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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

四万六千日の観音院 トウモロコシは買えたの

 観音院の「四万六千日(しまんろくせんにち)」は旧歴の7月9日で、今年は8月19日の日曜日でした。その日はお昼前に仕事が終わったので、ちょっと行ってみることにしました。前からどんな様子か見に行きたいと思いながらこれまで日が合わなかったのです。観音院へは大手町の職場から歩いて20分ほどでした。
 「四万六千日」は江戸時代から続く観音様の功徳日(くどくにち)、つまり縁日で、この日にお参りすると四万六千日分、年にして126年分をお参りしたことになるというので多くの人が参拝します。それなら東京浅草の観音様の「ほうずき市」と同じだね、と思った人もいるでしょう。浅草寺は新暦の7月9日と10日の二日間ですが、金沢の観音院では旧暦7月9日の一日だけで、境内で売られる商売繁盛祈願の縁起物もホウズキではなくてトウキビです。


観音町へ
 観音院は創建が平安時代だという高野山真言宗の古刹で山号を長谷山といいます。浅野川に掛かる天神橋を見下ろす卯辰山の中腹、ひがし茶屋街はすぐそこという、東山1丁目にあります。長谷山という山号から想像できるようにご本尊は十一面観音菩薩で秘仏ですが「四万六千日」には御開帳となります。実はそれがお目当てです。大手町からなので、観音院へはひがし茶屋街を通って行きます。

 ひがし茶屋街へはいつも浅野川沿いにある主計町(かずえまち)茶屋街をまわって行くことにしています。今日もそうします。金沢城の大手門からまっすぐ続く道を歩いて突き当たると旧北國街道(国道159号線)です。右へ行けば橋場町で浅野川大橋を渡るとすぐにひがし茶屋街ですが、そうせずに、尾張町の信号を向こうへ渡り次の路地を右に下新町の方へまがります。
 泉鏡花記念館のちょっと手前左にある久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)の境内に入り拝殿の右を回り込むように進むと下におりる石段があります。昔こっそり人目に付かないように遊郭へ行く人が使ったという「暗がり坂」です。坂をくだったところの左が主計町の検番で「主計町事務所」と書いた行灯看板を揚げています。
 細い路地を抜けて川沿いに出るといつもは左へ、少し下流に掛かる「中の橋」を渡って対岸の道を行きますが、今日は先を急ぎたいから右へ行って浅野川大橋を渡りました。

旧観音町 橋を渡ってすぐの横断歩道を向こう側に渡り交番横の路地に入ると、観音院にあがる観音坂まで一直線です。参道と言ってよいでしょう。茶屋街は一本向こうの道ですが、この通りも昔ながらの町並に風情があっていい感じだから、ここにも観光客の姿が見えます。
 この界隈は、今は東山1丁目となっていますが、昔は観音町と言いました。近ごろ、古くからの住民のみなさんが旧町名に戻そうという運動を始めたら、ひがし茶屋街を訪れる観光客目当てに店舗を構えた人たちから、ひがしのイメージがなくなると反対の声があがったという話を聞きましたが、どうなったんでしょう・・・。でも、当事者ではない者がなにか言うのは無責任で不謹慎というものです。
 それはそうと、普段は聞こえない読経が聞こえています。スピーカーで流しているようですが、前の方から聞こえてくるみたいだからきっと観音院の仕業なんでしょう。

四万六千日の貼り紙 左の写真は「四万六千日」を知らせる貼り紙で、観音院の参道の途中にある金沢市指定保存建築物になっているお米屋さんの軒下に貼られている様子です。この貼り紙は縁日が近くなると金沢市内の、と言ってもお寺からそう遠くない範囲だけみたいですが、ところどころで見られます。
 すぐ下に「七稲地蔵尊祭禮」と書いた貼り紙がありますが、これは観音院へあがる坂のすぐ手前にある寿経寺(じゅきょうじ)のもので、七稲地蔵(なないねじぞう)供養についての「貼り紙」です。

安政の泣き一揆
 ついでながら、七稲地蔵というのは寿経寺の門前に並んで立っている、手に稲穂を握った七体の石のお地蔵さんで、幕末の金沢でおきた「泣き一揆」で処刑された7人の供養のために建てられました。一揆といってもそんな乱暴なものではありません。シュプレヒコールのみの非暴力の訴えでした。
 安政5年(1858年)、冷夏と長雨による凶作で米価が高騰し食べることができなくなった人びと約2000人が7月11日と12日の夜、卯辰山に登り2キロ弱離れたお城に向かって泣きながら、ひだるい、食われん、と大声で叫びました。泣き叫ぶ声は藩主や重臣にも聞こえ、藩はただちに500石の救済米を出し米価を下げる処置をとりますが、直訴は御法度だったため首謀者7人を捕縛しました。内2人は獄死、5人が刑死しています。時の13代藩主前田斉泰(なりやす)は幕末の難しい時期に藩政改革を進めた人でしたが、この事件にショックを受けたようで何日も気分がすぐれなかったといいます。華やかな茶屋街のすぐそばにこんな悲劇が伝わっていました。

長谷山観音院
 参道を行って寿経寺の前まで来ると読経の声は一段と高くなって頭の上から降ってきます。この先の道は二手に分かれた坂になっていて観音院へは右の観音坂をあがります。回り込むように登る長い石段に蝉の声が聞こえていました。
 石段をあがるにつれて蝉の声も大きくなります。蝉しぐれ、と言いたいところですが、鳴いているのはヒグラシではなくてミンミンゼミだから、涼しげな感じは微塵もなく、本堂の屋根が見えるところまで来ると気に障るほどウルサイ騒音になっていました。それでもミンミンゼミは夏の終わりが近づくと出る蝉だから、おととい辺りからすこし涼しくなっているし、この気に障るウルサイは、この猛暑もそろそろ終わるんだろうか、と期待させるウルサイでした。(猛暑は次の日からなにごともなかったかのようにちゃんと戻っています。がっかり。)

 あれっ、人が少ないんじゃないの、と境内に入って思ったというのは「四万六千日」は混雑すると聞いていたからです。せいぜい40人ぐらいの参拝者でした。ああ、そうか、もうそろそろお昼だからね、朝の6時から夜の10時までやっているんだから、なにも昼どきにわざわざ来ることもないということか、と了解しました。そう言えば観音坂を登っていく人も降りてくる人も疎らでした。
 本堂の横でテントを張ってトウキビを売っていますが、それを見るのはあとにして、まずは本堂にあがって秘仏を観る、いや、拝むことにします。堂内はやっぱり写真撮影禁止でした。

 靴を脱いで本堂にあがりお参りの列に加わります。ご本尊十一面観音菩薩立像は正面の奥ですが、お参りの人の列はいくつもの小さな仏像や仏画が安置されている脇の小部屋をぐるっと巡ってからご本尊に辿り着いています。この列がなかなか前に進みません。最初の仏像はまだ遥か先です。あんまり動かないので列の先を見ると、いくつもある小さな仏像の前で、いちいちおっちゃんしてお参りしているじゃありませんか。(おっちゃん:金沢の方言で正座すること。)
 これじゃ進まないわけだ、人が多い時間帯ならどうなるんだろう、面倒だからお参りしている人の後ろに立って仏像や仏画をサッと見て本尊まで行こうか、という衝動にかられますが、あんまり不信心な真似もできないと思い我慢しました。でも、観音様の縁日なんだから、じっくりお参りするのはご本尊だけでいいのにね・・・。

仏教旗
 ただ立っているだけで暇だから本堂の絵馬や額を眺めていましたが、これといって興味をひくものはありません。下を見れば護摩を焚く炉があって五鈷杵や金剛鈴などの使い込まれた密教法具が置いてあります。
 横から話し声が聞こえてきてそっちを見れば、いつのまにか本堂に入っている住職さんにどこかのお婆さんがなにかを訊いています。なんだろうと、ちょっと耳をそばだててみると、仏教旗、お寺の行事などでよく見かけるあの五色の幕のことを訊いているようでした。
 住職さんはとても親切な人みたいでお婆さんの質問に丁寧に答えて、あの布の色は宗派に関係なく世界中の仏教でみんな同じですが宗派によってひとつひとつの色が表す意味は違っていて・・・、真言宗では・・・五智如来を・・・、えーっと(向かって右の壁に掛けてある胎蔵曼荼羅を指さしながら)あのマンダラの真ん中に描いてある大日如来とその周りの如来を・・・表していましてね・・・、それで・・・まあそういうことなんですがね・・・、なんて言って一所懸命に説明しています。でもお年寄りには少し難しい話になるから、お婆さんは同じ質問を繰り返していました。住職さんは絽でしょうか紗でしょうか涼しげなシースルーの紫色の衣に黄色の袈裟を掛けていましたが、奮戦して汗ばんだみたいで袈裟を外してしまいました。そしてぼくはおかげで勉強になりました。これも観音様の功徳というもんでしょう。

薬師如来
 列の進みはまさに牛歩で、国会でよくやっている意味不明のあれよりは速いものの、のんびり前へ進みます。まあ、広くもない部屋だし、ゆっくり進んでいてもその分仏像はゆっくり見られるから、そう気を揉むことはありません。たくさんの小さな仏像の前にはそれぞれに三方が置いてあって賽銭が山積みになっていますが1円玉と5円玉ばかりです。まさか仏像が小さいからそれに合わせたわけじゃなくて、こう数が多くては100円玉だと賽銭もバカにならないからでしょう。ぼくはお参りするふりだけして前に来た仏像を観ていました。

 そのうち薬師如来の前に来ました。厨子の扉は閉まっていて、15センチほどのかわいい十二神将が両脇に6体ずつ分かれて雛壇に立っています。窯猫(かまねこ)並みに煤けていますが彩色はしっかり残っているのでそう古いものではないんでしょう。(竈猫:かまねこ。宮沢賢治の「猫の事務所」にでてくる主人公猫。普通の猫ですが、暑い盛りの土用に生まれたから皮膚が薄くて寒がりで、いつもかまどの中で寝るので全身が煤で汚れていて狸のように見える猫。)
 そしてその前に2体の菩薩像ですが、対にして造られたものではないのは明らかで、姿も日光月光菩薩には見えません。ここであることを思い出しました。

 観音院の開基は寺町の伏見寺(ふしみじ)と同じで「芋掘り藤五郎」だといいます。その伏見寺には薬師如来像はなくて十二神将像だけがありましたが、それについて伏見寺の住職さんは、藤五郎さんが祀ったのは薬師如来だったんです、と言っていました。真言宗のお寺に薬師如来が祀られていても不思議はないのですが、このお薬師さんもまた、藤五郎さん由来なんでしょうか。

 仏像の並びがちょっと切れて、そこにトウモロコシ茶を入れたやかんがイスの上に置いてあります。でもだれも手を出しません。だれも飲まないのは冷えているんだかどうだか疑わしいからじゃなくて、横に置いてあるお盆の上の20ほどの湯飲み茶わんは全部だれかが飲んで使ったもので、未使用のものはまったくなかったからでした。

本尊秘仏木造十一面観音菩薩立像
 鰯の頭も信心からといいますが、造られた本来の目的における仏像つまり信仰の対象としての仏像と文化財としての仏像とでは、その存在価値には全く別の原理が働いています。それで、国宝・重文の仏像を前にするなら、なんの心配もいりませんが、無名の仏像の場合はちょっと困ります。
 なんのことかと言うと、国宝級の仏像の前では、仏像は観るものではありません手を合わせて拝むものです、とだれでも簡単に言えるし、自然にそういう気持ちにもなります。しかし文化財指定を受けていない仏像を拝観するときは要注意です。ぼくのように仏像巡りをする者には、それはとても危険です。なにが。つまりですね、不遜な態度をとってしまわないとも限らないのです。
 ここ観音院のご本尊十一面観音菩薩立像はそんな危険な仏像です。その50センチほどの小ぶりの観音様は秘仏という割には傷んでいるようでした。あまりじろじろ見ないようにしてさっさとお参りを済ませました。

 そもそも金沢市で国の文化財指定を受けている仏像は重要文化財になっている伏見寺の貞観仏金銅阿弥陀如来坐像だけです。観音院には金沢市指定文化財の仏像が2体ありますが、その2体とはご本尊を守ってその厨子の前に立っている像高60センチほどの天部像なんです。
 この2体は平安時代の作でカヤ材を用いているといいますが彩色はなしです。明らかにセットで造られた一具ものとわかります。向かって右が持国天で左は多聞天(毘沙門天)です。そう、普通なら増長天の場所に多聞天なんです。また、持国天像は一木造りなのに多聞天像は寄木造だそうです。同じ材を用いた一具とみられる仏像で造り方が異なるなんて変わっています。
 変なところはほかにもあって、多聞天像は多聞天像にしては珍しく口を開けた忿怒相で、しかもトレードマークの多宝塔を手に持っていません。右腕は戟を持っていますが、左腕は手首から先が欠損していました。多聞天の多宝塔は四天王の持ち物のなかで唯一、経典にはっきり書かれているものです。(広目天の筆と巻物は経典で決められた持ち物じゃないそうです。)
 そんなことでこの多門天像は本当に多聞天なのか、なくなっている左の手になにかを載せて掲げようとしているようにも見えるので多聞天としているんじゃないのかという気がしました。

 そう思ったんですが、やっぱり多聞天で間違いないようです。なぜかと言うと開基が同じ藤五郎さんだった伏見寺の本堂前に立つ二天像がそうなっているんです。家に帰ってから何年か前に伏見寺で撮った写真を見てみました。大きさは全然違いますがまったく同じポーズです。多聞天像が兜を被っているところまで同じです。伏見寺のものは等身大ですが、観音院の二天像は金沢市で最古の二天像だというからこっちがお手本だったんでしょう。開基を同じくする観音院と伏見寺はどちらも高野山真言宗のお寺で、やはりつながりがあるんでしょうね。

 さて、秘仏も見て・・・、いや、拝ませてもらったし、お腹もすいたから帰ろうか。えっ、縁起物のトウモロコシはどうなったかって。買っていません。なんで。財布を事務所に忘れて出てきていたんです。もっともぼくは、前にどこかで・・・、そう、今年5月の「醤油の町 大野」のページで書いたように、神社でもお寺でも賽銭はあげない主義ですが、縁起物もめったに買わないことにしていて、それにトウキビは商売繁盛の縁起物で、商売人ではないぼくはトウキビを買うつもりがはじめからなかったから、財布を忘れてきていなくても、やっぱり買っていなかったと思います。


 帰り道、石段をくだって行くと下から、生成の浴衣に黒い兵児帯を巻いた年輩の男の人があがってきます。涼しげな浴衣姿で来るなんて近くに住んでいるんでしょうね。すれ違ったとき、左手にすっかり枯れてしまった去年のトウキビが握られているのが見えました。トウキビは予約もできて、本堂の中に専用のコーナーが設えてありました。去年のトウキビを納め新しいトウキビを受け取る。きっとこの人は予約組なんでしょう。そしてたぶん商売をしている人で、今日からしばらくのあいだお店の軒下には青々としたトウキビが下がるようです。(2018年8月21日 メキラ・シンエモン)


写真:メキラ・シンエモン


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