参 考

佐羅早松神社の神輿

 佐羅早松神社(さらはやまつじんじゃ)は白山七社(本宮、金剣宮、岩本宮、三宮、中宮、佐羅宮、別宮)の一つだった佐羅宮(さらのみや)の址に建つ神社ですが、佐羅宮がどういう神社だったのか、縁起を簡単に書いた案内板が境内に立て掛けてあります。立て掛けてあるというのは、元はちゃんと地面に刺してあったらしいのですが、どうしたわけか、引っこ抜いて手水舎に立て掛け荒縄で括り付けてあるからです。むしろ吊るしてあるといった感じです。それで、隠れて見えなくなっていたり、掠れていて読めない文字もあるのですが、その全文をここに書いておきます。


 佐羅早松神社

 白山七社の一つで、佐羅大明神ともい□□□いる大社。
 「白山記」には、「天元五年(982)□殿□社佐羅早松が創建され、長保元年(□□□)□宇と五間二面の講堂が建立された。」とある。
 白山最盛期の安元年間に佐羅早松宮の神輿□押したてて白山衆徒が都へ加賀の国衙を強□によって追放した安元事件は、歴史上画期□な事件であり、当時の白山勢力の強□さを□うことができる。

 昭和四十六年十一月三日 村指定有形文化財
                               吉野谷村教育委員会


 こういう風に書いてあります。文中の安元事件というのは、何のことだかこれだけでは分かりませんが、この事件は「平家物語」にも出てきます。第一巻のあの有名な鹿谷の謀議のすぐあとになるのですが、ちょっと面白い話なので事件のあらましを掻い摘んで書いておきます。

 鹿谷の謀議に加わっていた西光という後白河法皇に気に入られていた坊主の子に、近藤師高(もろたか)というのがいて、安元元年(1175年)12月29日、加賀の国司に任ぜられます。ところが、この男がとんでもない奴で、親の威光を笠にきて好き勝手しだい横暴を働きます。特に白山勢力に対しては荘園領地を没収したりと数々の嫌がらせをして悪政の限りを尽くしました。
 そのうち目代として弟の師経(もろつね)も加賀に下ってきます。この弟が兄貴に輪を掛けたとんでもない奴で、着任早々に鵜川という山寺で、湯を沸かして風呂に入っていた坊さん達を追い払って、自分と家来が入り馬まで洗わせました。(鵜川というのは小松市の涌泉寺(ゆうせんじ)です。当時加賀の国衙(こくが/国府、またその組織、官人のこと)は涌泉寺の近くにありました。)
 こんなことをすれば坊さん達が怒るのは当たり前です。その頃の坊さんというのはえらく乱暴なもので、馬の足を折ったり斬り合ったりして師経らをこてんぱんにやっつけてしまいます。これを聞いた兄貴の師高は総勢一千余騎を引き連れて鵜川(涌泉寺)を攻めると、寺の僧坊を一つ残らず焼き払ってしまいました。
 鵜川というのは白山中宮の末寺でしたから、今度は、白山三社八院(中宮、佐羅宮、別宮、隆明寺、涌泉寺、長寛寺、善興寺、昌隆寺、護国寺、松谷寺、蓮花寺)の衆徒二千余人が師経の館に押し寄せます。日が暮れたので攻めるのは明日にしようと館を取り囲むと、これは敵わないというので師高らは夜のうちに京へ逃げ帰りました。
 そこで、白山の衆徒は、このままでは済ませないぞ、と山門(比叡山延暦寺)に訴えるために神輿を担いで京へ登ります。この時の神輿が佐羅宮の神輿でした。
 なんで延暦寺が出てくるのかと思ってしまいますが、加賀に天台座主の領する荘園があったりして中宮と延暦寺は関係が深かったわけです。また、神仏混淆の時代でした。
 で、その後どうなったのかというと、延暦寺ははじめ消極的でしたが白山衆徒があまりに熱心なので、朝廷に師高を流罪にし師経を投獄せよと奏上します。ところが、なかなか裁許がありません。そこで、延暦寺の坊さん達は総動員体制で神輿を担ぐとデモ行進をして内裏に押し寄せます。そこへ平重盛ら平氏三千余騎と源頼政ら源氏三百余騎が警備に出てきてデモ隊と衝突が起きます。(ここで平氏源氏が出てきて活躍するわけです。)このデモ行進で山門側は死者が出たり神輿に矢が当たったりしますが、結局最後には要求通りの裁許が下り白山衆徒の面目が立ちました。
 ちなみに、このあと天台座主の明雲大僧正は西光父子に讒言されて辞職しますが、その西光父子も鹿谷の謀議が発覚して平清盛に斬首されてしまいます。

 こういう話なんですが、この事件は単に国司に対して寺社が反発したというのではなくて、背景に不輸不入の権利を持つ荘園の拡大を抑えようとした院政があったといいます。延暦寺が関わったというのも、ひとつにはそのためで、この事件には政治的な側面があったわけです。
 また、神輿を担いで京へ登るというのはよくあったことのようですが、加賀という遠いところからの例は珍しかったようですし、延暦寺を動かした白山の勢力はなかなか強かったということが分かります。しかし、これを境に加賀の白山勢力は徐々に衰えていったということです。(メキラ・シンエモン)

再訪記
 春になって雪もすっかり融けた頃に再び行ってみると、引き抜かれて立て掛けてあった案内板は、ちゃんと地面に突き刺してありました。雪が積もると破損するため、手水舎に避難させてあったのでした。
 


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