31  岐阜県白鳥町

美濃の白山神社

 織豊時代の日本に来ていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」の日本語訳(中公文庫)を読んでいると、織田信長が「予は・・・ことを白山権現の名において汝に誓う」と言っているところがあります。信長が神仏の名において誓っていたなんて、ちょっと不思議な気もしますが、岐阜城があった金華山の下を流れる長良川の上流には、白山中宮長滝寺(長滝寺白山本地中宮)という白山信仰の一大拠点があり、美濃は白山信仰の地でしたから、岐阜を根拠地に天下布武を目指した信長にとって、白山の神は特別だったのかも知れません。白山中宮長滝寺は長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)と名を変え、今も同じ場所にあります。春の連休に友達と美濃の長滝白山神社に行ってみました。

長滝白山神社拝殿
長滝白山神社の拝殿

 長滝白山神社は岐阜県白鳥町(しろとりちょう)にあります。金沢からは白山スーパー林道を通って行けば景色も楽しめて一番ですが、この時期はまだ閉鎖中です。となれば、北回りに五箇山から庄川沿いを辿って白川郷を抜けて美濃に入るか、南回りで石川・福井県境の谷峠を越え、九頭竜川沿いを遡って美濃に入ることになりますが、ぼくらは南回りを選びました。このコースを行けばかつての白山信仰の三つの拠点を巡ることになります。
 白山山麓の加賀、越前、美濃の三国には、江戸時代までの神仏習合の時代には馬場(ばんば)と呼ばれる禅定道(信仰登山道)の起点があり、白山信仰の拠点となっていました。すなわち加賀馬場には白山寺白山本宮(白山比盗_社)が、越前馬場には平泉寺白山神社(福井県勝山市)が、美濃馬場には白山中宮長滝寺がありました。三馬場の間に組織的な結びつきは何もなく、それぞれが独立した存在で、江戸時代末期でみると全国の白山神社のうち全体の半数以上が美濃の白山中宮長滝寺系でした。

長滝白山神社本殿
長滝白山神社の本殿

 長滝白山神社に着いてみるとさすがに大きな神社です。が、広い境内には人影がなく、すぐ横を長良川鉄道と国道が通っているのに、何の音も聞こえてこないという閑寂です。本殿はたいへんに立派な神明造ですが、拝殿はご本尊を取り去った仏殿のようで、中はガランとしていて農協の集荷場みたいです。拝殿の斜め横にも寺院風の建物がありますが、これは白山長滝寺の講堂でした。そういえば参道入り口の両側に立つ石柱には、左側が「白山長滝寺」、右側が「長滝白山神社」と彫ってありました。
 境内に社務所は見当たらず、お守りやお札を売るところもありませんが、歴史の古い神社だけに白山比盗_社同様に立派な宝物収蔵庫が建っています。非公開だそうですが、宝物の一部は近くにある白山文化博物館というところに展示されていて見ることができます。
 全体の印象は、今風に言えば神社にお寺の遺伝子が混入されているような感じで、きちんと言えば神仏習合時代の景観を今に伝えているというところでしょう。仏教色がまったくなくて、参詣の人がいつも訪れている白山比盗_社とは随分違った雰囲気です。

平泉寺の参道
平泉寺参道の石段

 ついでに平泉寺の白山神社はどんな感じかというと、たくさんの人が訪れていますが、神社側でその人たちを構うことは一切なく、訪れる人たちの目的も参詣というよりは行楽です。平泉寺は境内の苔がきれいなことで知られているのです。また、杉木立に囲まれた参道の長い石段も見事で、大概の人はむしろこの石段をひたすら上り下りすることを楽しんでいるように見えます。
 ちなみに、境内にはかつて白山山頂や禅定道にあったらしい、おびただしい数の破壊された石仏を並べたところがあり、白山では廃仏毀釈(明治元年の神仏分離令に基づく仏教の排斥運動)のすさまじかったことが分かります。
 こうしてみると、かつての白山信仰の拠点の様相は、今では三者三様になっているわけですが、こうなった原因は何だったのか。
 明治初年の神道国教政策により、加賀馬場の白山寺白山本宮は名称を神仏習合以前の白山比盗_社に戻して国弊小社(後に国弊中社)とされ、全国白山神社中の最高権威として全国すべての白山神社の総本宮になりました。それに対して越前馬場の平泉寺白山神社と美濃馬場の白山中宮長滝寺は地方社としての白山神社という低い格付けになり、両馬場とも白山信仰の中心地としての権威は著しく降下してしまいました。ということがあって、それに加えてその土地の人間の気質ということも関係しているのでしょう、今日の各神社のありさまの違いが生じたのでした。(参照

破壊された石仏
平泉寺の破壊石仏

 ぼくらは二人で出掛けても目的地では一緒に並んで見て回るということをあまりしません。それぞれが勝手に好きな方を見ていることがほとんどです。そうして何か興味を引くものがあると相棒を呼ぶということをするのですが、今回は車に戻るまでばらばらでした。というのは、ぼくが神社から離れて長良川の方へ行ってしまったからで、神社に戻ってみると友達の姿はどこにもなかったのです。それで、先に車に戻っていようと思い道路へ出て少し行くと、車を停めてきた「道の駅」に向かってトボトボと歩いていく友達の後ろ姿が小さく見えました。友達は友達でぼくが先に戻ったと思ったようです。
 車に戻ると、友達はどこへ行っていたとは聞きもせず、ちょうど神主が来たからちょっと話をしてきた、と言います。拝殿にいたあの口髭を生やした人か、とぼくが聞くと、そうそう、そんでね、本当はこっちが中心なんだと言っとった、と神主さんと話したことを教えてくれました。
 友達の話では、神主さんは近くにある若宮修古館というところに住んでいるのだそうです。若宮修古館というのは「道の駅」にあったパンフレットによると、かつての白山中宮長滝寺の執行家(の住居)だったということだから、あるいはこの神主さんはその子孫なのかも知れません。また、友達は金沢からはるばるやって来たことを神主さんに明かしたということでした。
 そうすると、金沢から来た人間を前にして発した、本当はこっちが中心なんだ、という神主さんの言葉は、おそらく思わず出たもので、今は加賀の白山比盗_社が白山信仰の中心となってしまったが、という言葉を内に含んだ嘆息らしい。嘆息らしいというのは、かつては美濃の白山中宮長滝寺の系列の白山神社がもっとも多かったし、今も岐阜県が全国一白山神社の多いところであってみれば、美濃の長滝白山神社の神主としては、加賀の人間がやって来たとなれば、ため息の一つも出るだろうということなんですが。
 神主さんが友達に語った言葉は、嘆息ではなかったとしても、ぼくには白山信仰の歴史と今を象徴しているもののように思えます。(平成14年5月8日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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