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飛鳥路シリーズ

山田寺跡 持統天皇の誓

 興福寺国宝館の銅造仏頭は飛鳥仏の二次元的な造形が三次元的に変わる天平仏の先駆けとなった仏像で、最初の日本的な如来像と言われています。
 山田寺仏頭とも呼ばれていて、飛鳥にあった山田寺講堂の薬師如来像の頭部だと信じられています。ひどく破損していますが、仏様というよりどこか人間的な雰囲気を感じさせる顔で、その心を揺さぶられる表情が魅力です。
 山田寺は641年に蘇我倉山田石川麻呂がその氏寺として建て始めましたが、講堂を建て薬師如来像を安置したのは持統天皇で、石川麻呂が亡くなったずっと後のことでした。


ふたりの老臣
 法興寺の蹴鞠で親しくなった中大兄皇子と中臣鎌子はクーデターを成功させるには有力者の協力が要ると考えます。中大兄はまだ17歳で若かったし、30歳の鎌子は閑職に追いやられていました。
 そこで鎌子は人望のある老臣を仲間に引き入れます。安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)と蘇我倉山田石川麻呂のふたりです。鎌子は倉梯麻呂を説得してその娘を皇極天皇の同母弟、かねてより接近していた軽皇子の妃にし、中大兄には倉山田石川麻呂の娘を妃とするよう勧め、中大兄はそれに従いました。

 中大兄と鎌子が、常に警戒を怠らず隙を見せない蘇我入鹿を殺害する場として考えたのが、大殿での三韓(高句麗、新羅、百済)からの使節が貢物を奉ずる儀式で、上表文を読みあげているときに刺客が急襲するという計画でした。
 上表文を読み上げる者はそれに相応しい地位にあってしかもその場で起きることを知っている人間でなければなりません。その役を中大兄から託されたのが石川麻呂で、決行の四日前に言い渡されたのでした。

 そんな直前に知らされてよく承知したものですが、娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄に嫁がせるとき、その意味をよく理解していたのでしょう。遠智娘は親思いのやさしい娘でした。はじめ姉が中大兄の妃になることになっていましたが、直前に一族の者に犯されてしまい父親が困っていることを知り、安心させようと自分からすすんで姉の代わりに妃となり中大兄に誠心誠意尽くしました。

新体制の権力者
 クーデターの後、皇極天皇は退位し弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となります。経緯から言って中大兄が即位してもいいところですが中大兄と鎌子は慎重です。中大兄はまだ19歳で重みがないと考えました。中大兄は皇太子となり、鎌子は鎌足と改名して中大兄の側近になります。そして倉梯麻呂を左大臣に、石川麻呂を右大臣に据えました。孝徳天皇は操り人形にすぎず老臣二人も名目だけの大臣で、実権は中大兄と鎌足が握り「大化の改新」の諸政策を推し進めます。

 これでクーデターは終わったかというと、そうはなりませんでした。

蘇我倉山田石川麻呂
 ふたりの老臣は役目を終えたもう要らない人たちでした。倉梯麻呂は病没しますが、石川麻呂は実の弟に謀反を起こそうとしていると訴えられます。
 もちろん冤罪でしたから、息子の輿志(こし)は釈明するよう父に言いますが、石川麻呂は無駄なことだと答えて、造営中だった山田寺で自害します。納得のいかない輿志は山田寺に籠って戦い敗れて自殺しました。

 考えてみれば自分ははじめからこうなる運命だったか、妻や子、一族の者には申し訳ないことをした、娘を中大兄皇子に嫁がせたのがきのうのことに思える、と石川麻呂は思ったことでしょう。
 そして中大兄の妃になっている娘と娘が生んだ孫たちが心配だったにちがいありません。あの子は優しい子だ、大丈夫だろうか、上の孫は母親に似ておとなしい子だ、下の孫は勝気な子だがまだ幼い・・・。

鵜野讃良皇女
 石川麻呂の娘、中大兄の妃となっていた遠智娘はこの事件にショックを受けまだ幼い娘たちを残してまもなく病死します。「乙巳の変」の隠れた犠牲者でした。
 遠智娘が生んだ最初の皇女を大田皇女(おおたのひめみこ)といい、二番目の皇女を鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)といいます(鵜の漢字は正しくは盧鳥と書きます)。この鵜野讃良皇女こそが後の持統天皇です。「乙巳の変」の年に生まれています。どこか因縁めいてあるいは運命的も思えます。祖父の石川麻呂が自害したときは4歳でした。
 幼い鵜野皇女にはなにが起きたのかがわからなかったでしょうし、母親もなにも話さなかったでしょう。ものの道理が解るまでに成長したころ、祖父の死の真相、そのために母親が亡くなったことを知り、いつかきっとその無念を晴らしてみせると誓ったと思います。
 そして13歳になった年、13歳年上の叔父大海人皇子の妃となりました。

孝徳天皇
 石川麻呂はいなくなりましたが、中大兄と鎌足には消えてもらわないといけない相手がもうひとり残っていました。
 飾り物のはずだった孝徳天皇が難波に宮を移して張り切っていました。中大兄と鎌足にとっていずれはなんとかしないといけない存在でしたが、さっさと殺してしまうわけにはいきません。
 ふたりは孝徳天皇を無視することにして、宮を飛鳥に戻してしまいます。孝徳天皇が頼りにしていた老臣ふたりはもういません。最愛の妃、倉梯麻呂の娘が生んだ有間皇子(ありまのみこ)を残して天皇は失意のうちに病死しました。

有間皇子
 孝徳天皇の忘れ形見、有間皇子は優秀でした。この立場で優秀であることは危険です。まもなく罠に嵌められ謀反の罪に問われます。
 万葉集に有間皇子の歌が載っています。
   磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた帰り見ん(巻第二 141)
有間皇子は結んだ松の枝を再び見ることはありませんでした。だれもが涙を流す、万葉集のなかでももっとも同情を誘う歌です。

 孝徳天皇が亡くなり有間皇子を殺したあとも中大兄はまだ即位しません。皇極天皇が再び即位して斉明天皇となりました。

天智天皇
 中大兄が即位して天智天皇となったのは斉明天皇が亡くなり7年間の天皇不在を経たのちのことでした。
 即位する前に飛鳥を離れ近江大津に宮を移しました。人心を一新したかったのか、飛鳥はいろいろあったから居心地がよくなかったのか、だったんでしょう。即位後に弟の大海人皇子を皇太子とします。即位から3年で病没しました。

天武天皇
 天智天皇が亡くなると大海人は天智天皇の第一皇子大友皇子(おおとものみこ)と皇位継承をめぐって争います。「壬申の乱」と呼ばれているこの内乱の勝者となった大海人は即位し天武天皇となりました。
 鵜野皇女は実の姉の大田皇女が亡くなっていたので皇后となります。皇后となり、祖父と母の無念を晴らす時がきたと思ったはずです。

薬師如来像
 石川麻呂の冤罪は天武天皇によって晴らされ、その名誉は回復されました。鵜野皇后は祖父と一族、そして母親の菩提を弔うため、山田寺の造営を再開し、講堂に薬師如来像を安置しました。悲劇から36年が経っていました。
 興福寺に伝わる銅造仏頭が石川麻呂の山田寺にあった薬師如来像のものなのなら、あの人間臭さを感じさせる顔には鵜野皇后の祖父と母への思いが現れているのかもしれません。

 こうして鵜野皇后は誓いを果たしましたが本当の戦いはここからでした。

大津皇子
 夫の天武天皇が即位から13年後に病気で亡くなると、鵜野皇后は最愛の息子草壁皇子(くさかべのみこ)を天皇の位につけるため、天武天皇の別の皇子、実の姉ですでに他界していた大田皇女の子、甥にあたる大津皇子(おおつのみこ)の排除にかかります。草壁は優秀でしたが、この甥も有能で最大のライバルでした。こういう場合の常套手段、謀反を企てたとして処刑しました。
 万葉集にある大津皇子が詠んだ歌です。
   百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻第三 412)
同じく、その姉の大来皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌です。
   わが背子を大和へやるとさ夜ふけてあかとき露にわが立ちぬれし(巻第二 105)
   うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む(巻第二 165)
有間皇子の歌同様に涙を誘います。

珂瑠皇子
 大津皇子を取り除いてこれで安心と思っていたら、草壁は即位する前に病死してしまいます。そこで皇后は草壁の息子珂瑠皇子(かるのみこ:後の文武天皇で聖武天皇の父親)、すなわち自分の孫が成長するまでの繋ぎに自分が即位しました。これが持統天皇です。なんとも凄まじい執念です。

 持統天皇は単なる中継ぎの天皇ではありません。新羅との外交、日本で最初の本格的な都藤原京の造営、日本初の律令「大宝律令」の編纂事業など、男性天皇をも凌ぐ有能な女帝でした。そしてそばには鎌足の次男、藤原不比等がいました。

春過ぎて夏来たるらし
 好きなように想像をめぐらせて今回も書いていますが「乙巳の変」については、なにがあったのか、だれがなにをしたのか、なぜそうしたのかあるいはそうなったのか、その真実に迫ろうといろんな人によって実に様々な説が出されています。それは解析幾何学における平面曲線の漸近線に似て、日本書紀の記述から離れれば離れるほど真実に近づくように見えて、しかし永遠に真実と交わることはないみたいです。

 その真実がどうであれ「乙巳の変」というクーデターから始まる天皇を中心とした中央集権国家建設という物語をぼくは、天智天皇の娘に生まれ天武天皇の皇后となった蘇我倉山田石川麻呂の孫、鵜野讃良皇女の激動の時代を生きた壮絶な物語であると言っても良いような気がします。
 万葉集に持統天皇のよく知られている歌があります。
    春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたる天の香具山(巻第一 28)
百人一首に入っているし国語の教科書にも載っていた、わかりやすく憶えやすい優れた歌です。初夏のすがすがしい情景を詠んだと学校で習いました。
 この歌は藤原京で作られたと言われています。藤原京跡からは南東に香具山がよく見えます。
 でもぼくは、草壁皇子を産んだ翌年の、姉の大田皇女に大津皇子が生まれた19歳のときに詠んだ歌にしておこうと思います。
 私の青春は終わったみたい、現実を生きる女にならないといけないようね、と、この先を予感して詠んだ歌に・・・。


 ぼくとミキオ君は山田寺跡の観音堂の廻縁に腰かけて、近鉄桜井駅構内のファミリーマートで買ったおにぎりとお茶でお昼にしました。おととし、当尾の石仏巡りでは「唐臼の壺」で食べたおにぎりがおいしかったので今回もと思い、それなら山田寺跡にしようと、サンダーバード4号で金沢を出る前から決めていました。ぼくは鮭と昆布のふたつ、ミキオ君は何だったのか、みっつでした。
 でもこの風景はおにぎりを食べるには曇り空を割引いてみても寂しすぎるように思えました。ミキオ君は、なんだここは、という顔です。でもそのうち、だんだんとおにぎりがおいしくなってきました。見ればミキオ君も満足そうな顔でパクついています。三つ目がおいしかったのか。(2019年11月8日 メキラ・シンエモン)





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