28  尾口村

雪の落葉林 ブナオ山観察舎

ブナオ山
観察舎から見たブナオ山

 白山周辺の植生は夏緑広葉樹林が圧倒しています。秋に紅葉し、紅葉は散って落葉林となり、落葉林はやがて雪の中の風景となります。
 落葉林に関心を持った最初の日本人は国木田独歩だったかも知れません。独歩は、元来日本人は落葉林の美をあまり知らなかったようだが、自分はツルゲーネフの書いたものを二葉亭四迷の訳で読んで、その美を解するようになったと小説「武蔵野」の中で書いています。美と言っても視覚的な美ではなく詩的な情景のことで、独歩が「武蔵野」で描いてみせたのは、秋から冬にかけての(百年前の)東京郊外の、人が自然と一緒に暮らしている、どこか心が癒されるような落葉林の風景でした。
 もちろん白山麓の落葉林が「武蔵野」の落葉林のようであるはずがありません。何から何までまったく異なっています。しかし、冬の白山麓を代表する景観は雪山の落葉林であってみれば、できればちょっと分け入って、その雰囲気がどんなものか知ってみたいものです。雪山の厳しい自然の中にある落葉林にも趣はあるかも知れず、あるいは、ひょっとすると心を癒してくれる風景に出会えるかも知れません。

 一里野温泉スキー場を後目にさらに少し登っていくと「ブナオ山観察舎」という、猿やカモシカ、イヌワシなど白山の野生動物を観察するための、晩秋から春先にかけて利用できるロッジがあります。一月中旬の日曜日が好い天気となったので、友達とブナオ山観察舎へ出掛けました。友達の小学3年の息子も一緒です。

ブナオ観察舎 ブナオ山観察舎はブナオ山にあるのではなくて、その南斜面の真ん前に、尾添川の流れる谷を隔てて建っています。ブナオ山の南側は日当たりのよい急斜面で、雪が積もりにくく地面が露出しやすいので、餌を求めて野生動物がよく現れるのだそうです。
 野生動物の観察をするためのロッジの中というのは、訪れている人たちが火の気のない寒々とした部屋で、いつ出てくるのか分からない猿を見逃すまいとして、各個にただひたすら雪山の斜面を望遠鏡で覗いているという、静粛なところなんだろうと思っていたら、どうしてどうして、まるで正反対で、二人の「観察舎のおじさん」が来る人毎に大きな声で快活に説明をしながら、さあ、これでカモシカの親子が見えますよ、と望遠鏡の照準を合わせてくれて、まあるいレンズの中で仲良く並んで何かを食べているカモシカの親子を見ている間も、昨日はイヌワシが11時40分と12時20に飛んで・・・、ちょうど今頃ですね、今日は飛ぶかな、と話が続き、その時だれかが何か質問でもすれば、質問の三倍ぐらいの答えが返ってくるのだから、観察舎の中はにぎやかです。たちまちその雰囲気の中に取り込まれてしまい、来てからまだ十分にもならないというのに、もう何時間もここにいるような気分になります。白山の自然を知り尽くした観察舎のおじさん二人が作り出す、明るく熱っぽい観察風景です。

 今日は午後からカンジキを履いて、そこいらをちょっと歩いてみるというので、それは面白そうだと思ったら、テレビの取材でした。カメラで撮られるのなら遠慮したいと思ったものの、これまで遠くから眺めているだけだった雪山の落葉林を歩けるのだから、これに参加しないでは悔いが残ります。

雪の落葉林 おじさんの一人が「ガイドさん」として先頭に立ち、その後に十数人が一列になって、観察舎の玄関前にあるブナの落葉林をジグザグに登ります。一行にはさすがにお年寄りはいませんが、友達の息子のほかにも女の子の小学生がいて、赤ちゃんを胸に吊って登っている人もいます。
 少し急な斜面なので進む速さはカタツムリ並みですが、歩いている時はとてものこと周りの景色なんて見ていられません。しっかり足元を見ていないとえらいことになります。うっかりすると下まで転がり落ちそうです。
 カンジキを履いていてもごぼります。(「ごぼる」というのは雪に足が深くはまってしまうことですが、)ごぼっていきなり片足が雪の中に沈むと、あっ、と思い、同時に、スーと体が垂直に沈むのが気持良いと思うのだから、ぼくはよほど危機感が欠如しているのかも知れません。そのせいか歩くのが下手なのか、ぼくはしょっちゅうごぼっていました。
 途中、何か観察の対象になるものがあると止まって、ガイドさんが説明をしてくれます。観察の対象というのは、キツネやテン、カモシカの足跡であり、ウサギの糞であり、雪の上を這う小さな昆虫セッケイカワゲラなのですが、みんなは興味津々です。ここにはそんな人しか来ていないのです。
(ブナオ山観察舎の周辺で見られる野生動物の足跡は、石川県白山自然保護センターのホームページhttp://www.pref.ishikawa.jp/recr/hakusan/haku.htmlに写真が載っています。)

 漸く斜面を登りきって道に出ました。道といっても雪が深く積もっているから、やっぱりごぼります。ちょっと休憩です。ガイドさんが、これくらい登るだけでもたいへんでしょ、と言うのでぼくが、これはちょっと一人では来られないところですね、と答えると、山を歩く時に必要な注意をいろいろと話してくれました。その中で、山は自分を癒しながら歩かないといけない、と言っていたのが、とても心に残ります。向かいの山で雪が崩れ落ちる鈍い音が谷を渡ってきて、頭上の梢にいるコガラのさえずりが清閑な落葉林に響きます。
カモシカ しばらくしてまた歩きはじめます。少し行くと崖下にカモシカが一頭いて、こっちをじっと見て距離を測っている様子です。一人でも崖を降りる素振りを見せたら逃げていくつもりなんでしょう。さらに進むと、だれかが、鳥が飛んでいる、と言います。みんなが一斉に見上げる空に、二羽の鳥が飛んでいくのが小さく見えます。ガイドさんは飛んでいく方向を見てから、クマタカだろうと言いました。
 道の終わりまで行くと、ガイドさんは向こうの尾根を指差して、あの先が禅定道です、この下は白山に登る人たちが禊をした沢で、みんなここで身を清めてから登ったんです、と話してくれました。あの先が加賀禅定道・・・。じっと見つめていたのは、ぼくと友達の二人だけだったでしょう。

 帰り、登ってきたところを逆に辿って降りるのは、みんながちょっと怖いと言うので、少しなだらかなところまで行ってから斜面を降りることになりました。
 少し行ったところでガイドさんが、これがカモシカが食べた痕ですよ、と言って食いちぎられたところの皮がめくれあがった小枝を見せてくれました。この木はつまようじに造るオオバクロモジです、とみんなに教えると、その小枝を折って手渡してくれます。臭いを嗅いでみてください、と言われて鼻に近づけてみると、折り口から甘酸っぱい匂いがしました。カモシカが好んで食べているというので、カモシカはいいもの食べているねぇ、と言って、みんなで笑ったのでした。

 こんな観察風景は天候に恵まれた日曜日にしかないことで、平日なら訪れる人も少なく静かな野生動物観察になるのだそうです。(平成14年1月14日 メキラ・シンエモン)


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