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飛鳥路シリーズ

安倍文殊院 文殊さんの快慶

 安倍文殊院の正式名は文殊院ですが、ぼくらが聖林寺への道を尋ねたJR桜井駅構内の観光案内所のおばさんは「文殊さん」と言っていました。地元桜井では親しみを込めてそう呼んでいるようです。
 文殊さんは「乙巳の変」の功臣、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)がその本拠地に氏寺として建てた安倍寺が始まりです。文殊さんから少し離れたところに安倍寺跡があります。同じ場所ではないのは、平安時代の末に多武峰(とうのみね)妙楽寺の僧兵の焼き討ちに遭い、鎌倉時代に現在地で再建されているからです。妙楽寺というのは今の談山神社(たんざんじんじゃ:藤原鎌足を祀る)ですが、創建は鎌足の長男定慧(じょうえ)で父親の菩提を弔うためでした。天平の観音様のおはす聖林寺は妙楽寺の別院です。飛鳥路はどこへ行っても鎌足の名が、なんかかんかで出てきます。

 ぼくとミキオ君は聖林寺から快慶作の渡海文殊菩薩騎獅像を観るために文殊さんへ歩いて向かいました。30分ほど掛かるでしょうか、聖林寺では見えていた青空は消え、雲がだんだん厚くなってきています。


安倍文殊院
 朱塗の山門を潜り何体もの石仏が片側に並ぶ参道を進んで左へ折れると、たくさんの絵馬が掛かった本堂が見えます。文殊さんはその創建とは無関係に古くから祈祷の寺、民間信仰の寺です。

 江戸時代に建てられた本堂には古代寺院の面影はまったくなく、昔はなかった金閣浮御堂という安倍一族の有名人安倍仲麻呂と安倍晴明を祀るキラキラしたお堂が池の中に建っていて、その先にある白山神社へは参詣者が行き来しているし、稲荷神社の下の駐車場には観光地にあるような売店まであって、どこか俗っぽいと言えば俗っぽく、本堂の横には倉梯麻呂の墓だとも言われている古墳(文殊院西古墳)があるのを見れば、ここはどういうところなんだろうという感じがしないでもありません。
 (安倍仲麻呂は奈良時代初めの遣唐使で、科挙に合格するほど優秀だったので玄宗皇帝に取り立てられ唐の高級役人となり彼の地で没しました。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」の歌がよく知られています。清明は言わずと知れた平安時代の陰陽師で、仲麻呂直系の子孫だといいます。)

 「即位礼正殿の儀」の祝日ということもあってか、拝観受付にはたくさんの人が群がっています。祈祷を受けようとする人たちのようです。この列に並ぶのか、ぼくらは文殊菩薩を観るだけなんだけど・・・、と思ったら、拝観のみの人専用の受付が奥に小さくあって、そこにはだれもいません。浮御堂を見るつもりはないので本堂だけの拝観を頼みますが、それでも抹茶が付いていて拝観料はちょっと高めです。ああ、そうだった、観光案内所でもらった割引券付きのパンフレットがあった、と思い出し、少々安くなりました。受付の人は抹茶の引換券に赤のボールペンで"割"と書いて丸で囲っています。なにかのお呪いなのか、どうせ飲まないから関係ありませんが・・・。ちなみに聖林寺では割引券のことをすっかり忘れていました。

 渡海文殊菩薩騎獅像は本堂の奥、少し高いところに安置されています。数段の階段を上がると柵があって、ここから先は御祈祷の方しか入れません、と書いてあります。ちょうどこれから家族連れが祈祷を受けるところでした。柵の内側右手で椅子に座っている家族連れに向かって坊さんが、全国に祈祷を受けられるお寺は多いのですが祈祷を専門にして毎日受けられるのは当山だけで・・・などと言って、祈祷の功徳をクドクドと説いています。そうかと思うと下では坊さんが参拝者を椅子に座らせて文殊さんについて慣れた口調で解説しています。その後ろを人が行ったり来たりして騒々しいことです。

渡海文殊菩薩群像
 渡海文殊菩薩は文殊菩薩が侍者を伴って海を渡る姿です。群像で獅子に乗った文殊菩薩の左右を善財童子、優填王(うてんのう)、仏陀波利(ぶっだはり)、最勝老人の四人が囲みます。ぼくが初めてこのスタイルの文殊菩薩像を観たのは高校生のときで、奥州平泉中尊寺の経蔵の本尊でした。そのときの印象が強烈で仏像ファンになりました。

 文殊さんの渡海文殊菩薩像は快慶の作です。中尊の文殊菩薩像は巨大で約2メートル、乗っている獅子まで含めると7メートルもの高さがあります。あまりに大きすぎるからか、祈祷に差し障りがあるからか、おととしの奈良博での快慶展では写真のみの展示でした。獅子と蓮華座、最勝老人は後補です。以前は重文でしたが、今は後補も含めて国宝になっています。

獅子と善財童子
 拝観は下から見上げることになるので、獅子の大きさが目につきます。この獅子はよく見れば愛嬌のある顔をしていて、その顔をちょっと左に振って、侍者のなかで一番小さくて一番前にいて、合掌しながら走る善財童子を目で追っています。それが、おいこどもどこ行くんや、と言っているようで、善財童子は走りながら振り向いて、あっ獅子のおじちゃんちょっとおしっこ、という表情です。この善財童子は顔がかわいいと評判で、ミキオ君も、かわいいね、と言っています。ぼくは奈良西大寺の子の方がかわいいと思いますが・・・。

文殊菩薩騎獅子像
 肝心の文殊菩薩はと言うとまさに快慶で、四十代の油ののりきったころの作と言われています。運慶は迫りくる迫力と写実性が魅力ですがどこか緊張を感じさせるのに対し、快慶は写実の中にも形式的な整った美しさがあり、光り輝く金箔ではなく鈍く光る金泥仕上げが多く、見る者を安心させるやさしさが感じられて心が癒されます。ここ文殊さんの文殊菩薩はその大きさゆえに、左足を垂らして右手に剣を持った姿で上から見下ろされている感じがしてちょっと威圧的・・・、そう思いかけたのですが、金泥塗りで衣には彩色を施し、獅子に乗る姿はこわばらずゆったりとして、左手には蓮の花を持ち、顔は穏やかに観音様みたいで、やはり心癒される快慶です。(金泥というのは細かくした金箔を膠に混ぜた絵具です。)

 ぼくは若いころは運慶の方が好きでしたが、十年ほど前から快慶の方が好きになっています。文殊さんと聖林寺は仏像巡りではセットなので、聖林寺に学生のころに行っているのならこっちにも来ているわけですが、そのときより今日はもっと深く心に快慶を感じていました。



 文殊さんのあるあたりを古代には磐余(いわれ)と言いました。今も磐余を含む地名が見られます。大津皇子の歌「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」は、この付近にあった池で鳴く鴨を詠んだのでしょう。磐余から飛鳥までを結ぶ古代の幹線道路が今も残っていて「磐余の道」と呼ばれています。
 ぼくらはもうすっかり雲が厚くなった低い空の下、磐余の道を歩いて次の目的地山田寺跡へ向かいました。この道を安倍倉梯麻呂は飛鳥板蓋宮へ通ったんだろうか、大津皇子も歩いたんだろうか・・・。(2019年11月18日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン



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