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白山麓のこと 続き

 手取峡谷の辺りまで行く前に、鳥越村の「長助」というおそば屋さんへ寄って「一揆そば」という名物そばを食べました。といって、家を出たのが遅く、おそば屋さんのある辺りでちょうど昼時になったからというのではなくて、まだお昼まではだいぶ時間があったのですが、朝ごはんを食べずに出てきていたので、お腹がすいていたのが、だんだんに辛くなってきて、きっとすぐに耐えられなくなり、とても紅葉どころではなくなるという事態が予想されたため、なにせコンビニもないところですから、今のうちにそばでも食べておこうと思ったのです。手取峡谷近くに「みたき」というおそば屋さんがあるのですが、その時は手取峡谷へ行こうとは思っていなかったし、「みたき」があることも思い出せないほどに、今のうちに食べておかなければ、と思ったのでした。

鳥越城跡 「一揆そば」というのはちょっと変わった名前ですが、近くにある「鳥越城跡」が一向一揆の史跡(国指定史跡)であるところから付けられたもののようです。つまり観光地なんかでよくみられる名付け方ですが、名前だけで中身は普通のそばとちっとも変わったところがない、ということはなくて、その昔、村人が一揆衆を元気付けるために餅を食べさせた故事に因むという、ヨモギを入れた草餅のてんぷらが二個も乗っかってきます。それに、そばといっしょに付いてくるつまがしょっちゅう変わります。いつだったかはジャガイモの蒸かしたのだったし、いつだったかは花ミョウガだったし、いつだったかは何のかは忘れましたが漬物だったし、今回はムカゴでした。ちなみに「鳥越城跡」を「鳥越城址」と書いてはいけません。「鳥越城跡」でなければなりません。これは、以前、「鳥越城址」とホームページに書いたら、当村では「址」ではなくて「跡」を使っています、と白山連峰合衆国大統領経由で鳥越村役場からお叱りを受け、ただちに「鳥越城跡」と訂正したことがあったという経験に基づくものです。(写真は鳥越城跡)

 そばを食べに店に入ったのは10時半前で、店の人がまだ一所懸命に入り口の戸のガラスを拭いていて、店内には客の姿はなく、どうも口開けの客になったようでした。座敷の方は戸が閉ざされていたので、窓際の畳敷きへ上がりました。ほかに客はいないのだから、待っていると感じがしないうちにそばがきます。太いそばをすすって草餅のてんぷらにかぶりついていると、老夫婦が入ってきて隣のテーブルに座わり、やっぱり「一揆そば」をたのみました。
 隣にもそばがきてゾロゾロとやりはじめたかと思ったら、爺さんの方が、マスター、と叫びました。マスター?そば屋の主人を呼ぶのに普通マスターと言うだろうか、ハイカラな爺さんだな、と思っているうちに、はい、と返事がして、マスターかどうかは知りませんが、厨房にいた若い男の人が、やや緊張した面持ちで出てきました。何事だろう、ゴキブリでも入っていたのか、と思っていたら、爺さんは、この器は誰の作ですか、と高尚なことを訊ねるではないですか。誰の作?確かに素焼き風でちょっと変わったどんぶりではあるけれど、これが誰の作というような代物なんだろうか、とぼくは思いました。マスターと呼ばれて厨房から出てきた若い男の人は、何だそんなことだったか、といった顔になり、緊張も解けた様子でした。
 このどんぶりについては、去年の正月の白山七社詣の時、「長助」へ立ち寄ってやはり「一揆そば」を食べている最中に、一緒に白山七社詣に行った、そして白山七社詣なんていう酔狂な企ての首謀者でもあった友達が、その縁が欠けていることを理由にして、これが「一揆そば」なんだ、と頼みもしないのにぼくに講釈したことがあって、本人は悦に入ってしみじみと語っていましたが、ぼくにはどうしてどんぶりの縁が欠けていると「一揆そば」なのか、さっぱりわけが分からなかったのでした。
 それはともかく、そばで話しているのだから嫌でも聞こえてくるのを、聞くともなく聞いていると、この器は某という陶芸の先生に依頼して特別に「一揆そば」用に作ってもらったもので、「鳥越城跡」から出土したすり鉢を象っていて、土はどこどこのものを使っているというようなことを、マスターと呼ばれて厨房から出てきた若い男の人は、事細かに説明しているではないですか。たいしたもんだな、どんぶりも爺さんも、と思って老夫婦の方を見やれば、二人のお年寄りは、そうですかといった様子でうなずきながら感心して拝聴していました。
城跡から出土したすり鉢 ぼくは陶芸の方はさっぱりだから、某先生だのどこの土だのと聞いても皆目ですが、こういう話を小耳に挟んでしまえば、ちょっと変わったどんぶりぐらいに思っていたのが、どれどれどこがすり鉢なんだ、となるのは自然の反応というもので、あらためてどんぶりをよく見れば、内側に、すり鉢を模していると分かるには多少努力がいる、引っかき傷みたいな筋がたくさん付けてあるのを発見しました。(写真は「一向一揆歴史館」に展示されている城跡から出土したすり鉢で、同館のパンフレットから拝借)
 それで、なるほどね、となったというのは、どんぶりの縁が欠けているのもそのため、つまりどんぶりの縁が欠けているのは、ぶつけたかなんかして欠けてしまったのではなくて、わざわざ欠いたのであって、いかにも城跡から出土したすり鉢らしい雰囲気を出すためだろうと思ったのです。そうだろうか?と思う方はよく考えてみてください、猫のお椀じゃあるまいし、700円もする名物そばの器が縁の欠けてしまったどんぶりだというのは、いくらなんでも無神経に過ぎて異常です。猫だって近頃は専用の食物を専用のきれいな器に入れてもらっているのだから、そばを特産品と考えている村で営業するおそば屋さんが出す700円もする名物そばの器であってみれば・・・、たぶん、きっとそうなんでしょう。どう間違っても、ぶつけたかなんかして縁の欠けてしまったのを、某先生の作だからもったいないと思って、そのまま使っているということではないはずです。たぶん。
 わざとどんぶりの縁を欠いたのだとすると、友達が去年の白山七社詣の折、しみじみと語った「一揆そば」のどんぶりに関する講釈は、あの時友達がこのどんぶりについてどこまで知っていたのかは今となっては不明ですが、間然するところがなかったということになります。それにしても、具ばかりでなく器まで特別誂えでこさえて一向一揆に拘っているなんて、なんとけなげなことでしょう。

 ところで、加賀において過去から現在までに起きた出来事の中で、簡素化、重点化、加えて諸外国からのいちゃもんがつかないことを旨とする文部省の教科書検定をものともせず、歴史の教科書に必ず載せられるほどの日本史的な出来事といえば、やはり加賀一向一揆でしょう。ところが、一揆の中心だった金沢御堂は、一揆が滅亡して間もなく、御堂のあったところにお城(金沢城)が建てられてしまったから、当然のことながら跡も何も無くなっているし、一揆が守護を滅ぼして最初に気勢をあげた高尾城(金沢市)の跡は、30年程前までは無事だったものが、北陸自動車道の建設時に土取り場となり、まさにその身を削って北陸の経済発展のための大きく貢献することを強いられ、哀れ、跡形もなく消滅してしまっています。今や、加賀一向一揆を偲びえる場所は、一揆終焉の地である鳥越城の跡が唯一となっているのです。
 鳥越村では「鳥越城跡」を整備したり「一向一揆歴史館」なるものを建てたり「一向一揆まつり」なるものまで開催したりして、さらには、おそば屋さんまでが「一揆そば」を考案して、まさに村をあげて一向一揆を村興しの材料にしているわけですが、それで郷土の歴史に関心を持つ人が増え、後々まで語り継がれることになるのなら、村興しも重要な文化活動であると言っても良いような気がします。こんなことを書いているぼくは、前回にも述べたとおり、金沢生まれの金沢育ちで、鳥越村には縁もゆかりもない、ただの「通りがかりの者」です。(平成14年12月12日 メキラ・シンエモン)




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