顔が好きになれなくて、お化けみたいな顔で聖徳太子はまさかこんな顔ではなかったろうと思うわけですが、その顔を見るために、わざわざ日をずらす気にはなれませんでした。夢殿のご本尊をこの目で観たらその日の夜、夢に出てきてうなされそうです。

夢殿の肖像彫刻
 夢殿には創建の行信僧都の脱乾漆像と復興の道詮律師の塑像も安置されています。2体とも等身大で、行信僧都像は目を吊り上げて怒っているような厳しい顔をしていて、道詮律師像はおとなしいおじいさんのような目じりが下がった穏やかな顔です。行信僧都像は奈良時代の作で脱乾漆像はまあ普通ですが、道詮律師像は平安時代初期の作で塑像です。これはちょっと意外かもしれません。塑像といえば東大寺戒壇堂の四天王像新薬師寺の十二神将像、東大寺ミュージアムの日光・月光菩薩像と弁財・吉祥天像、岡寺の如意輪観音像などがよく知られていて、法隆寺にも有名な五重塔初重四面の塑像群や大宝蔵院の四天王像、梵天・帝釈天像がありますが、いずれも天平彫刻です。平安時代になっても初期にはまだ塑像が作られていたみたいです。この2体の優れた肖像彫刻はともに国宝です。お堂には入れないものの扉が開けてあるので、お餅を焼くにはだいぶ大きすぎる網目のクリンプ金網越しに観ることができます。

中宮寺
 中宮寺へは東院の境内を通って行きますが、連絡通路なんていうものはないから移動は門から門です。拝観受付では、いらっしゃいませ、法隆寺も見てから来られましたか、と訊かれます。法隆寺を観てから来ると拝観料が割引になるんです。はい、と返事して500円を払います。これで割り引いてあるようです。あれっ、法隆寺を見て来たかって・・・夢殿から入って来たんだから当たり前じゃない、でも訊くということはほかにも入口あるんだろうか・・・、考えてみれば東院を見ないと入れないというのも変・・・、と一瞬思ってすぐに忘れました。ミキオ君は早速売店で絵はがきのセットを買っていました。

 本堂前の築地の下、ここにも會津八一の本尊の菩薩半跏像を詠んだ歌の歌碑があります。
   みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさのひかりの ともしきろかも
ともしきろかも」ってなんのことか解りませんね。自分で付けた注釈に「かそけくなつかしきかな」という意味だと書いているそうです。やっぱりよく解りませんが、尼寺の観音様の顎と肘に注ぐ朝日の感じがなんとなくなつかしい、というような意味でしょうか。法綸寺で詠んだ歌の方が解りやすいしいいみたいです。ちなみに、ぼくは本尊の菩薩半跏像は如意輪観音だと思っています。(あとで詳しく。)

 きょうはどこへ行っても人が少ない日で、本堂に入るとここもぼくらふたりだけです。なかに尼さんがひとり座っています。中宮寺は門跡尼寺です。ちょっとしてから夫婦連れがきましたが、もうそれだけです。尼さんは、さっきまで大勢おられましたが帰られて静かになった良い時においでになられました、もう来られる方はいらっしゃらないようですので、ご解説のテープをお流しいたします、なんて、のんびりした声で言います。
 カセットテープに録音した声がシンとした堂内に流れました。はじめは行儀よくおっちゃんしていましたが、すぐにあぐらに座りなおして聴いていると、解説といって、内容は知っていることばかりです。ミキオ君は神妙な顔で聴いていました。(おっちゃんは金沢の方言で正座のこと。)

天寿国曼荼羅繍帳
 ぼくの座っているちょうど真横には天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)のレプリカが掛けてあって、テープの解説がこの天寿国曼荼羅繍帳に来た時ミキオ君に、本物は奈良博だよ、と耳打ちした途端にテープの声が、実物は奈良国立博物館に寄託されています、と解説したから驚きました。

 天寿国曼荼羅繍帳は聖徳太子の妃で橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)という女性が作らせた、太子が極楽浄土(天寿国)に生まれ変わった姿を描いた刺繍絵画です。絵師に下絵を描かせて采女(うねめ)と呼ばれた後宮女官が刺繍したといわれています。収蔵場所があっち行ったりこっち行ったり、火災にも遭ってボロボになったのを状態の良い部分だけ4枚を1枚の絹布に貼ったのが今残っている天寿国曼荼羅繍帳です。縦89cm横83cmで、駅などで見かける観光ポスターほどの大きさですが、元は縦2m横4mの帳(とばり)を2枚横につなげたかなり大きなものだったそうです。
 描かれている人物の絵はどことなく漫画チックで、まんまるお月様にうさぎさんがいたり、亀の丸い甲羅に「部間人公」と字が書いてあったりします。この「部間人公」は聖徳太子のお母さんの穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)の名前の一部とみられているようです。中宮寺は聖徳太子がお母さんの菩提を弔うために宮殿の跡に建立したお寺で、お母さんが皇后、つまり中宮だったので中宮寺となったといわれています。(別の説もあって確証はないようです。)日本最古の刺繍で本物は国宝ですが、絵柄にどこかほのぼの感がある古代の刺繍絵です。

如意輪観音菩薩半跏思惟像
 これほど美しさで人気の仏像もないでしょう。古代の微笑(アルカイックスマイル)が美しい中宮寺の本尊菩薩半跏像を、世間では『エジプトのスフィンクス、ダ・ビンチのモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」と呼ばれています』なんて言うことがあるようですが、そんなこと、だれが言い出したんでしょう、砂漠の獅子人間や眉の無い西洋婦人と一緒にするなんて・・・、格が違います。とは、ちょっと言い過ぎ騒ぎ過ぎですが、お寺のパンフレットにまでそう書いてあってがっかりした故です。

 そんな話は実はどうでもよく、この仏像の呼び名のことです。お寺では昔から如意輪観音像と言っていますが、半跏思惟のポーズから弥勒菩薩像と考えるのが普通です。それでお寺のパンフレットにも「本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)」となっています。そんな遠慮することないのに、門跡寺院なんだから・・・。
 弥勒菩薩だというのはポーズだけ見て言うのではありません。如意輪観音は六臂、つまり腕が6本ですが、中宮寺の像の腕は2本です。肢体に関する決まり事の違いは決定的にみえます。ところが腕は2本だけもいいということが、こともあろうに「大和古寺風物誌」に書いてあります。亀井勝一郎はなんとかという博士の、如意観音の本質は頬に触れた1本の手で中宮寺の如意輪観音はそれを強調したと考えてよい、という説を支持した上で、如意輪観音菩薩像の最高傑作で正しく六臂を備えた、観心寺の如意輪観音菩薩像と比較して「ところが中宮寺の像は、かような観音のもつ一つの面だけを美しく柔軟に理想化したのであろう。」(大和古寺風物誌 新潮文庫)と、なんとも柔軟な発想で書いています。
 いろんなことをたくさん知っている人の書いた本はぼくには読むのが大変で、何が書いてあるのかほとんど解らないのですが、これにはぼくも賛成で、中宮寺の菩薩半跏像はお寺に伝わる呼称の如意輪観音がいいと思います。この観音様の"美しい"はどちらかというと"きれい"あるいは"かわいい"で、髪も双髷(そうけい)といって丸い玉を二つ並べたような結い方です。そんな髪型の弥勒菩薩なんてちょっと想像できないし、それに弥勒様じゃ中宮寺にいる意味がわかりません。


 中宮寺の菩薩半跏像は創建時からの本尊だったかどうかは不明だそうです。漆黒と表現されるほど黒光りしていますが、元は肌色に彩色されていたというからマネキン人形みたいな感じだったんでしょうか。長い年月を経て下地の漆がすっかり露出し、蝋燭、燈明、線香の煙によってこうなったといいますが、ここまで、まっくろくろすけ、になるもんでしょうか。もっともこの黒い肌が美しさの一要因です。それと冠や瓔珞(ようらく)は釘跡だけ残して一切失われていて、あんまり大事にされてこなかったみたいにも見えます。作られた当初の姿はどんなだったんでしょう。体勢を見ると、この像の美しさを決定づけている右腕は付き方が不自然で、この姿勢を人間がとるのはかなり無理があるとも言われています。そこまでして美しく魅力的な観音様を作りたかったみたいです。どうして、は考えないでおきます。本堂の外へ出ると、築地のむこうに夢殿の屋根が見えていました。(2018年11月6日 メキラ・シンエモン)

次は「法隆寺秘宝展」です。

写真:メキラ・シンエモン


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