参 考

鷺とり

 「鷺とり」という落語は良く知られた古典落語ですが、鷺を捕まえた男がえらい目に遭うという噺で、先年亡くなった桂枝雀さんの十八番でした。この噺に鷺がドジョウを食べるということがチラリと出てくるわけですが、ご存知ない人のために噺のあらましを書いてみます。

 ある男が知り合いの家に行くと、近頃はどんな仕事をしているのかと尋ねられます。するとその男は「鳥とり」をしていると答えます。知り合いは何のことか分からないので、そりゃなんじゃ?と聞きます。そこで男は「鳥とり」の説明をはじめます。
 「鳥とり」というのは鳥を捕まえることですが、先ず、雀と鶯を捕まえようとしたところが駄目だったので、今度は鷺を捕まえようと思っていると言うのです。その方法というのが、鷺を騙して捕まえようというのですが(鷺はサギだから詐欺と同音、つまり、鷺と詐欺を引っ掛けてあるわけです)、知り合いは、そんなことでは鷺は捕まらんから、北野の円頓寺(えんどうじ)の池に鷺がたくさんいるというから行ってみたらどうかと勧めます。
 それで、この男は夜になって北野の円頓寺へ行くと、池で寝ていた鷺をたくさん捕まえます。ところが、それを腰の帯にずらりと並べて挟んでいたので、朝になって目を覚ました腰の回りの鷺が一斉にはばたくと、この男は鷺と一緒に空に舞い上がり、四天王寺の五重塔の屋根の上に乗っかってしまいます。
 それを寺の坊さんが見つけて、布団を持ち出してきて助けようとするのですが、男が布団に飛び降りた拍子に、布団の四隅を引っ張っていた坊さんが互いの頭をぶっつけあうと、一人助かって四人死んでしまいます。

 とまあ、こういう噺なんです。馬鹿馬鹿しい話ではありますが、なんでもこれを枝雀さんがアメリカかどこかで英語でやったら、最後に一人助かる代わりに四人も死んでしまうのがナンセンスだというので、ちっとも受けなかったそうです。そこでハッピーエンドに変えてやってみたら、今度は大いに受けたという話を聞いたことがあります。

 しかし、何ですね、落語というのは、こんな風にあらすじだけ書いてみても、ちっとも面白くないばかりか、何のことだかさっぱり訳が分からないもんですね。第一、どこにドジョウが出てくるのか、これではまったく説明になっていませんから、せめてその部分だけでも、ぼくの覚えている限りで再現しておきます。少々長くなりますが、辛抱してください。

 「雀も鶯も捕まらなんだもんが、鷺てな大きな鳥が捕まるか?」
 「今度は、心配おまへんねん、なんでも鷺という鳥は深田(ふけだ)やなんかに降りて、ドジョウかなんかを、コツコツ、コツコツとやってるちゅうなことをよう聞きまっしゃろ」
 「そういうことをよう聞くな」
 「ですからね、そこへ行きましてね、はじめは遠くのほうから、サーギーと、こう、鷺を呼びまんねん」
 「呼んだら、鷺が分かんのかい」
 「分かりまんねんな、ドジョウかなんかを、コツコツ、コツコツとやりながら、誰かおれを呼んどんな、誰や、ああ、人間か、人間がおれに何の用があるんや、ああ、そうか、人間がおれに用のあるはずが無いな、捕まえようちゅうんやな、生意気なやっちゃな、けど声の様子ではまだ遠くにおるな、ようし、知らん顔しておいて、近付いてきたらバタバタと飛び立って驚かしてやろ、そうしょ、そうしょ、まだ大丈夫やな、とドジョウをコツコツ、コツコツとやってまんねん」
 「それで」
 「その間に、こう、こちょこちょ、こちょこちょと近付いて行って、さっきよりも小さい声で、サーギーと、こう言いまんねん」
 「それで」
 「確かに、おれを呼んどるなあ、そやけど近付いてきた様子も無いな、まだ大丈夫やわい、とコツコツ、コツコツとドジョウをやってまんねん。その間に、わたいがまた、こちょこちょ、こちょこちょと近付いて行って、さっきよりも、ずっと小さい声で、サーギーと言いまんねん。やっぱりおれを呼んどんな、そやけど、近付いてくるどころか、だんだん遠くへ行てるみたいやなあ、おかしいなあ、と鷺は思いまんねん。ここでんねん。ここでんねん。ほんまは近付いてまんねんけど、声をだんだんに小そうしてまっしゃろ、それで鷺は遠くへ行っていると思いまんねん。鷺はアホでんな」
 「おまえがアホや」

 というわけで、鷺がドジョウを食べるという話が出てくるんです。しかし、まあ、こんな詰まらんことばかり憶えていて、肝心なことはみな忘れてしまうんですね、ぼくは。(メキラ・シンエモン)
 


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