2-08-KN03

近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

男はつらいよ、坊ちゃん

 今年は夏目漱石没後100年ですが、渥美清さん没後20年にもあたるんだそうです。早いもんです。そこでこの二人にゆかりの金沢を見てみようと思います。えっ、そんなものあるの、と普通にはちょっと思いつかないでしょうね。あるにはあるんですが、金沢検定の問題に出そうな程度の関わりになります。金沢検定というのはいわゆるご当地検定の一つで上級中級初級と3ランクに分かれていますが、これがなかなか合格させてもらえません。歴史・寺社・史跡・庭園・建築物・自然・地理・美術・工芸・文学・芸能・スポーツ・風習・方言・食文化・産業経済・ゆかりの人物・時事などあらゆる分野から出される4択形式の100問を制限時間90分でセンター試験並みの厳しい監視のもとで答えるという試験なんですが、合格点は100点満点の80点以上で、合格点を取る為には、初級はよく知っているねと感心される程度の知識が、中級はへーぇそんなことまで知っているのその顔でねぇと不思議がられるほどの知識が、上級はところでそれを知っていて何の役に立つんでしょうかと気味悪がられて馬鹿にされかねないくらいの知識が要求されます。かく言うぼくは一昨年金沢検定初級に普通に合格し去年は中級にぎりぎりで合格しています。ということで、金沢検定のために勉強していたらいろいろわかった渥美清さんというより「寅さんと金沢」そして「夏目漱石と金沢」です。

寅さんゆかりの金沢
蛤坂 「男はつらいよ」で寅さんの旅先として金沢が登場するのは唯一第9作の「柴又慕情」だけです。季節は初夏でしょうか、マドンナ役の吉永小百合さんが友人二人と兼六園を桂坂口から出てくると、そこでは寅さんが金沢城の石川門を背に商売をしています。そのあと吉永小百合さんが泊まっている犀川大橋から寺町台に上がる蛤坂の途中にある旅館に寅さんも泊まります。長町武家屋敷跡が出てきて兼六園では霞ヶ池に白鳥が浮いていて、尾山神社近くにあった「中屋」という16世紀後半から続く薬屋の昔ながらの店舗なども映っています。
 1972年の映画です。21世紀美術館はもちろんまだなく、金沢城公園は金沢大学のキャンパスでした。いま観光客が押し寄せているひがし茶屋街も近江町市場も出てこないことから、当時の金沢観光は兼六園と長町武家屋敷跡が中心だったことがわかります。(写真は現在の蛤坂。寅さんの泊まった旅館は今はなく、跡地にマンションが建っています。左は犀川で左岸の河川敷に芭蕉の句碑があります。)

国鉄職員の詩
 それからもう一作、第26作の「寅次郎かもめの歌」が金沢にゆかりの回となっています。マドンナ役の伊藤蘭さんが通う定時制高校で村松達雄さん演じる先生が駅員の作った詩を朗読する場面がありますが、この詩は「便所掃除」というタイトルでJRになる前の国鉄時代に駅員が便所掃除の様子を題材にして作ったという不思議な詩で、作者名は黒板に浜口国雄と書いてありましたが、1920年生まれで福井出身の濱口國雄という詩人です。じゃ金沢に関係ないんじゃないのと思ったらそうじゃありません。
 この詩は金沢市役所のはす向かいにある戦前の金沢第四高等学校の建物を利用した石川近代文学館の2階に大きく展示されていて、詩の好きな人々の間では有名な詩のようです。ようですというのは、ぼくは詩に関心がそれほどあるわけではないからで・・・、というような話はどうでもよく、問題はこの詩に出てくる便所のある駅はどこかということです。
 これを書いたときの濱口國雄は国鉄金沢駅の車掌区にいました。だからこそ石川近代文学館にでかでかと展示しているわけで、臭うほどのいい詩なんですが、詩の内容を散文的に見れば金沢駅の乗降客はトイレのマナーが悪いと言っているようなものです。まあ映画を見た人のほとんどはこれが金沢駅のトイレだとは知らないとは思いますが・・・。(この詩はとても長いのでここに載せることはやめておきます。)ちなみに村松達雄さんが先に挙げた第9作「柴又慕情」ではおいちゃん役を演じていたのは因縁めいています。
 それからこれはゆかりというのとはちょっと違うかもしれませんが、しんみりした感じが印象に残る第44作「寅次郎の告白」では、寅さんの昔の失恋相手で鳥取の料理屋の女将お聖ちゃんを演じていたのは金沢出身の女優吉田日出子さんでした。寅さんはここまで、次は夏目漱石と金沢です。

「坊っちゃん」の赤シャツ
 金沢が出てくる漱石の小説といえば・・・、そんなもんあったかなとだれもが首を傾げると思いますが・・・、夏目漱石全集なんて持っているはずないし図書館に行って読むわけもないから、たぶんですが、そんな小説も随筆も評論もないと思います。
 じゃいったいなんなんだといえば、漱石が松山の愛媛県尋常中学校の英語の講師をしていたころ、その中学の教頭が横地石太郎(よこぢいしたろう)という加賀藩士出身の人だったそうです。帝大出の文学士が松山の中学で英語を教えていたくらいだから、元加賀藩士が四国辺で中学の教頭をやっていても不都合はないのですが、問題は・・・、そうもう気が付いていますね。この横地さんは「坊ちゃん」に出てくる赤シャツのモデルだといわれている人物です。ほんとなんでしょうか。
 漱石自身は学習院で行なった講演の中で、
「坊ちゃん」の中に赤シャツという綽名を有っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわち私の事にならなければならんので・・・。(夏目漱石「私の個人主義」講談社学術文庫)
と語っているし、実際の横地さんは赤シャツとはまるで逆で謹厳実直にして品行方正な人だったようで、漱石との仲も良かったみたいです。漱石もきわどいことをするもんです。

苦沙弥先生の親友
 きわどいと言えば、これもまたきわどい。「吾輩は猫である」に吾輩の飼い主である苦沙弥先生が天然居士(曾呂崎)という親友の墓銘の文句を考えるという小説全体にはなんの関わりもない場面がありますが、この天然居士は漱石の親友米山保三郎(よねやまやすさぶろう)が授けられた居士号だと岩波文庫では巻末の山ほどある注釈の中に書いてあります。この米山さんが金沢生まれの人で漱石とは大学予備門の同級生なんだそうです。哲学者だったそうですが29歳の若さで亡くなっていて、だからこんな形で登場するんでしょう。で、きわどいのはその描き方です。
 苦沙弥先生が考える墓銘の文句は最初が「天然居士は空間を研究し、『論語』を読み、焼芋を食い、鼻汁(はな)を垂らす人である」というんだからこれはちょっとねぇ、と思って読んでいくと、あとで苦沙弥先生は、鼻汁を垂らすは酷だからと削りさらに焼芋を食いもふさわしくないとか言って削ってしまいます。でも、そんなこと考え直して削る前にどこのだれが墓石に彫る文句としてこんなこと考えつくもんですか、これはやり過ぎだよ、と普通なら思いますよ、・・・大概は。ところが、そう思ってしまうと・・・これがちょっと違うみたいなんです。この「焼芋を食い、鼻汁を垂らす」は中国のなんとかという(名前の漢字が難しい)禅僧の故事に由来する言葉なんだそうです。おもしろおかしくするために書いたわけじゃなかったということですが、知りませんよねぇ、そんな故事なんて。
 漱石もさすがにヤバっと思ったんでしょう、たぶん。誤解を避けるためには普通にはわからない言葉を削っただけでは足りないと、ちょっとあとの方で、苦沙弥先生と迷亭君と鈴木君が天然居士を回想して、一度でいいから電車へ乗らしてやりたかったとか、いい頭の男だったとか言ってみたり、飯を炊くのが下手だったとけなしてみたり、いかにも亡き親友を偲んでいるようにしてあります。そうであってみれば、名前も読めないような中国の禅僧の故事まで承知しているような教養なんて、あいにく持ち合わせていないぼくらは、いろいろ詮索せずに、そのままのとぼけた感じで了解しておもしろがっておく方が「お得」です。漱石自身も、知っている人は知っている人なりに、知らない人は知らない人なりに読めばそれでよいと考えていたんでしょう、きっと。

「坂の上の雲」
 ところで、哲学者で漱石とは大学予備門の同級生だということになると正岡子規のことが思い浮かびます。哲学者になろうと考えてた子規が米山保三郎というものすごく優秀な哲学者志望の同級生がいたために、これでは一番になれないからと哲学者になることを断念したというのは有名な話です。それで子規は文学の方へ向かったのだから俳句をやる人はみんな米山さんに感謝しなけりゃなりませんが・・・、それはともかく、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のなかの子規が哲学者になることを断念する場面にちゃんと米山さんが登場します。そして漱石との関係についても、
 ついでながら、米山保三郎は金沢の人である。のち文科大学(文学部)で哲学をおさめ、さらに大学院で空間論を研究したが、二十九歳で没した。文科大学のころは漱石と親交があり・・・漱石の文学的才能についてはついに触れることはなかった。(「坂の上の雲」文芸春秋刊)
と司馬さんは書いています。
 世間一般では、米山さんは漱石に小説家になることを勧め、漱石はそれで小説家になったという話になっています。なっていますじゃなくて、そうだったんしょう、実際。でも、「坂の上の雲」のこの部分だけを読めば、漱石と米山さんのあいだには文学をめぐってのなんの交渉もなかったということになり・・・、これ以上は考えないでおきます。いずれにしても、米山さんは漱石に大きな影響を与えた人であり、また漱石のとても大切な友人だったことは確かです。

 それにしても、こんなすごい人が地元では普通には名前も知られていません。早くに亡くなっていて知られている功績がないからかもしれませんが、ある意味いかにも金沢らしいことに思えます。(メキラ・シンエモン 2016年8月8日)


写真:メキラ・シンエモン


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