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白山麓の虚空蔵

 大阪の北区中ノ島に大阪市立扇町高等学校という学校があります。三月の末、この学校の中村さんという先生と、尾口村尾添(おぞう)の加宝神社(かほうじんじゃ)から吉野谷村の笥笠中宮神社(けがさちゅうぐうじんじゃ)までの約3キロを、一緒に歩いて往復するという偶然に恵まれました。
 扇町高校にはなんでも人文学科というコースがあって、白山麓が古い日本文化が良く保存されている地域であるという理由で、その一年生がもう12年も前から夏休みに白山麓へ来て歴史や文化を研究するということを続けているのだそうです。中村先生は今年の下見に来られたのでした。
 中村先生はぼくより四つほど年上で、虚空蔵菩薩をもう20年以上も研究しておられるということでした。二十歳代の頃に京都奈良の古刹を中心に各地の仏像を訪ね観て歩くということを頻繁にしていたぼくは先生と話がよく合い、二人はたちまち意気投合しました。

加宝神社
加宝神社

 先ず、二人がいったいどこを歩いたのかというと、白山スーパー林道へ石川県側から入る場合、尾口村の瀬戸というところで国道157号線から国道360号線に入り、右に左にとくねくね曲がる道を登っていきますが、右手に見える中宮温泉スキー場を過ぎた辺りで一旦下りとなり橋を渡ったところで再び上りになっているところがあります。その先が尾添で、道路から左手下に見える尾添の集落の中に加宝神社があります。昔は加宝社と言ったこの神社は手取川の支流になる尾添川の左岸にあって、その対岸に笥笠中宮神社があるのです。

 笥笠中宮神社は、昔は白山中宮と言い、加賀馬場(白山信仰の加賀における拠点)では本宮、すなわち鶴来の白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)に次ぐ重要な神社で、本宮を凌ぐ勢いの時期もあったといいます。白山信仰の盛んな昔、加賀から白山へ登った人たちは本宮を出発して中宮へ参拝し、当時は橋の掛かっていなかった尾添川を、両岸を結んで張られた綱に吊り下げられた籠に乗って渡り、加宝社にお参りするといよいよ白山登頂にかかったといいます。

尾添大橋
尾添大橋

 中村先生は何事によらず自分の目で確めてみないことには気が済まないという、ずぼらな性格のぼくから見ればちょっと気の毒に思えるほどに厄介な性分らしく、今年の夏生徒たちを連れて歩こうと考えている道を実際自分の足で歩いて調べないと分からないのです、と言っていましたが、そのほかの目的もあったようでしたというのは、加宝神社に虚空蔵菩薩が祀られているかどうかを確認したかったというのです。
 どういうことかというと、白山中宮の長吏だった隆厳という人の書いた「白山之記」という大昔の本に、加宝社は虚空蔵菩薩の垂迹であるということが出ているのだそうです。つまり、加宝社に祀られている太玉命(フトダマノミコト)という神様の本地、すなわち本体は虚空蔵菩薩であるということなのですが、先生は前日に加宝神社近くの、その昔白山へ登る人たちに牛王印(ごおういん、牛王宝印)という厄難除けの護符を出していたという家に寄って、その辺の話を聞いてみたそうです。その家の人は、現在の加宝神社には仏像は安置されておらず御神体は鏡で、しかしその鏡は虚空蔵菩薩を表すものである、と教えてくれたということでした。中村先生は仏像が安置されているなら、それがどんな姿をしているかを知りたかったようで、仏像は無くて有るのは鏡だと知って少しがっかりしたらしいことが、その話しぶりで分かりました。

尾添川

 ぼくらは加宝神社を出て谷に向けて曲がりくねって下りていく道を尾添川に掛かる橋に向かいました。道の両側は杉林で、杉の根元を覆ってまだ融けずに残っている雪は、この冬の風雪でもぎ取られてしまった杉の小枝や葉に覆われてもうすっかり薄汚れてしまっています。
 10分ほど歩くと橋に着きました。この橋はこれまでにも友達と何度も歩いて渡ったことのある橋で、橋の名前は単純に「尾添大橋」といいます。大きさから言えばこれで大橋と呼べるのかと思うような橋ですが、橋の下の渓流まではちょっとした高さがあって、その昔人が籠に乗って渡った頃は、橋よりももっと高いところに綱が渡してあったらしく、精進の悪い人は綱が切れて谷にまっさかさまに落ち、渓流に流されてしまったという恐ろしいところだったそうです。そうであってみれば、日々怠惰な生活にどっぷりと浸かっているぼくのような者でも川に落ちて流される心配も無く安全に向こう岸に渡してくれるこの橋は、そのありがたさから言って確かに大橋に違いありません。
尾添大橋付近の風景 ぼくは欄干から身を乗り出してエメラルドのような緑色をした川の流れを眺めたり、両岸の綱を渡してあったと思われる辺りを見上げたりしていましたが、傍らで同じようにしている中村先生を見れば、ぼくよりももっと熱心に見上げたり見下ろしたりしています。きっと、昔の人はどんな風に綱を渡し、どんな籠に乗って、どんな思いでこの川を渡ったのだろうかと、一心不乱に思いをめぐらせていたのでしょう、先生はしきりに、凄いですね、凄いですね、と言っていました。

 橋を渡ると道は登りになります。先生は道すがら、自分たちはよそから白山麓にやってきていろいろなことを学ばせてもらっているが、この地の人たちにお返しするものが何も無いのが残念だというようなことを言います。そんな先生にぼくは、いや、そうじゃないんですよ、ここに暮らす人たちにとっては、この景色も神社もすべてが有ってごく当たり前のことで、それがどんな意味を持っているのか、それがどんな価値を含んでいるのかは、外から来た人たちこそがよく分かるのであって、地元の人たちはあまりに日常的過ぎて気付かずにいるこの土地の自然や文化の持つ意味や価値を、先生のような外から来た人たちが見つけ出してくれているんです、と答えました。
 ぼくは中村先生にそう言ってから、金沢の人間である自分は大阪から来た先生から見れば地元の人間と同じということになるのだろう、実際、先生がぼくよりももっと敏感にここの自然と文化を感じているのを見れば、距離の遠さが感動の大きさと比例するものなのかもしれないと思ったのでした。

白山仲居神社
美濃の石徹白にある白山中居神社

 笥笠中宮神社に着いても中村先生は虚空蔵菩薩の話をします。しかしそれは先生が長年虚空蔵菩薩を研究してきたからというだけではなくて、白山信仰における虚空蔵信仰というのは重要な意味があるらしいのです。虚空蔵と聞けば、ちょっと仏教の知識がある人ならだれでも虚空蔵求聞持法という修法とともに空海の名が思い出されるはずです。ところが白山は比叡山との関係が深く、お寺も天台系のものばかりで真言宗と白山信仰はなかなか結びつかないのです。
 白山信仰における虚空蔵信仰については、中村先生と別れる時にいただいた先生の虚空蔵信仰に関する研究論文が載っている本のコピーを家に帰ってから読んで、そういうことだったかと分かったのでした。先生に叱られることを覚悟の上でごく大雑把に書くと、越前馬場の平泉寺に虚空蔵信仰がはっきりと見られ、尾添の加宝社はむしろ越前馬場の平泉寺と関係があったのではないかというようなことが書いてありました。ちょっと衝撃的でしたが、そういえば加宝社は加賀馬場の白山七社には含まれていないし、中宮三社というのは中宮、佐羅宮、別宮のことで加宝社の名前はどこにも出てこないのだから、加宝社が平泉寺と関わりのある神社であったということはありそうな気もします。
 いずれにしても、ぼくはこれまで平泉寺にも美濃の長滝白山神社や白山中居神社にも行ってみたことがありながら、山の向こう側では白山信仰がどうであったのかということはあまりまじめに考えてみたことがなかったのであり、興味のあることを関心の程度分だけしか知ろうとしないぼくにとって、これは大きな刺激となりました。

キクザキイチゲ
キクザキイチゲ

 笥笠中宮神社の境内で中村先生は、生徒たちにはここまで登らせないでこの道を歩いてその雰囲気を味わったら途中から中宮の橋に行くつもりだと言います。なぜだろうと思ったら、中宮大橋から下を見下ろした時の目も眩むような光景と感動を生徒たちに教えてやりたいが、笥笠中宮神社まで来てしまうとその時間が無くなってしまうから、と残念そうに言うのです。

 もと来た道を尾添の方へ引き返しながら、往きにはあまり注意しなかった傍らの斜面に目をやれば、雪が融けているところではフキノトウが出ていて、イチリンソウの仲間キクザキイチゲがポツリポツリと咲いているのが見えます。キクザキイチゲの二種類ある花のうち白い花はまだつぼみで、薄い青紫の花はきれいに開いていました。ぼくらは代わる代わるデジタルカメラのレンズを向けました。(平成16年4月1日 メキラ・シンエモン)




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