29  鳥越村

常緑針葉樹の雪景色

 「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)ることを知る」とは、論語・巻五・子罕(しかん)第九にある言葉ですが、松柏の柏は柏餅のカシワではなくて、ヒノキの類のコノテガシワ(児の手柏)、ビャクシン(柏槙)などのことで、松柏は常緑針葉樹一般を指しています。それでこの言葉は、冬になってブナなどの落葉樹がすっかり葉を落とすと、マツやヒノキなどの常緑針葉樹の緑がはっきり分かるようになる、という意味になります。カラマツは黄葉するけどなぁ、なんてつまらぬことを考えてはいけません。これは、普段はよく分からないが、非常時や難局に直面した時に、その人の真の姿、あるいはほんとうの価値がはっきり現れるものだ、というようなことを言っているのです。
 白山麓は夏緑広葉樹が多いだけに、冬になって幹と枝だけになった落葉林の中に残る常緑針葉樹の緑はとてもよく目立つので、この論語の言葉は直ちに了解できようというものです。となるかというと、そうもいかないというのは、雪が降り積もるからで、ぼくなんぞはそんな小難しいことを考える前に、まず雪景色を楽しんでしまいます。

鳥越村の雪原 建国記念日、昨日からの雪が朝になってようやく止み、ところどころ青空も見えるほどになったので、友達と雪景色の白山麓に出かけました。
 白山麓では平地の大部分は鳥越村に集中していて、一面に田んぼやそば畑が広がっています。そして、雪が降ればけっこう広く感じられる雪原となります。
 ぼくは雪原を眺めるのが好きです。それというのは、宮沢賢治の「雪渡り」という童話を思い浮かべるからで、「雪渡り」は、四郎とかん子という幼い兄妹が、雪の凍った月夜の晩に、狐の小学校の幻燈会に招待されるという異類交歓譚ですが、こうして雪原を眺めていると、凍みて固くなった雪の上を歩いていく兄妹の姿や、二人が小狐の紺三郎と一緒に、キックキックトントン、キックキックトントントンと雪の上で踊っているのが見えるような気がします。

 ぼくらはちょっと行っては車を停めるということを繰り返しました。他の人と一緒なら、好い加減にしろと怒るだろうなぁ、と友達が言えば、ぼくは、また病気が出たなぁ、と言うくらい頻繁に停まっては車から下りて、辺りの雪景色を眺めます。
アカマツの雪景色 今日はいつもよりもっと雪景色がきれいです。近山の木々の雪景色は、これ以上は望めないと思うほどに美しく、とりわけアカマツの雪の被り具合が優れているというのは、葉の上に積もった雪が多くもなく少なくもなく、白と黒のバランスが良く取れているからで、それが煙っているような落葉林の中に浮かび上がって見えます。それでいて周囲と調和しているから美しい。裾のスギ林が作る繰り返し模様もまた見事です。
 昨日の晩に降ったばかりの雪は、青空が見えるほどに晴れているのに、気温が低くて融けていないから、平地の雪ではないみたいにサラサラとして、ふーと軽く息を吹き掛けるだけで粉雪が舞い上がります。手のひらを押し当てれば刺すような冷たさです。
スギ林 いつも用意周到な友達が、家からポットに入れて持ってきた熱いお茶を注いでくれました。この景色を前にして飲めば、ほんとうにおいしい。
 しかし、こんな雪景色が積雪時ならいつでも見られるというわけではありません。まず、新雪、青空、低温という組み合わせが必要ですが、ぼくらにはさらに、こうして出掛けてこられる休日という条件が加わるからです。

 「雪やこんこん」で始まる子供の歌に、「枯れ木残らず花が咲く」という歌詞がありますが、木が雪を被って花が咲いたようだと言うなら、枯れ木、すなわち落葉樹よりも常緑樹、とりわけ常緑針葉樹の方が、もっとそう言うのに相応しい。なぜなら、落葉樹は春に美しい花を咲かせ、夏は青葉が茂り、秋にはきれいに紅葉して、最後はいさぎよく葉を散らすという派手な一年を送るのに、常緑樹は一年中変わらぬ姿をしていて、ツバキやクチナシなどのきれいな花をつける広葉樹はともかく、マツやヒノキなどの針葉樹は裸子植物で、すこぶる地味な花しかつけないのだから、そんな華々しさには縁のない木に、せめて雪景色の中ぐらい、花が咲いたようだと言ってやりたいじゃないですか。実際、今日は常緑樹の雪景色がとても冴えて見えるし、まして一冬に何度も見られない景色なんだと思うと、よけいそんな気持ちになるのでした。
 きれいな雪景色となっても、いや、きれいな雪景色にもなれるからこそ「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後ることを知る」なのかも知れません。(平成14年2月20日 メキラ・シンエモン)


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