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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

醤油の町 大野

 5月中旬の青空が気持ちよく広がる穏やかな日、たまには海辺に行ってみようと、知り合って1年ほどになる長崎生まれの友人を誘って金沢の海岸部、金石(かないわ)地区にある港町大野へ行きました。空気がとても澄んでいて、今日は港に架かる橋の上から雪に覆われた白山がきれいに望めるにちがいないと思いました。


大野の醤油
 大野は野田(千葉)、銚子(千葉)、たつの(兵庫)、小豆島(香川)と並ぶ醤油の産地(五大産地)として知られています。その歴史は古く、江戸時代初期加賀藩3代藩主利常さんが直江屋伊兵衛という人に醤油を造らせたことが起源です。伊兵衛さんが醤油造りを学んだのは、醤油醸造発祥の地といわれる紀州湯浅だったといいます。それについて、高校1年のとき地理の先生からこんな話を聞きました。
 大野の醤油というのは、前田の殿様が参勤のとき江戸城内で紀州の殿様から醤油を見せられ、加賀にもありますかと訊かれて、それがなにかわからなかったのに知らないと言えば百万石の沽券にかかわると思い、醤油が紫色に見えたので、加賀ではムラサキと言っておりますと答えると、慌ててこっそり紀州に人を送って製法を学ばせ造らせたのがはじまりなんだよ。キッコーマンなんかの野田の醤油よりこっちがよほど規模は大きいんだけど、宣伝がへたで全国的にはちっとも名が売れていないんだな・・・。

大野灯台 先生の話はこうでした。が、この話、どの程度ほんとうなんだか・・・、実はちょっとあやしい。というのは、この先生の授業は毎回駄洒落と冗談の連発で、たとえば金石から来ていた出雲という名前の子に、金石はいずも(いつも)船がたくさんいるんですか、と言ってみたり、ロシア語の文字(キリル文字)はロシアがアルファベットを西ヨーロッパから持ってきたとき、それが冬だったからソリに乗せて雪原を運んでいるあいだにソリが揺れたりひっくり返ったりして、それで裏返っていたり崩れていたりするあんな文字になったんだよ、なんていう小学生でも、んなアホな、と思うようなことを平気で言っていたからで、この話もどこまで信用していいものか・・・。
 ちなみに、ぼくの出た高校は旧制中学を引き継いだ県立の進学校ですが、あのころはこの先生と似たり寄ったりの変わり者の先生が大勢いて、それでもどこからも苦情が出ることはなく、生徒は生徒で進学塾に通うこともなく国立1期校に合格するという、のんびり構えていられる時代でした。ぼくはといえば落ちこぼれ、今風に言えば負け組で、おまえ落第するぞと担任に脅されていました。でも、遠い昔、高校の授業でたった一度聞いただけの話を、どうしてぼくはずっと忘れず今でも憶えているんだろう。

金石と大野
大野港 大野は犀川河口の右岸、金石地区に含まれていますが、金石という地名は幕末、隣接するふたつの港町、宮越(みやのこし)と大野を合併させて誕生しました。幕末の豪商としてよく知られている金石の銭屋五兵衛は宮越の人でした。バイ船を15隻も持っていて1回の航海で利益は1000両もあったそうです。すごいですね。でも、加賀藩一番の豪商だったのは大野の北に位置する粟崎の木谷藤右衛門という人で、銭屋の倍ほども船を所有したといいます。(バイ船は買船で、北前船のことです。北前船は明治になってからの関西での呼び名で、江戸時代はバイ船と言っていたそうです。)
 それはともかく、宮越と大野をひとつにしたというのは双方の融和を願ってのことでした。ということは、利権をめぐってでしょうか、両者は仲が悪かったわけですが、ひとつの町にするためにあいだを繋ぐ相生町という町をつくり、いつまでも変わらない深い結びつきを意味する「金石(きんせき)の交わり」から取って金石と名付けたんだそうです。
 ところがそのうちに金石は宮越だけを指すようになって、大野にしてみれば意味の解らないことになり、それでいろいろ不都合もでてきたらしく、結局元に戻ってしまいました。(宮越という地名は復活せず、立場がなくなった相生町は金石相生町となりました。)
 というわけで、今もなにかにつけて金石と大野を一緒くたにして金石地区と言っていますが、ぼくらの感覚は、金石は金石で大野は大野、です。

金石街道
 大野ヘは朝の9時に武蔵ヶ辻で友人と待ち合わせてバスで行きました。近江町市場の向かい側、名鉄エムザの前から乗った大野行のバスはJRのガードを潜ると金石まで、これが金沢の道かと思うほどに幅は広くてまっすぐに伸びる一本道、通称「金石街道」を走ります。
 この道はぼくが中学生のころまでは電車が通っていました。大正時代からあった金沢でもっとも古い鉄道でしたが、乗る人が減り代わりに車が増えたことで廃線になったんです。その線路の跡が「金石街道」になったというわけじゃなくて、3代藩主利常さんがお城から港まで一直線に造らせた道がそのまま残っていて、藩政期には「宮越往還」と呼ばれていました。

大野日吉神社
大野日吉神社 大野中央という停留所でバスを降りると少し後戻りして大野日吉神社へ行きます。この神社は聖武天皇のころの創建で日吉神社の神様である大山咋神(おおやまくいのかみ:山王)のほかに大物主神(おおものぬしのかみ)、つまり大国主命と同体だとされる三輪山の神様を祭神としていて、7月の山王祭では山王悪魔祓いという神事が行われ山車が町を練り歩きます。(山車は境内の一角にある倉庫に収められていて、ガラス戸を通して覗き見することができます。)
 そんな神社になにか用があったわけではなく、拝殿の脇から背後の砂丘に登って防砂林の内側にある「金石・大野やすらぎの森」の中の遊歩道を歩いて港へ行こうというんです。ぼくらは鳥居を潜ってうがい手水に身を清め、長い参道を歩くと拝殿で作法通りに柏手を打ってお参りしました。友人は賽銭箱に100円玉を1枚投げ入れていました。ぼくはお寺でも神社でも賽銭はあげないことにしています。ケチと言えばケチですが、京都奈良の古刹めぐりではそう決めているから習慣みたいになっています。お参りを済ませたら拝殿の左へ回り込んで遊歩道にあがります。

遊歩道
 右へ行けば大野港ですが、まずは左へ歩くことにしました。道の両側にこの辺りの砂丘にたくさん植えられているハリエンジュ(ニセアカシア)の木が白い花房を垂れ、その下の地面を覆いつくす小判草の草叢の中に生えるハマダイコンの薄桃色の花には蜂が来て、スイカズラの白と黄の花やノイバラとカジイチゴの白い花は輝くように咲いています。
 しばらく行くと「T・ウィン博士上陸記念」と書いた石碑がありました。明治の初めごろ英語教師として招かれて金沢に来たトマス・ウィンというアメリカ人がこの辺りの海岸から上陸したというんでしょう。プロテスタントの宣教師としても活動し、金沢女学校(今の北陸学院)の設立に関わった人でした。
 海の方へくだると小さなこどもが大勢騒いでいる声がします。声の方に近づいて行くと、遊びに来ているどこかの保育園の園児たちでした。さらに進むと防砂林沿いの道に出たので、今度は右に、港の方へ歩いて遊歩道の終点まで来たら海岸沿いを走る道路が見えました。下に降りて港の方を見れば、海岸道路の先に大野港の入り口、大野川に架かるアーチ型をした大野大橋が見え、大野灯台の白い塔が気持ちよいほどスーと立っていました。(一番上の写真が陸側から見た大野灯台。)

 展望台があったのでハマエンドウの赤紫の花が咲く階段状の道を登って上にあがると、防波堤と波消しブロックの先に、波もなく静かな日本海が見えています。沖で色が濃くなる海と白い雲をサッと掃いた空をくっきり分ける水平線がとてもきれいで、時々吹いてくる潮風が爽やかです。ここから眺める夕日はきっと美しいにちがいありません。今日はほんと、よか日に来た、と友人がつぶやくように言いました。誘って良かった。


 ずいぶん歩いてお腹がすいたので、おいしいとうわさに聞く醤油蔵を改造したレストンランへ行ってお昼にしようと思います。が、まだちょっと時間が早いみたいです。11時にもなっていません。ぼくらはお昼を食べる前に大野大橋を渡って「大野からくり記念館」に行くことにしました。つづく・・・。(メキラ・シンエモン 2018年5月24日)


写真:メキラ・シンエモン


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