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「若冲と光瑤」展 石川県立美術館 行かないつもりがやっぱり観に行きました

凄い絵 凄い感覚 圧倒された だれにも描けない絵 だれでもわかる絵 ならだれでも描ける だからだれにも描けない 全部同じ人が描いた全部違う絵 これが若冲 百年たったら国宝になる
模写したって まったく同じだね 少し違うか わざと違えた これは熱帯雨林の春 紅葉は光る赤い絵 これは北陸の冬 気分は琳派だね ちょっと濃い口の光瑤 光瑤ってだれ

 「暑中お見舞い申し上げます」と葉書がきたら、それが単なる季節の挨拶状に思えない酷暑の7月、石川県立美術館で「若冲と光瑤」展を観てきました。


 はじめはこの展覧会には行かないつもりでした。なぜならぼくは、いとうじゃくちゅうって有名らしいからとにかく見ておきましょう、というような"熱意"の持ち主ではないからで、若冲か・・・実物を観たいけどなぁ・・・でも人が押し寄せるにきまっているし・・・そうだよ・・・こんなこと思うのはどうしても観たいわけじゃないからだ、と理屈を考えて、仏像仲間のミキオ君にこっちで若冲展をやっているよと何かのはずみに漏らしてひどく羨ましがられてしまったときも、行かないつもりだけどね、と言っていました。
 それがやっぱり観に行ったというのは、この暑さのせいで"熱意"が急に沸いて出てきてしまったわけじゃなくて、1200円の当日券が1000円になる割引券があったからで、200円で心が変わるんだから、やっぱりどうしても観たかったわけではなかったのです。(下の画像は「若冲と光瑤」展のリーフレット)
   

仙人掌群鶏図襖
 若冲と言えばまずこの障壁画です。噂に違わず凄い迫力で、この群鶏には圧倒されてしまいます。普通のニワトリではなくて、いわゆるヤケイ(野鶏)でしょう。鳥類図鑑の鶏とは違う、鳥類というより羽毛のある恐竜、小型獣脚類みたいです。
 仙人掌、これをサボテンとだれが読めるんでしょう。読めないと描いてある黒いものがサボテンだとはなかなかわかりません。梅に鶯、柳に燕、松に鶴、紅葉に鹿、竹に虎、とよく言いますが、サボテンに鶏、というのもあったんでしょうか。そんなわけないなら、これはどうしたんでしょう。後ろにさがって離れたところから襖全体を眺めてはじめて、ああそうか、金碧にこの鶏だから組み合わせはサボテンか、なるほど、と了解できます。ことわざにはならないでしょうね。近くで観ても遠くから眺めてもすばらしい群鶏の襖です。

象と鯨図屏風
 これも代表的な若冲です。なんでも石川県のどこかの旧家にあったものだといいます。一双の右隻は随分ふざけた感じの象ですが、そのころ日本で象なんて見られるはずないからきっと普賢菩薩を乗せている象を仏像か仏画で見て、それを元に描いたんでしょう。あるいはモデルは東寺講堂の帝釈天像の象だったかもしれません。しっぽが象らしくないのはともかく耳を楕円形にヘッドホンみたいにしたのはやりすぎみたいで、でもここまでやれば、よくやった、拍手、です。そう言えば、この丸耳の象を正面から描いた絵が去年金沢21世紀美術館に来ていました。そして左隻は潮を吹く鯨です。でも、潮を吹いていなければ鯨とはわかりません。それはともかく、なんで鯨が象と一緒になるんでしょう。
 屏風の絵は部分だけ見てもつまらないものですが、この絵は特にそうで、ずぅーと後ろにさがって全体を眺めると、なんで一緒にいるのかと思った象と鯨がいかにも絶妙な組み合わせに見えます。最大の陸生哺乳類と最大の海生哺乳類を向かい合わせて描いているわけですが、もちろん200年前に哺乳類という概念はなかったから、陸と海の生き物の象徴に象と鯨を選んで、陸と海を対比させたんでしょうか、それともそんな単純なことじゃないのか、わからなくてもおもしろい絵です。なんにしてもこの感覚は凄いと思ってじっと見ていると、そのうち象も鯨もどこか不気味に思えてきます。

 こんな風に絵を観た印象を書いていると、大混雑の若冲展のはずなのになんだかゆったりのんびり余裕で観ているように見えるでしょうね、きっと。若冲展の雰囲気らしくないと思うかもしれません。わけがあります。
 観に行くことに決めてまず考えたのは、掛け軸はいい、問題は障壁画と屏風をどうするか、ということでした。
 つまり、長蛇の列のひとりになってぞろぞろと、一定ではない速度でゆっくり移動しつつ、前を急かし後ろから急かされ、大きな絵の今目の前にある部分だけを見て進んで行くというのは、どうもつまらない話です。障壁画や屏風の全体を視野に入れられるほど後ろにさがって、人に前に立たれて邪魔されることなく観るためにはどうしたらいいか、若冲&光瑤展の攻略法を考えました。
 別にたいしたことを思いついたわけじゃありません。すなわち、開催期間も半ばを過ぎた平日の開館直後を狙えばどうか、と考えました。結局決行日は展覧会終了間際、最後の平日だった7月20日金曜日になってしまいましたが、概ね期待どおりだったんです。

石峰寺図
 京都深草の石峰寺は赤い竜宮門が印象的な黄檗宗のお寺です。若冲のお墓があります。宇治川沿いだから平等院鳳凰堂や萬福寺とセットにして、もう40年も前になりますが、拝観したことがあります。五百羅漢の石仏群がお目当てでした。その石仏群は薄暗い藪の中にありました。それが夏だったので、蚊がたくさん群がってきて、ズボンの上からも刺してくるから、あまりの痒さに30秒で退散でした。
 この石峰寺を若冲が描いた水墨画が「石峰寺図」です。なんとも幻想的な絵で、この世なのかあの世なのか、死んだように静かなところで、石仏ならぬ坊さんたちが立ったり座ったり、あっちでもこっちでも群がり無気力にたむろしているという不思議な雰囲気の絵です。解説を読んでみると、ぼくが蚊の大群に襲われて30秒しか見なかった、あの石仏群は若冲の考えたもので、この絵はその完成予想図だというのです。驚いた。ますます不思議な気分になりました。

 ほかに若冲のおもしろい絵がたくさん来ています。野菜、昆虫が群がる糸瓜、鼠の婚礼、盆踊り、木の葉の衣を身にまとった老人、関羽、逆さになって落ちるかみなりさま、寒山拾得などなど・・・。若冲はどれもわかりやすい絵だと思いますが、それが全部異なる印象の絵で、なのに対象を捉える感覚がどこか同じで、ほんとうに物事の解った人の放つユーモアが感じられて、いくら見ても飽きることがありません。ああ、でもとても全部の絵の印象をここでは書けないから若冲はここまでにして、次は光瑤(こうよう)です。

石崎光瑤
 光瑤が「仙人掌群鶏図襖」を模写した鶏の絵が、比較できるように近くに展示してあります。そっくりですが、よく見ると細部が違います。わざと変えたみたいです。ところで光瑤ってだれなんでしょう。どうして若冲と一緒の展覧会になるんでしょう。
 石崎光瑤は大正から昭和にかけて活躍した花鳥画を得意とした、富山の福光出身の日本画家です。はじめ金沢工業学校(今の石川県立工業高校)で酒井包一に繋がる琳派の画家山本光一に師事し、そのあと京都に出てさらに研鑽を積んだといいます。そして旅行家で登山家でした。
 若冲の「動植綵絵」を見て以来その絵に強く惹かれていた光瑤は、京都市立絵画専門学校の助教授だったとき教えていた学生から若冲じゃないかと思う絵があると聞き、案内されて出向いた大阪豊中市の西福寺の本堂で発見したのが「仙人掌群鶏図襖」なんだそうです。そんな縁を知ってみれば、金沢で若冲と光瑤の絵を一緒に観るのは、ちょっとしゃれているかもしれません。

熱国妍春 秋光 雪
 熱帯の花と鳥を描いた絵がいくつもあって、なかでも一番目を惹くのが、光瑤の代表作だといわれる「熱国妍春(ねっこくけんしゅん)」です。熱帯雨林の美しい春とでもいうような意味でしょうか、熱帯雨林と飾羽を広げた極楽鳥を描いています。その鮮やかな色彩にハッとさせられます。
 「秋光(しゅうこう)」は紅葉の絵です。ウリハダカエデかと思いましたが、よく見れば大木に巻きつく蔓性木本の紅葉です。解説にはツタウルシとありました。全体に透明感があって、もの悲しさのない柔らかな秋の光を感じさせます。この鮮やかで光り輝く色はどの絵もみんなそうで薄く明るい色遣いが光瑤の好みのようです。そして植物が主役の絵にはいつも翼を広げた尾の長い鳥を小さく描くみたいです。写実的でデザイン的なのは、やはり琳派なんでしょうね。
 「雪」は雪景色の屏風です。雪がしんしんと降るときはなんの音も聞こえなくなるものですが、その感じがよくわかる絵です。右隻は田んぼの雪景色で寒々とし、左隻は杉林で暖かさがあります。これは肌で感じた雪景色です。枝に積もった雪は胡紛を油絵みたいに盛り上げていて、光瑤は富山の人だから湿った北陸の重い雪の感じは枝のしなりだけでは足りないと思って、この質感で表現したんでしょう。
 とてもすてきな絵ばかりですが一分の隙もない感じで、その薄い色遣いとは裏腹に、光瑤はぼくには濃度がちょっと高すぎるかもしれません。


 ひととおり観てちょっと休憩してから展示室に戻るともうたくさんの人です。まだ室内を埋め尽くすというほどではありません。もうひとまわりして会場を出れば入口に、当日券を買うために並ぶ人の建物の外まで続く長い列です。外は雲ひとつない空の太陽が真上から殴るように照りつけていました。(メキラ・シンエモン 2018年8月3日)




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