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飛鳥路シリーズ

飛鳥大仏 頬に絆創膏を貼ったお釈迦様

 飛鳥寺(安居院)のご本尊釈迦如来坐像は飛鳥大仏と呼ばれています。丈六仏、すなわち身長が一丈六尺だったといわれるお釈迦様と同じ大きさに造られていて、坐像でも3メートル近い高さがあります。大きな仏像に違いありませんが、丈六仏は古刹巡りをすればほかのお寺でも普通にとまでは言わないものの、ああここもか、というほどよく祀られているのに、大仏と呼ばれている例はほかにはないようです。飛鳥寺のご本尊が大仏と呼ばれているのは、お堂が小さくてその分大きく見えてしまうという視覚的な印象もさることながら、日本で初めて建てられたお寺のご本尊で、日本で最初に造られたモニュメント的な仏像でもあって、なにやら貫禄のようなものが感じられるからなのでしょう。このお釈迦様のお顔は傷だらけです。でも美しい。



飛鳥寺の貼紙
 どこのお寺へ行ってもお堂には写真撮影禁止の貼紙がしてあります。文化財保護ということなんでしょうか、仏様にカメラを向けるなんで不敬だというのでしょうか、写真を撮ったりスケッチしたりという行為はほかのお参りの人の迷惑ということもあるでしょう、それが必要な注意書きだったとしても違和感は否めません。この貼紙がないお寺もやはりあって、東大寺の大仏殿にはないし、平等院鳳凰堂にも、もう40年以上も昔のことですが、ありませんでした。黄檗山万福寺にもなかったような気がします。
 飛鳥寺にも写真撮影についての貼紙があって、だたその文言は、どうぞ写真を撮って縁を結んで下さい、となっていて、気安さを感じさせてくれるし親しみが湧きます。というのは、学生時代に訪れたときの話で、今日はその貼紙が見当たりません。といって撮影禁止の貼紙もありません。やっぱり写真は今も昔と同じでいいんじゃないのかな、と思っていると、解説の人が慣れた口調で話す最後に、写真を自由に撮ってください、と付け加えました。昔見た貼紙の文言にあった、縁を結んで・・・、の言葉がなかったのは、ちょっと寂しい気がしました。

 写真は飛鳥寺の正門になっている東門で「即位礼正殿の儀」の祝日だったので日の丸が掲げられていいます。「飛鳥大佛」の石柱は江戸時代後期のもので、載っている台は創建時の礎石だそうです。

蘇我氏の氏寺
 日本への仏教公伝は552年(日本書紀:元興寺縁起では538年)のことで、百済の聖明王(せいめいおう:韓国では聖王(ソンワン))から経典と金銅釈迦如来像が送られてきました。欽明天皇からその釈迦像を預けられた蘇我稲目(そがのいなめ)は甘樫丘の北にあった向原(むくはら)の自宅を寺としてこれを祀ったといいます。(その跡に今は広厳寺が建っています。)
 飛鳥寺はその稲目の長男馬子が587年に建てた日本で最初の仏教寺院で法興寺ともいいました。五重塔を囲むように三つの金堂が建つ大きな寺だったといいます。本尊も日本で最初に造られた仏像で、推古天皇が聖徳太子に指示して法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者として知られる鞍作止利に造らせたといわれる丈六の釈迦三尊像でした。

 写真は飛鳥資料館に展示してあるジオラマで築地塀の右が槻(つき)の木の庭です。

 飛鳥寺は蘇我氏の氏寺でしたが、後になると蘇我氏から離れて公的な施設みたいになっていたようです。その槻の木がある庭で催された蹴鞠の会で「乙巳の変」のふたりの首謀者、中大兄皇子と中臣鎌子がはじめて出会ったことはよく知られていますが、中大兄皇子らは入鹿を暗殺したあと飛鳥寺に入って蘇我氏の襲撃に備えました。「乙巳の変」のあとは官営寺並みの待遇を受け、仏教教学、すなわち仏教の研究と教育の中心的寺院になっていました。
 元明天皇の平城京遷都で元興寺と名を変えて新都に移りますが、馬子の建てた伽藍は本尊とともに飛鳥の地に残され本元興寺と呼ばれました。飛鳥の伽藍は鎌倉時代初期に落雷で五重塔と金堂が焼失し、本尊の釈迦三尊像も破損しました。その後も幾度か火災に遭い、本尊は脇侍も光背も台座も失われてしまいましたが、中尊の釈迦如来像は被災のたびに補修が施され、江戸時代末期に中金堂の跡に建てられた現在の本堂の本尊として今日まで伝わっています。これが飛鳥大仏です。ちなみに現在の飛鳥寺の正式名は安居院です。

飛鳥仏飛鳥大仏
 飛鳥大仏は頭部と右手の指以外はほとんどが後補です。その頭部もかなり修理されていて、その跡が鮮明に残ります。螺髪(らほつ)は粘土で作ってありますが、半分以上なくなっているし、鼻から下はまるで外科手術でも受けたような感じです。
 飛鳥大仏を観る人はきっとだれもがその拙(つたな)い補修に、もうちょっと丁寧にできなかったもんだろうか、と思うでしょう。でも、これがこの釈迦如来像を残そうと修理してきた人たちにとっては、経済的にも技術的にも、精一杯の精誠だったんでしょう。それはいかにもぎこちなく荒々しい補修工作ながら、飛鳥仏特有の北魏様式が失われていないことからわかります。

 納衣(のうえ)と呼ばれる着衣は雑な補修でバリだらけ、シャープさもありませんが、法隆寺金堂の釈迦如来坐像や法輪寺の薬師如来坐像と同じデザインです。
 顔を見れば、オリジナルのままらしいアーモンドの形をした大きな目はキリッとしてそれでいてやさしく、修理されているとはっきりわかる唇は分厚くて不細工ですが、その口元には古代の微笑です。それがちょっとはにかんでいるようにも見えて、ここに座って1400年も経ってしまい顔も体もこんなに傷だらけになっているのに今も毎日多くの人がお参りに来てくれるのが嬉しいやら恥ずかしやら・・・、といった感じです。
 左の頬、頬骨の下あたりには大きな絆創膏が貼ってあるように見える傷があります。その位置が絶妙なもんだから、全体が垢抜けしない中でここだけちょっと粋な感じです。ぼくはこの頬の絆創膏がはっきり見える少し右寄りに立って下から見上げた顔が鼻の形もよくて一番きれいに見えると思いました。

 写真は「飛鳥寺 645年のクーデター」に載せたものと同じです。


 飛鳥寺はぼくが初めて訪れた昔とちがってお寺の沿革やご本尊の解説が聞けるようになり、大型の観光バスが何台も入れる駐車場ができました。「即位礼正殿の儀」の祝日だった今日は修学旅行や老人会の団体が来ています。明日香村自体も発掘調査や遺跡の研究などが進んでいろいろな展示施設があちらこちらに建ち、甘樫丘は見晴らしの良い公園となり、コンビニもできれば道路も駐車場も整備されて自家用車で来るのに便利な、訪れる人を選ばない観光地になっています。同時に宅地化が進み古い家屋は建て替えられ、交差点では信号待ちの車が列をつくり、日本の原風景とまで言われた懐かしさを感じさせるのどかな景観は随分と失われました。ここにも現代に生きる普通の人々の暮らしがあり日常があるのです。それが時代というものなら、飛鳥大仏の微笑みにはホッとさせられる気がします。(2019年12月7日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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