16  樹木公園

穏やかな顔の自然

 自然はいいな、と誰もが思います。しかし、なぜそう思うのでしょうか。人間が自然と向かい合った時、自然は人間に何をしてくれるのでしょうか。いきなり難しい問題を持ち出してしまいましたが、ぼくでもたまにはこういうことを考えます。秋ですから。

 「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える」これはサン=テグジュペリのエッセー集「人間の土地」(堀口大学訳、新潮文庫)の冒頭の言葉です。これだけを読むと「大地が先生だ」とか「自然から学べ」なんていう言葉を、連想してしまいますが、そういうのとはちょっと違う意味みたいです。この言葉はもっと切実なんです。それでこの部分の続きを書いてみると、

「理由は、大地が人間に抵抗するがためだ」
「人間というのは、障害物に対して戦う時場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ」
「もっとも障害物を征服するには、人間に、道具が必要だ」
「人間には、鉋が必要だったり、鋤が必要だったりする」
「農夫は、耕作しているあいだに、いつしかすこしずつ自然の秘密を探っている結果になるのだが、こうして引き出したものであればこそ、その真実その本然が、世界共通のものたりうるわけだ」
「これと同じように、定期航空の道具、飛行機が、人間を昔からのあらゆる未解決問題の解決に参加させる結果になる」

と、なっています。
 しかし、これだけでは何のことだか良く分からないし、昔からのあらゆる未解決問題ってなんだろう、とか、どうして飛行機が出てくるのだろう、と思ってしまうでしょう。これは本を最後まで読めば分かることなのですが・・・。
 それで、ぼくにでも分かる範囲で簡単に解題すると、まず、サン=テグジュペリは郵便飛行士だった人で、彼が飛行機を飛ばせていた両大戦の間という時代の飛行機は、今のような高性能機ではなかったし、また、航法や気象予報の技術もずっとお粗末で、しかも航路の下の地上には、今では考えられないような危険も一杯でした。そういう時代に、サハラ砂漠を横断し、大西洋を渡り、アンデス山脈を越えて飛ぶ定期郵便飛行というのは、まさに、自然という障害物を征服することにほかならないことでした。そして、サン=テグジュペリは、砂漠や大洋、峻険といった大自然を征服しながら、命懸けで飛んだ経験を通して、昔からのあらゆる未解決問題(人間というもの、勇気ということ、責任ということ、生命というもの、自分というもの)について考え、答えを出そうとしたのでした。
 だから、彼にとって飛行機は、自分を昔からのあらゆる未解決問題の解決に参加させてくれた道具に違いなかったわけです。また、こうして引き出したものであればこそ「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える」と言えたのでしょう。で、サン=テグジュペリに、大地が教えてくれたことというのは・・・、こればっかりは「人間の土地」を読んでみてください、としか言えません。

 人間について教えてくれる自然もあれば、人間についても、その他のことについても、教えるどころか、何も考えさせてくれない自然もあります。幸いにして、ぼくらが住んでいる周りの自然は、時には怖い顔を見せますが、こちらが気を付けてさえいれば、たいていは穏やかな顔をしていてくれます。そんな顔の穏やかな自然がそれです。鶴来の樹木公園もそんな自然のひとつです。

樹木公園 樹木公園の入り口は、その中に石川県林業試験場があるためか、公園という感じのしない、ちょっと、いかついものになっています。ところが、中に入ると、丸みがあってゆったりとしていて、散歩するのにぴったりの感じになっているので、たちまち、心までがゆったりとしてしまいます。木々の間を歩いたり、針葉樹林の中の道を登っていくと、だんだんに自然の中に入っていくような気がして気持ちの良いものです。これは、人間にとって障害物にはならない、やさしい自然です。
 園内を歩いていると、ベンチに座って、ひとり物思いにふけっている人、本を読んでいる人、絵を描いている人などを見かけることがあります。周りの木々が、その人達をやさしく包み込むようにして、黙って見下ろしています。ぼくはひたすら歩くばかりですが、たまに何か考えごとをしようとすることがあります。しかし、その企てはたいてい失敗してしまいます。
 どうなるのかというと、気が付くと木の枝が揺れるのを見ながら風の音を聞いていたり、地面で咲いている小さな草の花を眺めていたりして、いつのまにか考えることを止めてしまっています。多分、木々に囲まれた空間が何かを考えるには、あまりに向いていないからそうなるのだろうと思います。
 でも、それで得をしていることもあるような気がします。なぜかと言うと、その考えごとというのが考えても仕方のない問題だったりすると、いつのまにか考えるのを止めているということは、鬱積してしまった時間の消滅になっているからで、結果としてありがたいことになるからです。

 ところで、樹木公園の木はすべて人が植えて育てているものです。だから、厳密にもおおざっぱにも純粋な自然じゃないわけですが、それもやはり自然には違いないんです。
 考えてみると、ぼくらの周りにあって、自然はいいな、なんて感じている自然というのは、たいていみんなそういうものです。あまりに純粋な自然だとぼくらの手に余ってしまいます。だから、ちょっと人手が加わっていた方が良いようです。それは人間が征服する必要のない、構えて向かい合わなくてもよい自然だから、何も教えてはくれないし、何も解決してはくれないかもしれないけれど、その代わりやさしく包み込んでくれます。きっと、人間にはそういう自然が近くにあることが必要なのだろうと思います。(平成12年10月31日 メキラ・シンエモン)


 ホーム 目次 前のページ 次のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。