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飛鳥路シリーズ

持統天皇 女帝の時代  ―飛鳥路の向こう側で―

 去年の秋、「即位礼正殿の儀」の祝日に、飛鳥路を歩いているあいだずっと頭にあったのは持統天皇のことでした。いや、今年は飛鳥路を歩こうと決めたときからそうでした。冤罪で自害した祖父の菩提を弔うために寺を建て薬師仏を祀り、香具山の麓(ふもと)に乾(ほ)している白い衣を、春は過ぎて夏が来たようね、と歌に詠んだ女性はきっと美人だったにちがいないけど、どういう人だったのだろう・・・、と。


女性天皇
 皇室典範というものがあって、今は女性の天皇を認めていませんが、国家元首を男性に制限しなかった昔には女性の天皇は存在して、それがどうかすると男性の天皇よりも名前をよく知られています。歴史にはあまり詳しくないぼくが、試しに知っている名前を挙げてみれば、古い順に、推古天皇、皇極天皇(重祚して斉明天皇)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)と次々に出てきます。重祚(ちょうそ、じゅうそ)というのは退位した天皇が再び即位することでふたりもいますが、男性天皇には今日までひとりもいません。
 ぼくが挙げた女性天皇は6人8代ですが、全部で8人10代だったと聞けば、名前が出てこなかった気の毒なふたりはだれとだれよ、と、あなたはきっと知りたくなるかもしれません。(明正天皇と後桜町天皇で、いずれも江戸時代。)
 それはともかく、ぼくが6人8代の女性天皇の名前を知っているのは仏像ファンだからで、国宝の仏像に関わってひとり名前が出てくると芋蔓式に次々と出てきてしまいます。それで名前を憶えてしまうというのはどこか印象深いものがあるからで、それは女性の天皇即位はやはり普通ではなく、そこにはよほどの事情があったから、つまりその即位には事件性があったということです。

女帝の時代
 推古天皇から元正天皇までの5人6代は、7世紀のはじめから8世紀のはじめにかけて、すなわち飛鳥時代から奈良時代初期にかけての天皇です。わずか100年あまりの間に女性天皇が6代も集中して出たというのは、そこに事件性があったというのなら、それはそれだけ激しく時代が動いていたということですが、そこは日本史の大きな転換点でした。そして5人の女帝が名ばかりの天皇ではなかったのなら、この時代は日本史における女帝の時代でした。

 女帝の時代、その中心にいたのは持統天皇です。持統天皇は皇極天皇の皇子天智天皇の皇女で、天智天皇の同母弟天武天皇の皇后だから、皇極天皇の孫であり嫁だったということになります。息子の草壁皇子が早世したので自分が天皇となり、後に草壁皇子の息子、つまり孫の文武天皇を即位させ、自分は史上初の上皇となりました。夫の天武天皇の律令国家建設という志を継ぐためと血統を繋ぐためでした。
 元明天皇は草壁皇子の妃で文武天皇を産みましたが、母親が持統天皇の同母妹で父親は天智天皇なので、持統天皇の姪であり妹です。藤原京から平城京に遷都した飛鳥時代最後の天皇です。元正天皇は奈良時代で最初に即位した天皇で、大宝律令を改正した養老律令を藤原不比等に編纂させましたが、文武天皇の実の姉、つまり草壁皇子の娘だから持統天皇の孫でした。ややこしい親族関係に見えますが、要するに元明天皇と元正天皇は、持統天皇から見て2親等で、お茶の間でちゃぶ台を囲む家族でした。そして元明・元正のふたりの女帝は持統天皇の願い、天武天皇の始めた律令国家建設の完成と、その血筋を絶やさないという願いを引継ぎました。

歴史の意志
 推古天皇は持統天皇とは関係がないように見えますが、推古天皇の摂政が聖徳太子で、太子が理想として目指した秩序のある中央集権国家の建設を天智・天武の兄弟天皇が引継ぎ、それを持統天皇ら3人の女帝が律令国家という形で実現させたのだとしたら、推古天皇からの5人6代の女帝は、あるひとつの意志に導かれていたような気がします。
 その意志は歴史という人格の意志です。それは未成熟だった日本という国が中央集権の法治国家に、隋・唐や三韓(高句麗、新羅、百済)に負けない近代国家になろうとする意志です。もしそういうことなら、蘇我馬子、中臣鎌足、藤原不比等は、この意志がその目的のために用意した頭脳だったような気がします。そしてついには、他の諸民族から見ればどこか孤立していて、きっと常識外れのお人好しに思えるに違いない、日本人という民族を作り上げました。

鉄の女 持統天皇
 日本の古代史の話をしようというのではありません。興福寺国宝館の銅造仏頭と呼ばれている薬師仏が祀られていた山田寺の講堂を建てた万葉の代表的歌人、持統天皇とはどんな女性だったのか、ちょっと興味があります、という話です。
 どんな女性と言っても写真があった時代じゃないし、肖像画もありません。ぼくの手掛かりは、だれでも手にできる普通に本屋で売っている日本書紀の記述と、同じくだれでも手に入れられる万葉集に載る6首の和歌だけです。

 持統天皇という有名すぎる女帝は、男勝りだったとか、情け容赦なかったとか、鉄の女みたいに言われることが多く、どうもあまり評判はよくないようです。壬申の乱で天武天皇が吉野に逃れたとき連れて行ったただひとりの妃でしたが、ただ夫に付き添っていたわけではなくて、ともに謀(はかりごと)をし、兵まで指揮したというし、新羅との外交、藤原京の造営、大宝律令の編纂などの業績もあり、なんといっても大津皇子を謀反の罪で処刑していることが、そういうイメージにつながるんでしょう。
 そうかと思うと、直木賞をもらっている昔のある女流作家は、夫の天武天皇とは寂しい夫婦仲だったと、心から同情して気の毒がっていました。額田王のことがあるからです。額田王は一応、皇族で、万葉歌人として知られていますが、すこぶる美人だったようで、はじめ天武天皇の妃(采女あるいは巫女だっととも)で、壬申の乱で敗れて自害させられる大友皇子の妃となった十市皇女を産んだあと、天智天皇の寵愛を受けますが、天武天皇との関係は続いていて、天智・天武兄弟と三角関係だったという、いかにもゴシップ好きの女性が喜びそうな話があります。万葉集にある3人の歌、天智天皇の「香具山は畝傍をおしと」、額田王の「茜指す紫野行き」、天武天皇の「紫の匂へる妹を」が、そう思わせるようです。それで持統天皇は額田王に嫉妬し、夫の天武天皇を憎んでいたと女流作家は言います。さすが直木賞。

 本当にそれでいいのでしょうか。日本書紀の持統紀には持統天皇の人物について「深沈(しめやか)にして大度(おほきなるのり)あり」「礼を好みて節倹(つづまやか)に、母儀徳(おもたるのり)まします」と書いてあります。つまり、落ち着いていて心が広く、礼儀正しくて控えめで、国母の徳を備えている、というのです。

 大津皇子は容姿がよく才能豊かで人望のある皇子だったみたいですが、本当は謀反を企ててはいなかったのなら、敵対するだれかに付け入られ利用されてしまうかもしれないスキがあったのかもしれず、持統天皇としては排除しておくしかなかったのかもしれません。
 また、額田王をそれほど意識していたとは思えません。皇子がたくさんの妃を持つのは普通のことだったし、額田王が天武天皇の妃になったのは持統天皇が天武天皇の妃になるずっと前のことで、女流作家は額田王をコケットと呼んでいましたが、額田王がどれだけいい女だったとしても持統天皇との年の差がありすぎで、もちろん額田王が10歳ほどおばさんで、身分もかなり違ったから、持統天皇が落ち着いていて心が広かったのなら、額田王を自分と同列に置くようなことは夢にもしなかったと思います。夫を憎むこともなかったでしょう。と言う前に、そもそもこの三角関係はそれほど根拠のある話ではないようで、天智天皇も天武天皇もその程度の人物だったとは思えません。額田王こそいい迷惑でした。1300年もあとになって、まさか一般人にコケットと揶揄されるとは思っていなかったでしょう。かわいそうに・・・。(ぼくはいつも美人の味方です。)

 天武天皇との夫婦仲は良かったんだと思います。天武天皇と持統天皇は同じお墓(右の写真:天武・持統陵または檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)とも呼ばれています)に入っていますが、今日でも天皇と皇后の合葬はおこなわれないのだから,これはふたりとも天皇だったから可能だったことのようですが、やはり仲が良かったからなんだと思います。
(ちなみに、上皇様が6年ほど前に、だから退位されるずっと前のことですが、美智子様に、お墓を別々に造ってもらうのは皆の負担になるから一緒のお墓に入ろう、と話されたところ、それはあまりに畏れ多いことです、と美智子様は固辞されたといいます。)

健気な女性 持統天皇
 では、ぼくには持統天皇はどんな女性に思えるのかというと、健気(けなげ)な女性、です。自分の役割をしっかり理解していて、その役割を完璧に果たせる能力も気力も体力も備えていたんだと思います。そうでありながら、きっとシャイでナイーブな女性でした。もちろん美人にきまっています。
 どうしてそう思うのかというとそんな気がするからです。そんな気はどうしてするのか。壬申の乱では夫、天武天皇を助け、夫が逝ってしまったあとは、その志を受け継ぐとともに血筋が絶えないよう一所懸命に務めました。また、冤罪で自害した祖父、蘇我山田石川麻呂の名誉を回復し、中断していた祖父の氏寺、山田寺の造営を再開し、その菩提を弔うために講堂を建て丈六の薬師仏を祀りました。
 詩を創る才能にも恵まれていて、万葉集を代表する歌人のひとりですが、柿本人麻呂を引き立たといいます。御製「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したる天の香具山」は、藤原定家が新古今調にちょっと変えて百人一首に載せていて、新古今和歌集にも入っています。秀歌ですが、健全でわかりやすいので、国語の教科書にも載っているから、だれでも知っていて、持統天皇と言えば、壬申の乱ではなく、山田寺仏頭でも藤原京でもなく、もちろん大津皇子ではない、この和歌が、まず、だれの頭にも浮かぶだろうと思います。

人の一生は妄想
 ここまで書いてきたことは、この先もですが、ぼくの妄想です。日本書紀をそのまま信じて、好きなように解釈しているだけで、なにひとつ客観的に検証していないからです。歴史家、政治学者、国文学者、小説家などのみなさんは、もし万が一読むことがあっても一顧だにしないでしょう。でも、歴史が人の営みなのなら、歴史はそもそも妄想でしょう。
 歴史の真実を探ることは、調べれば調べるほど考えれば考えるほど真実に近づくようで、平面曲線の漸近線みたいに、どこまでいっても真実には到達せず、原点からは逆に遠ざかります。解明したとだれかが言う真実には、そんなはずはない、こうでないといけないとか、こうあってほしいとか、考える人の主観が多分に影響しているからです。真実は、憧れのあの子は想えば想うほど遠くへ行ってしまう、のに似ています。それなら、学者でも研究者でもないぼくは、この妄想を楽しむことにします。
 ぼくらの人生の多くの瞬間は妄想なのかもしれません。だとすれば、人生は真実を知らないで過ごす、幸福であり不幸でもある時間の経過です。でも、きっと妄想だから人生は苦しいのに楽しいのです。苦しくて楽しいからぼくらは生きていると実感できます。・・・あれっ、持統天皇がどっか行っちゃった、変だな、どこへ行った・・・。


 持統天皇は幾度も吉野に行幸しました。夫の大海人皇子と一緒に、まだ幼かった我が子草壁皇子の手を引いて、命懸けで吉野へ駆けた若き日が懐かしく、時々、思い出しては、そのやるせなさに胸が締め付けられることがあったんでしょう。感傷だけではない、天皇というストレスの多い立場に気持ちが折れそうになり、あるいはどうにもやり場のない感情を鎮めたくて、あるいは原点に戻りたくて、大海人皇子に会いに度々吉野に行ったのだと思います。きっと大海人皇子はそこにいました。

 天武天皇の血統は奈良時代を越えて続くことはありませんでした。天武天皇と持統天皇の孫文武天皇の皇子で東大寺を建立した聖武天皇と、藤原不比等の娘で興福寺の阿修羅像を造らせた光明皇后のあいだに生まれた皇子は1歳で亡くなり、皇女の孝謙天皇(称徳天皇)が即位しましたが生涯独身で、孝謙天皇の異母姉、つまり聖武天皇のもう一人の皇女は天智天皇の孫だった光仁天皇の皇后になっていたからです。光仁天皇の皇子が平城京から平安京に遷都した桓武天皇です。でも、日本という国は、持統天皇の時の気分がずっと変わらないまま1300年続いてきて、去年、戦後生まれの天皇が誕生して令和になりました。(2020年1月7日 メキラ・シンエモン)



写真:メキラ・シンエモン


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