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飛鳥路シリーズ

山田寺跡 興福寺「銅造仏頭」の身元

 興福寺の国宝館に、ひとつの、銅で造られた如来像の頭部が展示されています。国宝で銅造仏頭といいます。分類識別上の呼び名で固有名称ではないみたいですが、これが正式名です。頭部だけでは釈迦如来とも薬師如来とも阿弥陀如来ともわからないからこう呼ぶしかないのでしょう。
 丈六仏、すなわち立像では5メートルほどもの高さになる巨大な如来像の頭部なのでかなりの大きさですが、ひどく破損していて肉髻(にっけい:如来の特徴である頭頂部の盛り上がり)は完全に失われ、左の耳は陥没しています。しかも所々火災に遭った痕が見られます。それが意図的にそう造ったみたいにも見えて、どこか現代美術のような雰囲気があって、その切れ長の目は美しく表情には心を揺さぶられるものが感じられ、完全無欠の仏像より多くを語りかけてくるようです。この仏頭の由来を知ったとき、その印象は一層強いものになります。

 この仏頭は正式名で呼ばれることはほとんどなく、山田寺仏頭という通称がよく知られています。この通称がどうして付いたのかというと、ちょっとややこしい話になります。
 平安末期に平重衡(たいらのしげひら:平清盛の五男)の南都焼き討ちで焼失した興福寺の東金堂が再建されたとき、建物は完成しているのに本尊がなかなか出来上がってこないので、東金堂の堂衆、つまり僧兵が焦れて、不仲だった山田寺(やまだでら)の講堂から薬師如来像を強奪してきて本尊としてしまったというとんでもないできごとがありました。そのあと東金堂はまた火災に遭い、山田寺から奪った薬師如来像も焼けてしまいますが、室町時代に建て直されて本尊も新しく造られました。それが現在の東金堂とその本尊薬師如来坐像です。
 時が流れて昭和12年、東金堂を修理したとき、本尊の台座の内側から木箱を台にして置かれている破損した銅製の仏頭が見つかりました。この仏頭こそが銅造仏頭で、美術史などの専門家が議論した末に、これは山田寺から奪ってきた薬師如来像の頭部に違いないということになり、以来、山田寺仏頭と呼ばれるようになりました。でも、状況証拠だけでそう言っているわけで、正式名は銅造仏頭なのです。



 「即位礼正殿の儀」の日、桜井の安倍文殊院から飛鳥寺へ向かう道の途中、明日香村に入るほんのちょっと手前にある山田寺跡に寄りました。山田寺仏頭ゆかりの地を訪ねて、いいえ、石川麻呂を偲んで・・・。


山田寺跡
 低く覆いかぶさるような曇り空の下、安倍文殊院から畑でもない田んぼでもない秋草が茂る荒れ地に挟まれた寂しい道を20分ほど歩くと集落が見えてきます。集落の中に入ってさらに進むと、左手に小さな溝を渡って登る緩やかな坂道がありました。道端に磐余道(いわれのみち)と刻んだ小さな石の道しるべが立っています。ぼくらは磐余道を歩いてきたのですが、磐余道が何かについては別の機会に譲ります。もうひとつ、坂道を指して立つ道しるべがあって、木片にもうほとんど消えかかったかすれた字で山田寺跡と書いてありました。

 その短い坂を上がるとすぐに山田寺跡です。右手に「史蹟山田寺址」と彫った大きな石柱と小さな観音堂があります。観音堂は錆びた鉄の柵に囲まれていて、藤棚も作ってあって、それらは要らないものに見えますが、石柱のうしろに集会場のように見える平屋と倉庫が建っているのは残念なことに思えます。いや、この往時をまったく想像させてくれない趣のない景観こそが山田寺の跡に似つかわしいのかもしれません。

 そうかと思うと左手は広場で駐車場かと思ったら違っていて、発掘調査でわかった寺域の一部を整備してあったのでした。復元イラスト付きの解説案内も建ててあって、南門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並んでいた荘厳な大寺だったことがわかります。辺りには人っ子一人いません。


 ここにあったという山田寺を建てたのは蘇我倉山田石川麻呂(そがくらのやまだいしかわまろ)でした。そうです、ぼくがこの古代の寺跡で偲んでみたいと思っている石川麻呂です。

山田寺講堂の薬師如来像
 「乙巳の変」は中大兄皇子と中臣鎌子だけでやったクーデターでは、もちろんありません。蘇我入鹿暗殺に直接手を下した人たちのほかに、クーデターを成功させるために重要な役割を果たした人たちが、やはりいました。なかでも最大の功労者が蘇我倉山田石川麻呂でした。名前でわかる通り蘇我氏の一族です。

 この倉山田石川麻呂が建てた寺が山田寺で、その講堂の本尊薬師如来像は興福寺の東金堂へ持ち去られたのでしたが、石川麻呂存命中には講堂はまだ建っていませんでした。つまり興福寺に持っていかれた薬師如来像を造ったのは石川麻呂ではなかったのです。では、造ったのはだれだったのかというと、中大兄皇子の娘だった持統天皇で、石川麻呂の追悼のためでした。

 クーデターの主導者の娘が、最大の功労者を追悼するのはあってもおかしくないことですが、そのためにわざわざ講堂を建てて丈六の金銅薬師如来像まで造るのは、ちょっとやりすぎにも思えます。講堂の本尊だったとなると、きっと日光・月光菩薩を脇侍にした三尊像で、十二神将も揃っていたことでしょう。となると、この追悼は、それほど単純なことではない、よほどの事情があったようです。

 そこでまずは倉山田石川麻呂の「乙巳の変」で果たした役割についてです。が、この先はちょっと長くなりそうなので、続きは次回にしようと思います。


 載せた写真の内、銅造仏頭と連子窓(れんじまど)は山田寺跡の近くにある「国立文化財機構 奈良文化財研究所 飛鳥資料館」で撮りました。写真撮影禁止の貼り紙がなかったので、写真を撮ってもいいんですか、と受付に座っていた女性に訊いてみたら、フラッシュを使わないのならいいわよ、という返事だったんです。銅造仏頭はもちろんレプリカで、連子窓は発掘調査で出土した東回廊のもので保存処理された実物です。
 この飛鳥資料館は山田寺跡に近いためか、山田寺関係の展示が充実しています。高松塚古墳の壁画も再現されていて、なかなか見ごたえのある博物館になっています。と褒めちぎっているのは、この日は「即位礼正殿の儀」のお祝いで特別に無料開放されていたこととは無関係です。一般の入館料は270円ですから・・・。(2019年11月1日 メキラ・シンエモン)

 続く・・・

写真:メキラ・シンエモン


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