参 考

サン=テグジュペリ

 アントワーヌ・ジャン=バティスト・マリ・ロジェ・ド・サン=テグジュペリは、作家であり操縦士でもあった人です。作家としてのサン=テグジュペリは文庫本などに解説されているので、操縦士としてのサン=テグジュペリを簡単に書いてみます。
 サン=テグジュペリは1900年6月29日リヨンで名門貴族の家に生まれました。少年の頃から飛行機と文学が好きでしたが、勉強は苦手だったらしく、大学入学資格試験の合格席次は後から数えた方が随分と早いというものだったそうです。19歳の時、海軍兵学校を受験しますが、学科は通って面接で落ちてしまいます。その後、美術学校の建築科の聴講生になっています。

 21歳の時に徴兵で空軍に入隊します。フランス国内の戦闘機連隊の整備中隊に配置になりますが、2等兵ながら高等教育を受けているというので、空気力学と燃焼物理学の講師をさせられます。そこから操縦士を目指すようになります。
 まず、民間飛行士の免許を自費で取ってから、軍の訓練コースに入りました。何でそんなことをしたかというと、普通に最初から軍のコースで訓練を受けると兵役期間が2年延長されてしまうのと、基礎訓練の基地がモロッコにあったため、自慢の英国製のオートバイを乗り回したり、ミュージック・ホールでの夜遊びが出来なくなるので一計を案じた、ということのようです。22歳の時、軍の操縦士免許も取り、士官候補生の試験にも通ります。少尉任官後はル・ブルジェの偵察及び直協を任務とする飛行34連隊付き士官となります。
 少尉になった翌年に、アンリオHD.14偵察機で事故を起こし、頭蓋骨骨折の重傷を負います。そのため婚約者に飛行機乗りを辞めてくれとせがまれて、結局、退役して予備役に入りますが、退役後も予備飛行士官として操縦訓練を受けていました。一方、退役後の仕事は、婚約者の家の紹介で、タイル会社の経理、トラックのセールスなどをしますが、嫌々だったようです。そうこうしているうちに婚約も消えてしまいます。この頃から、創作活動を始めています。

 一度は諦めた操縦士への思いは捨てられず、26歳の時に、民間事業用操縦士の免許を取り、航空郵便の先駆、ラテコエール航空に入り定期便の操縦士になります。最初に乗ったのは、第一次大戦の残り物、ブレゲー14でした。この郵便飛行士時代の経験が「人間の土地」に書かれています。しかし、33歳の時、ラテコエール293水上雷撃機の原型機をフランス空軍の納入するための飛行で、着水事故を起こして解雇されてしまいます。(ラテコエールは飛行機も作っていました。)
 その後は、エール・フランスで働いたり、パリ・ソワール紙の記者をしたりします。その間、コードロン・シムーン軽輸送機を自費で買うなどして、冒険飛行を何度もしていますが、事故ばかり起こしていました。懸賞飛行に参加して、ベトナムへ向けて飛行中にシムーン(機名のシムーンはサハラ砂漠に吹く熱風のこと)で、リビアの砂漠に不時着して、ベドウィンに助けられ九死に一生を得たこともあります。この遭難の顛末は「人間の土地」に詳しく書かれていますが、この時の経験が「星の王子さま」の元になったというのはよく知られた話です。
 サン=テグジュペリの操縦士として腕は優秀だったとも、下手だったとも言われていますが、むちゃをしては、よく事故を起こしていました。これは、はじめて操縦訓練を受けた時からで、度胸があったと言うより、無鉄砲だったと言った方が正確のようです。

 39歳の時に、ニューヨークで出版関係の仕事に就きますが、第二次大戦の直前に帰国し、大戦勃発で召集されます。戦闘機乗りを希望しますが、39歳ではいくらなんでも無理で、いろいろ手を回して、なんとか偵察機の操縦員になり、フランス空軍飛行33連隊第2偵察大隊(GRU/33)第3中隊に配属されます。最初は旧式のポテーズ637で訓練を受けますが、続いて、ブロッシュMB174の操縦訓練を受けて、MB174による偵察飛行に数回出撃しています。

CRU/33のロッキードF−5B(模型)

 フランス崩壊後、GRU/33はビシー政府に残りますが、サン=テグジュペリは7月末に部隊を離れて、ニューヨークへ渡ります。1943年になって、再び、軍に戻ります。古巣のGRU/33は自由フランス空軍に加わっていたので、そこへの配属を希望しますが、GRU/33は米陸軍航空隊第3写真偵察大隊の指揮下に入っていて、装備していた機種はロッキードF−5Bでした。
 F−5BはロッキードP−38Gライトニングから機首の武装を取り去り、そこへカメラを載せて改造した写真偵察機ですが、この機種の年齢制限が30歳だったためコネを使ってF−5Bの操縦訓練を受けた後、チュニスのラ・マルサ基地で任務につきます。しかし、二回目の出撃で着陸事故を起こして飛行停止になってしまいます。今度もあちこち手を回して、漸く、翌年5月に飛行任務復帰を果たします。

 1944年7月31日午前8時45分、サン=テグジュペリ空軍大尉(予備役少佐とも)は、コルシカ島のボルゴ基地から223号機で、グルノーブル・アンベリュー・アヌシー方面に高々度写真偵察に飛び立ちます。しかし、彼のF−5Bは帰ってきませんでした。
 地中海上空で、彼の身に何が起きたのかは、よく分かっていません。もっとも有力な説は、コルシカ島東岸を偵察中のドイツ空軍のメッサーシュミットBf109(写真偵察装備で武装なし)1機を護衛していた、1機のフォッケウルフFw190Dに撃墜されたというものですが、飛行中に酸素が切れたとも、自殺だったとも言われています。享年44歳でした。
 作品から受けるサン=テグジュペリのイメージと、ちょっと違ったかも知れません。(メキラ・シンエモン)

追記2016年7月31日


 尚、写真のF−5Bの模型は、市販のプラ模型キットを改造したものです。サン=テグジュペリが未帰還となった時の乗機、223号機のつもりで作ったものですが、ハセガワ1/72のP−38Jから、F−5Bに似せて、機首だけ簡易改造してあります。
 塗装は、全面PRブルーの偵察機用塗装にしてありますが、1944年7月にコルシカ島のボルゴ基地でGRU/33に配属されていたシリアル42−68213の機体が、全面PRブルーの塗装で機首に213と機番を入れていたので、それからの類推でこのようにしました。したがって、これが正しいという保証はまったくありません。国籍マークは、胴体は米軍のものの上からフランス軍のものを上書きしているようです。主翼の国籍マークもおそらく同じだと思われますがはっきりしません。
 また、機体のシリアルは、F−5Bに割り当てられていたシリアルが、42−67312〜67401、42−68192〜68301だったので、これも42−68213の機体からの類推で、42−68223ではなかったかと思います。


 ホーム 目次 参考の一覧

 穏やかな顔の自然 樹木公園に戻る

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。