22  河内村

アオサギの里

 冬が終わっても春になりきっていない山野の風景は、山は胡麻塩頭のようで、平地は僅かに残る雪が薄汚れ、木は葉を落としたままなら草も枯れたままという体たらくです。そぞろ歩きをするならこんな寂しい風景は止しにして、桜が咲くのを待って花の名所へでも行くというのが良いでしょう。それが合理的というものです。が、ぼくと友人はそれには従わず、不合理をものともせずに出掛けます。それがぼくらのやり方で、誰もが行くところへ誰もが行く時だけに行くということはせず、そうでないところへもそうでない時にも出掛けます。
 しかし、これは別に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」と昔の風流人を気取っているのではありません。ぼくらにそんな典雅な趣味はありません。雑踏を避け日常から離れて気晴らしするのが目的のそぞろ歩きであってみれば、比較的近くて普段見慣れていない自然の風景があるところなら、どこでもいつでも構わないというだけのことです。物好きと言えば物好きです。

梅のつぼみ 白山麓は河内村の隅っこ、鳥越村にも吉野谷村にも近い吉岡という辺りに、国道と手取川に挟まれた一面に広がる田んぼの真ん中を突っ切って、人も車もあまり行き来しない結構立派な道路が通っています。この道には鳥越村との境に手取川に架かる橋があります。
 三月中旬のよく晴れた休みの日、この橋の河内村側のたもとで、友達と二人してそれぞれ愛用のデジタルカメラを手に、早春の柔らかな日の光が川面に反射してキラキラと輝いているのを眺めていると、先ほどから田んぼを見回っていたタオルでほっかむりをして長靴を履き、手にはビニール袋を下げた農家の老人が近付いてきて、ぼくのカメラを指差すと、写真だねっ、コンテストに出すんでしょ、と話し掛けてきました。
 ぼくに写真の趣味はないので、いいえ、そんなんじゃないんです、と否定すると、あれだ、ねっ、よくやってる、あれでしょう、コンテスト、ああいうのに出すんでしょう、とまったくぼくの言葉を聞いていないように、老人は同じ言葉を繰り返します。いいえ、ただ撮っているだけです、そんなんじゃないんです、とぼくも同じ言葉で返します。それでも尚も老人は、暗室を作って、自分で現像して、ねっ、やっているんだ、それをコンテストに、ねっ、とまた同じ言葉を繰り返すと、一人で納得しているような顔をしています。なぜか老人はぼくの言葉をまったく信じてくれないのです。からかっている様子はまったく無く、耳が遠いわけでもなさそうです。ぼくはコンテストの否定は諦めて、暗室は要らないんです、パソコンでやるんです、と今度は暗室の方を否定してみると老人は、ああ、そう、パソコンでね、ふうーん、と言って今度は残念そうな様子でした。
 そのあと友達も加わって三人で世間話になりました。話すのはほとんど老人で、ぼくらは概ね聞き役です。話のネタも尽きた頃、ぼくは老人の手に下げた袋の中身を尋ねてみました。すると老人はモグラの穴にネズミが潜んでいて苗の根を全部切ってしまうので、田植え前にネズミを退治するための薬だと教えてくれました。そして急に思い出したように、あっちの松林にアオサギが百羽ほどもおるけど、あんたらは鳥は撮らんがけ、時々写真を撮っとる人がおるけど、とそっちを指差しながら聞いてきました。
 そうか、ここはカメラを抱えた人がよく来るのか、それでこの人はぼくらに話し掛けてきたんだ、しかし、弱ったな、またこの人にノーと答えるのはちょっと気が引けるな、どうしようか、とちょっと迷った後、いや、ぼくらは風景ばかりですが、と答えました。すぐに友達の方を見ると、友達もうんうんと頷いています。
 しかし本当は二人とも内心は言葉とは裏腹に、そんなものがいるのなら見に行こう、なんです。それならなぜ気が引けるのに否定的なことを言ってしまったのかというと、ぼくらのカメラでは鳥のように小さくて近付くことが困難で動きのすばやいものを撮るのには無理があるので、今までほとんど鳥を撮った事がなかったからです。それで風景ばかりだと答えてしまったのです。で、そう言ってから少々困りました。
 一旦否定したものを舌の根の乾かぬうちに翻して肯定に転じ、じゃあ行ってみます、とは言い難いものです。と言って、そのままにして老人が去るのを待って見に行くのも、こそこそしているようで嫌です。しかし有り難いことに老人は、ぼくらのそんな否定的な態度にお構いなく、そばで見ると大きくて羽を広げると一メートルぐらいある、などと尚もアオサギの話をしばらく続けくれたので、あらためて鳥の話を持ち出す必要がありませんでした。そこで頃合を見て、そんなにたくさんいるのなら見に行くことにしようか、と二人で少々白々しい相談をしてみせると老人に、どーも、それでは、と言ってアオサギを見に行きました。しかし、何だか意地を張ったような、素直でなかったような、老人に気の毒したような気持ちでした。

巣のアオサギ 老人の教えてくれた松林は田んぼの向こう、すぐそこに見えています。松は幹のまっすぐ伸びたアカマツで、その上を鶴のような大きな鳥がゆうゆうと飛んでいます。首を乙字形に曲げて飛んでいるから鶴ではありません。真っ白の胴体に灰色の翼の端が黒い大きなサギです。
 アオサギを見ながら友達が、サギは何を食べるんだ、と聞くので、ぼくは落語の「鷺とり」を思い出して、そりゃ、ドジョウか何かだろう、と答えると友達は、そんなもんこの辺にいるのかと言いたげに怪訝そうな顔をしました。
 近付けるだけ近付いてみると、結構な数がいて梢にいくつもの巣をかけています。アオサギは飛んできて巣に降り立つと、しばらくしてまた飛び立っていくということを繰り返しています。時々嘴に細い木の枝をくわえてくるのは巣の材料にするためのようです。巣には常に一羽がいるので、番で子育ての準備をしているのだろうと思います。
 ぼくらは下から見上げるような位置なので、巣の中のアオサギは首から上だけしか見えません。頭頂は黒色で、二本の長い冠羽があるのが分かります。しかし、全姿の写真を撮りたいものです。それには巣から飛び立つところか、帰ってきたところを狙うしかなさそうです。
 ぼくのカメラはレンズばかりが目に付くサイバーショットで、ファインダーが付いていません。そんなカメラで倍率をいっぱいに上げて、すばやく動いているものを狙うというのは容易ではありません。徒労に終わるかもしれないと思いながらもチャンスを待ちます。やがてチャンスがきて、アオサギが翼を広げたところを慌てて狙いをつけ飛び立つ姿を追いますが、シャッターを切る前にもう見えなくなっています。帰ってきたのを狙っても同じで、あっという間に巣に降り立って松の枝に隠れてしまいます。何度も失敗して漸く拙い写真が一枚撮れます。

ご覧の通り、この程度の写真しか撮れませんでした

 友達はデジタルハンディカムに三脚をつけて据えると長期戦の構えで、じっと辛抱強く松の梢を睨んでいますが、ビデオと静止画、どっちを撮っているのか分かりません。どっちを撮ってるんだ、なんて下手に聞こうものなら、シッ、声が入る、と叱られます。
 ぼくは友達とは正反対で辛抱強くないうえに諦めるのも早い性格です。何枚か撮ったあと、もうこれ以上は同じだろう、と撮るのを止めて、彼が撮り終わるのを待つ間、田んぼの畦を行ったり来たりしました。畦の向こうに梅の木がポツンと一本あって、そこまで行っては還ってくるのです。何回目かに梅の木まで行った時、枝にたくさんのつぼみが膨らんでいるのに気が付きました(上の写真)。
 ああ、こういうところに唯一本ある梅の木に咲く花は、どこかの公園の梅林で盛大に咲く花よりも、春の到来をしみじみと感じさせてくれるのだろうな、これが咲くのはいつだろうか、と思いながらぼんやり梅の木の横に立っているぼくの頭の上を、アオサギがゆっくりとはばたいて飛んでいきました。(平成13年3月25日 メキラ・シンエモン)


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