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弥勒菩薩 半跏思惟の仏様

 菩薩は如来になるための修行をしている人です。大勢いる菩薩の中でお釈迦様から、次の如来は君だよ、と指名されたのが弥勒菩薩です。といって、如来になるのはまだまだ先のことで、今は兜率天(とそつてん:世界の中心にあるという須弥山(しゅみせん)の上空)というところで、如来になったとき、どうやって民衆を救おうかと思いを巡らせています。
 弥勒菩薩が弥勒如来になるのは、お釈迦様の入滅から数えて56億7千万年後だというから遠い未来のことです。それがどれだけ長い時間かというと、太陽が誕生して46億年だからそれよりも10億年以上も長い時間になり・・・、ちょっと待ってください、太陽すなわち恒星の一生は水素の核融合反応が終わりに近づくと重力崩壊といって自分の重力で潰れてしまい寿命が尽きますが、その長さはその星の質量つまり重さで決まっていて、ぼくらの太陽は100億年ほど、核融合が安定している期間、言わば健康寿命なら90億年です・・・ということは・・・、あれっ、弥勒菩薩が晴れて弥勒如来となって地上に降りてきたときに、地球はもうない・・・。


 前回に続いて仏像記です。前回は如来から薬師如来を選びましたが、今回は菩薩で弥勒菩薩を選びます。それは日本の国宝第一号が弥勒菩薩像だったからです。京都太秦にある広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像がそれです。この弥勒像から始まって仏像は民族の歴史を伝える文化財となり、人々が信仰の対象として手を合わせるだけではない、鑑賞の対象として観るものになりました。

 弥勒菩薩は未来に現われる仏様です。それでイエス・キリストの再臨とイメージをダブらせる人がいるみたいです。それは完全に間違っています。
 キリスト教では万物は神様によって創造されました。人間もまた神様に創られました。ただ、人間は万物とは異なり神様のかたちに、すなわち息子娘として造られていました。つまり神様と人間は親子の関係なんです。神様は地上に神の国を創りたかったからです。ところが、最初の息子アダムが神様の命令に背くという罪を犯したため、地上に神の国は実現しませんでした。そこで神様はやり直そうと考え、人間を罪の無い状態に戻すためにアダムに代わる息子としてイエスを送りました。これがキリスト(救世主、メシア)で、イエスが神の子と言われる所以です。しかしアダムの子孫たちはイエスがキリストであることがわからずに殺害してしまったので、神様は再びキリスト(再臨主、再臨のメシア)を送らなければならなくなりました。つまり、今、キリスト教徒は再臨主を待っている状態なんです。でも、いつどこに再臨するのかはだれにもわかりません。それでキリスト教徒はいつも目を覚ましていないといけません。再臨のメシアは盗人のように来ます。
 これがキリスト教の本質で、再臨するキリストの正体です。弥勒菩薩とは似ても似つかないことがわかると思います。

 それはともかく、日本の弥勒信仰の歴史は古く、飛鳥時代にはたくさんの弥勒像が造られました。その多くは半跏思惟像です。半跏は左足を垂らしてその膝の上に右足を載せた座り方、思惟は右手の中指を軽く頬に当てて思案する様子だから、兜率天でどうやって人々を救おうかと考えている弥勒菩薩の姿の彫刻的表現としてふさわしいものでした。広隆寺像がその代表です。
 奈良時代に入ると弥勒像は造られなくなり、藤原時代(平安時代後期)になって再び造られるようになります。お釈迦様の入滅から二千年経つと自力では悟りに至れないという末法思想の影響で浄土信仰が大流行したからでした。阿弥陀様だけお参りするのでは不安で、未来の仏様にもすがろうとしたみたいです。
 それで、どうしようかと考え込んでいるような半跏思惟像ではちょっと頼りないと思ったのか、如来のように堂々とした坐像に造りました。京都の醍醐寺三宝院にある快慶作の弥勒菩薩坐像がよく知られています。あるいは、それならいっそのこと如来になった姿がもっといいと弥勒如来像も造られます。興福寺北円堂に運慶作で知られる弥勒如来坐像があります。どちらも鎌倉彫刻ですが、先の時代の余韻がまだ残っていたんでしょう。
(弥勒如来像自体はもっと昔から造られていて、当麻寺に白鳳期の塑像があります。ちなみに中国でも弥勒菩薩は人気があるらしく、しかも布袋様の姿になっています。江戸時代初期に中国の明からやってきた隠元禅師が開いた黄檗宗のお寺、京都宇治にある万福寺の弥勒菩薩は太鼓腹で片膝立てて大笑いしている布袋様です。ちなみのちなみにインゲン豆は隠元さんが中国から持ってきた豆です。)

 浄土信仰の流行で弥勒様は人気がでましたが、阿弥陀様には敵わなかったみたいです。疑っても念仏すれば極楽浄土に往生するのさ、と法然上人が語った(徒然草第39段)、阿弥陀様の強制連行みたいな救いに比べると、遠い未来まで待たなければならない弥勒様の救いはいまひとつ確実性がぼんやりしていたからだろうと思います。平安時代から鎌倉時代へ、貴族の世から武士の世に政権交代して、浄土宗、浄土真宗、時宗といった浄土教が広まると弥勒信仰は薄れていったようです。

 こうして見てみると、弥勒菩薩がどういう菩薩なのか、観音様やお地蔵様はそれなりにイメージできるのに、弥勒様はどうもイメージがはっきりしません。藤原時代の弥勒信仰にはわけがありましたが、飛鳥時代にさかんに造られた半跏思惟姿の弥勒様はなんだったんでしょう。そのあたりは専門の研究者でもうまく説明できないみたいです。

 そこでいつもの私見です。仏教の日本公伝は538年、あるいは552年で、すでに大乗仏教の最終バージョンとなった密教も成立していました。しかし仏像を初めて目にした日本人には仏教がなんであるかはよく解っていなかっただろうと思います。仏像も異国の珍しい神様ぐらいに思っていたのだとしたら、半跏思惟という物思いに耽る姿が、どこか愁いを含んでいるようで悩ましげにも見えて、ひどく気に入ったんじゃないのかなと思います。部屋に飾る置物のような感覚で、これがあちらの偉い神様なの、素敵じゃない、弥勒様というの、かわいいねぇ、取り敢えずお参りしましょうか、といった感じです。理屈より情緒が優先する日本人的な受け入れ方だったんだろうと思います。きっと朝晩飽きずに眺めていました。
 それが飛鳥時代後期の白鳳と言われている時代になると、日本人もだんだんに仏教がなんであるかがわかってきて、信仰の目的も現世利益的になると、弥勒菩薩像は今特に必要な仏様ではなさそうだということになって、造られなくなったんだと思います。

 ところで、如意輪観音菩薩もまた弥勒菩薩と同じ半跏思惟の姿に造ることがありました。如意輪観音菩薩は密教における観音菩薩の変化で最後に現れた形です。その経典の漢訳は8世紀初めから9世にかけて行われたといいます。その姿は一面六臂(顔がひとつで腕が六本)ですが、一面二臂という古い形式もあったそうで、平安時代後期の観音信仰の流行に刺激され、古い時代の弥勒菩薩像を如意輪観音菩薩にしてしまうこともあったようです。
 つまり如意輪観音は奈良時代になってから登場した密教の観音様なので、飛鳥時代に造られた如意輪観音像はなかったということです。しかし、だからと言って、飛鳥時代の半跏思惟像がすべて弥勒像だということにはなりません。如意輪観音ではなくても、また宝冠に観音菩薩の証となる化仏はなくても、半跏思惟像のなかには観音様として造られた像があったかもしれません。


 斑鳩中宮寺のご本尊はその美しさで知られた飛鳥時代の菩薩半跏思惟像で、お寺には如意輪観音菩薩として伝わっていますが、拝観パンフレットには「本尊菩薩半跏像(伝如意輪観音菩薩)」と書かれていて、弥勒菩薩とは書かず如意輪観音菩薩と明記もしていません。研究者から、この半跏像は飛鳥時代に造られた仏像なので弥勒菩薩です、とでも言われたんでしょう、きっと。でも、弥勒様にはしたくない、あくまでも如意輪観音様なんだという気持ちが現れているようです。ぼくは、この菩薩半跏思惟像は寺伝のとおり、如意輪観音菩薩が良いと思っています。弥勒様か観音様かは祀る人拝む人の心が決めることでしょう。(2019年8月15日 メキラ・シンエモン)




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