2-65

飛鳥路シリーズ

飛鳥寺 645年のクーデター

 奈良桜井の聖林寺には仏像ファンならどうしても観ておきたい、豊麗な姿で知られる十一面観音菩薩像があります。でも、拝観するにはなかなか決意が要ります。奈良市中心部からは遠いうえに、近くで観るべき仏像があるお寺と言えば快慶作の渡海文殊菩薩像を本尊とする安倍文殊院が2キロ以上も離れたところにあるだけなのです。
 ということは、つまり安倍文殊院も同じ環境なので、聖林寺へ行くなら安倍文殊院にもまわります。
 そのあとは奈良市内のお寺に行くのかと言えば、それもよいのですが、そうはせずに、思い切って南へ3キロほど離れた飛鳥大仏まで歩いてみようか・・・と企てるのは、きっとぼくだけではないはずです。
 さらにそこまで行くのなら、飛鳥は日本の古代史の舞台ですから、ついでにその4キロ四方ほどの狭隘の地をいろいろ見てまわりたい気になるのも、ぼくだけじゃないでしょう。
 ではそうすることにして、でもなんの考えもなく歩きまわれば、それはただのほっつき歩き、痴呆老人の彷徨と変わりません。そうならないためにあらかじめ古代史のどこかにはっきりと焦点を定めておきます。意識にないものはそこにあっても気が付かないし目にも映りません。その焦点は考えるまでもなく「乙巳の変(いっしのへん)」と「壬申の乱(じんしんのらん)」のふたつです。


飛鳥路
 10月の下旬、秋晴れの青い空が澄んで気持ちよく高い日・・・にはならなかった、全天を覆う低い雲に時々小さな切れ目ができて青い空が覗いたかと思うとすぐに消えてしまう、雨が降らないだけマシだよと自分に言い聞かせるしかない日、岩波文庫の万葉集上巻をリュックサックに忍ばせて、桜井の聖林寺から明日香の天武・持統天皇陵まで飛鳥路を、いつものように友人のミキオ君とふたりで歩きました。その日はカレンダーが赤い字にはなっていない今年だけの祝日「即位礼正殿の儀」の日でした。

飛鳥寺
 明日香村の中心辺りにある飛鳥寺(安居院:あんごいん)の前身は、聖徳太子のころに蘇我馬子(そがのうまこ)が建てた蘇我氏の氏寺で法興寺(ほうこうじ)ともいいました(元興寺(がんごうじ)と名乗った時期もある)。日本で最初の仏教寺院です。その本尊はこれも日本で初めて造られた仏像といわれている丈六の金銅釈迦三尊像で、法隆寺の釈迦三尊像の作者として知られる渡来系の仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が造りました。法興寺は平城京遷都にともない奈良に移転し、名前も元興寺になりましたが、釈迦三尊像はそのまま飛鳥の地に残され、1400年を経た今は中尊の釈迦如来坐像だけが、光背も台座も失われた満身創痍の痛々しい姿ながら残っていて、飛鳥大仏と親しみを込めて呼ばれています。(この釈迦如来像については、回を改めて書こうと思います。)

飛鳥大仏


槻の木の下で
 この法興寺の槻(つき)の木のある庭で催された蹴鞠(けまり)の会で、「大化の改新」のプロローグ「乙巳の変」と呼ばれている蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害したクーデターのふたりの首謀者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ:後の藤原鎌足)が初めて接触したと日本書紀の皇極紀に書かれています。すなわち、中大兄が球を蹴ったとき履いていた沓(くつ)が脱げて飛び、それを鎌子が拾って返したのがきっかけでふたりは知り合ったというのです。

 本当にそんなことがあったのでしょうか。
 鎌子は山背大兄王(やましろのおおえのおう:聖徳太子の嫡男)の一族を殺し権力をほしいままにする入鹿を倒したいと思い皇族などから同志を募り、そのリーダーに中大兄をと考えていましたが、あまりに近寄り難い存在だったので、その胸の内を打ち明けることができずにどうしたものかと悩んでいるところへ、中大兄が法興寺で蹴鞠を催すと知り自分も参加することにしたということが、これも皇極紀に書いてあります。中大兄の方も蘇我氏打倒を考えていてパートナーとして鎌子に目を付けていたといいます。
 それならこの出来事は、ふたりの出会いが偶然に見えるように装った計画的なものだったような気がします。たぶん、鎌子が仕組んだのでしょう。

 その日の朝早く、大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)は法興寺の槻の木のある庭に砂を撒いていました。台風から変わった温帯低気圧が降らせた雨は明け方になってようやく止みましたが、まだ空は低い雲に覆われていてぬかるんだ地面はすぐには渇きそうにありませんでした。大海人はお兄さんの中大兄に頼まれて庭を乾かすために砂を撒いていたのです。大海人は舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子で11歳、母親が同じ六つ年上の兄を尊敬していました。
 大海人が砂を撒き終わって家に帰ろうと法興寺の築地塀の角を曲がったところで後から話しかける人がいました。おはよう、大海人くん、ひとつ頼みたいことあるんだけど、兄上にこの文をだれにもわからないようにして渡してもらえるかな、いいね。話しかけたのは母親の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の弟、すなわち叔父にあたる軽皇子(かるのみこ:「乙巳の変」の後に即位する孝徳天皇)で、文には、今日の蹴鞠ではしくじったふりをして沓を飛ばしてください、鎌子が拾います、と書いてありました。軽皇子と鎌子は親しい間柄でした。

というようなことが、あったのかもしれません。


 法興寺の蹴鞠で知り合った二人は南淵請安(みなみぶちしょうあん)のところへ論語を学ぶためと称して通い、その往き帰りの道で入鹿打倒の密談をしたと皇極紀にあります。南淵請安は小野妹子(おののいもこ:第一回の遣隋使)と一緒に留学生として隋に渡ったことのある学者です。蘇我氏を嫌って遁世者のようにしていましたが、ふたりの志を知りその学問の師となりました。「南淵先生之墓」と刻んだ石碑が、石舞台古墳のずっと南の飛鳥川沿い、飛鳥寺からは2.5キロほど離れた稲渊(いなぶち)という集落にあって、請安の住居があったところだといいます。中大兄と鎌子がたびたび通ったとすれば、それがどのくらいの期間だったのかは知りませんが、1年ほどだったとすると、往き帰りの道すがらクーデターの計画を充分に練ることができたはずです。

 ここから先の話は知っての通りです。645年6月12日、激しく降る雨の中、皇極天皇の板蓋宮(いたぶきのみや)の大殿で朝鮮半島からの使節が調(みつぎもの:貢物)を奉ずる儀式の最中に入鹿暗殺は決行されました。
 この惨劇を目撃した、次の天皇は自分だと確信していた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ:舒明天皇の皇子で中大兄と大海人の異母兄、母親は馬子の娘で入鹿とはいとこの関係)は、慌てて自分の宮に帰り「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ:入鹿の通称)を殺しつ、吾が心痛し」と言って自室にこもり門を閉めました。
 この"韓人"とはどういう意味なのか、謎の言葉とされています。韓は昔も今も朝鮮半島のことで、韓人はそのころ朝鮮半島にあった高句麗、新羅、百済のいずれかの国の人という意味でしょう。それでは具合が悪いからか、歴史家も小説家も、いろいろ苦しい理由を考えて、中大兄のことだというのですが、明確な答はないみたいです。
 ひょっとすると入鹿を殺した下手人は中大兄たちではなかったのかもしれません。つまりこのクーデターには正史に書くことができない、もっと複雑で込み入った事情があった。あるいは「乙巳の変」というクーデターそのものがなかった。・・・のかもしれません。


 中大兄皇子と中臣鎌子を結びつけた蹴鞠が催された槻の木の庭は法興寺の伽藍を囲む築地塀の外の西側にありました。今は田んぼで、飛鳥寺から50メートルほど行ったところに鎌倉時代の五輪塔が一基立っていて「蘇我入鹿の首塚」と呼ばれています。入鹿の首がここまで飛んできたとも、入鹿を供養するためにその首を埋めたとも言われています。今日はどこかの高校が、男の子の姿が見えないのできっと女子高なんでしょう、修学旅行でしょうか、バスを連ねて来ています。(2019年10月28日 メキラ・シンエモン)


 次回は山田寺跡です。

写真:メキラ・シンエモン



 ホーム 目次 前のページ 次のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。