2-09-KN04

近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

芭蕉の金沢

 「男はつらいよ 柴又慕情」で寅さんが泊まった犀川左岸沿いの蛤坂にある旅館の下あたり、河川敷を少し川上に行った遊歩道脇に自然石を使った石碑が一つ川を背にして立っています。石碑には「あかあかと日はつれなくも秋の風」と彫られています。江戸時代だった今から327年前の夏の終わりに金沢を訪れた松尾芭蕉の句です。
 寅さんは旅暮らしを止めたいのにやくざな性分がそうさてくれないと言いながら、日々旅にして旅を栖(すみか)とした人でしたが、芭蕉さんはもっと積極的で、旅の途中で死んだ先輩たち、杜甫、李白、西行、宗祇に憧れて旅をしました。

 元禄2年(1689年)の春、ものに憑かれたようにあるいは道祖神に招かれるままに江戸深川を発った芭蕉さんは4か月後、旧暦のお盆にあたる7月15日(陽暦8月29日)に金沢に入りました。
 熱烈な芭蕉ファンのなかには芭蕉さんの足取りを忠実にその日にちまで合わせて辿る人たちがいます。ぼくは去年、そういう人たちのなかの一人に成学寺(じょうがくじ)と長久寺への道を訊かれて教えたことがありました。(どちらの寺にも芭蕉さんの句碑があります。)


   あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風

 風はもう秋だというのに日差しはまだ厳しいねぇ、といったところでしょうか。同じ句を刻んだ碑は寅さんが泊まった蛤坂の旅館から少しあがったところにある成学寺にもあります。この成学寺の句碑は古いもので宝暦5年(1755年)に作られたと境内にある立札に書いてあります。またこの句について「犀川橋上吟」と書いてある古文書があるそうです。犀川に架かる橋の上で詠んだということでしょう。「おくのほそ道」本文に「途中吟」とあって金沢から小松へいく途中で作ったというのだから、この橋は江戸時代から交通の要衝だった今の「犀川大橋」と考えるのが自然です。別に浅野川河畔にあった立花北枝(たちばなほくし、蕉門十哲の一人)の草庵での作だという話もあります。
 ところで、この句は「あかあかと」というイメージが夕日を思わせて夕方に詠んだものだとすることが多いようですが、この「つれなく」という言葉は「つれなし」で無情・無神経を表す言葉だそうで「そ知らぬふうな」と口語訳するのがよいとものの本に書いてあって、だとすると8月末の金沢の夕日は「つれなし」なのかといえば、つまり秋の到来を知らぬかのように照りつけるのかといえば、そうではありません。金沢でなくても8月末でなくても、夕日が厳しく照りつけるなんてことはないでしょう。それに金沢から小松へいく途中に詠んだというんだから夕方というのはちょっと理屈に合わないので、夏の終わりの残暑厳しい日中のことだろうと思います。実際は小松へ行く途中の句ではなくて金沢滞在中に詠んでいますが、それでも結局は同じことです。
 ちなみに、ほんとうは滞在中なのに「途中吟」として金沢の最後に持ってきたのは、この句になんとなく余韻を感じさせる雰囲気があり、金沢を去る場面にぴったりだったからなんでしょう。(写真は兼六園にある句碑)

 どうでも良いようなことばかりに拘って、ややこしいことを書いていますが、「おくのほそ道」は事実をまげて都合よく編集されていることがよく知られているからで、句の推敲から詠んだ順序の変更までが意図的になされています。だから正確な旅行記ではないということです。
 それどころか、ぼくが一番好きな市振での「一家に遊女もねたり萩と月」なんて実際にはなかったことを詠んだ句で、つまりほとんどフィクションなんだそうです。がっかりですね。「おくのほそ道」唯一の物語風エピソードで、ここが好きだという人は多いと思うんですが、芭蕉さん、人にいろいろ思わせておいて、ひどい。でもそうと知ったあとでもやはり一番好きな句に変わりはありません。
 この遊女の挿話は全体を考えるととても異質ですが、これがあるとなしでは「おくのほそ道」の印象は全然違ってしまい、ないとなると単に名所旧跡を巡っただけのお話になってしまうことを思えば、芭蕉さんもそれがわかっていたんでしょう、きっと。あるいは宿でそんな遊女の旅人を見かけたか噂を聞いたかして、こんな話を思いついたのかもしれず、丸っきりの嘘でもなく、芭蕉さんにとってはどうしても入れておきたかった事実ではない本当のことだったんじゃないでしょうか。


   塚も動けわが泣く声は秋の風

願念寺の芭蕉の句碑 早世したある俳人の追善供養で詠んだ句です。金沢には多くの蕉門がいましたが、そのなかのひとりに小杉一笑という芭蕉さんも一目置く若手がいて、芭蕉さんは会うのを楽しみにしていたのに、一笑さんは前年の12月に36歳で亡くなっていました。芭蕉さんは知らなかったのです。よほどショックだったんでしょう。でなければ、こんな激しい句にはなりません。
 この句は金沢滞在中の最初に置かれていますが、実際はそうではなく順番を入れ替えて意図的に最初に持ってきています。また金沢には「おくのほそ道」中最長の十日間も逗留していますが、その割には記述の分量が極端に少なくて唯一エピソードらしいのはこの個所だけです。句碑は妙立寺(忍者寺)の裏手にある一笑さんの菩提寺願念寺(がんねんじ)にあります。

小杉一笑
 Eテレの番組を見て知ったのですが、芭蕉さんの俳句にはひとつの構造を持ったものが多くあり「現実世界」と「心の世界」という組み合わせになっていて「現実+心」と「心+現実」という2パターンがあるそうです。その最初の句があの「古池やかわず飛び込む水の音」(「心+現実」のパターン)なんだそうです。一笑さんの死を悼んで詠んだ「塚も動け」はそれが良くわかる句で、一笑さんの死を嘆く心「塚も動け」と芭蕉さんが泣いている現実「わが泣く声は秋の風」という組み合わせで、確かに「心+現実」になっています。
 一笑さんの家は茶舗をしていたと願念寺の立札に書いてありますが、お茶を売っていた一笑さんの俳句とはどんなものだったんでしょう。「100分de名著ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道」に載っている一笑さんの句です。
   やすらかに風のごとくの柳かな
   雨だれや蛙のならぶ軒の下
   夜やこほる猫の行音帰る音
   ふらぬ日や見たい程見る雪の山
   心から雪うつくしや西の雲
なるほどね。どうですか、これ、軽快な感じでわかりやすい。雨の日に蛙が軒下に並んでいたり、寒い日の夜中に猫の行ったり来たりする足音が聞こえたりするとは思えませんが、そう表現したセンスがどこかしゃれています。4番目の句なんて地元のぼくらは思わず、うんうん、そうそう、わかるわかる、と首を縦に頷いてしまう金沢の冬ですよ。5番目は辞世の句です。西の雲というのは西方極楽浄土から一笑さんの魂を迎えに、観音菩薩と勢至菩薩を従えてやってくる阿弥陀如来が乗った雲のことなんでしょう。


   秋涼し手ごとにむけや瓜茄子(うりなすび)

 金沢では多くの句会が開かれました。ある草庵で詠んだのがこの「瓜茄子」です。さあ、みんなで剥いて食べよう食べよう、といった感じで、なんだか、はしゃいでいるみたいです。「塚も動け」の次に置かれていますが、実際は「塚も動け」の前に作られていて、この順番にすることで、一笑さんには会えなかったものの、そのあとは多くの門人と楽しい時を過ごしたということになり、話のつながりがよくなります。
 句碑は、兼六園とお城の間のお堀通りから犀川の方へ行き、犀川大橋の550メートル上流に架かる桜橋を渡るとすぐ眼の前にそそり立つW坂を登った右にある長久寺にあります。

 芭蕉さんが「おくのほそ道」に入れた金沢の句はこの三つだけでした。


W坂と桜橋
 「おくのほそ道」とはまったく関係のない話になりますが、W坂と桜橋が出てきたのでそのことをちょっと。金沢は坂の多い町でその数ある坂の中でもW坂は特異です。石段の坂でその名のとおりアルファベットのWの字を右に90度倒した形で折れ曲がりながら登っていて、上がった先は車の通れない細い細い道が寺町大通りと直角に交わります。
 とても急な坂で、登るときのきつさを井上靖は「北の海」の中で描いていて、坂の中ほどに「北の海」のその部分を刻んだ文学碑があります。「ふるさとの坂30選」に入っているそうですが、春は桜がきれいで、子どものころは家が近くだったので遊び場でした。夏はよく蝉採りをしたもんです。時には川に降りていってメダカを捕りました。
 W坂下の桜橋は高校生のときの晴れた日の通学路で自転車で渡りました。W坂は先にも書いたとおり石段だから自転車は通れません。実はW坂の横に、お城から眺めるために桜を植えたのが名前の由来だという桜坂という自動車が楽に通れる道幅の、やはり寺町台を上がり下がりする坂があります。これもけっこう急な坂で自転車で上がるのは大変ですが、ぼくは寺町にあった家からこの桜坂を自転車で駆け下り桜橋を渡ると兼六園の下を通って浅野川に架かる浅野川大橋も渡ってさらにずっと先にある高校へ通っていました。
 さらに校門に達するには最後の難所に挑まねばなりませんでした。生徒からは「遅刻坂」と呼ばれていて、なぜか桜並木になっている急な坂があったんです。自転車では絶対に登ることができず、自転車に乗ったまま下るとすると、桜の木に激突して崖下に転落すれば翌日から一週間は学校を休むくらいの怪我の覚悟が必要な坂でした。大変だったのは生徒だけではなく、先生もおおいによわっていました。冬は雪でスリップして車が登れない運の悪い先生が、ちょうどそこへ登校してきた運の良い生徒をふたりばかり捕まえて後部座席に乗せ、尻を重くしてなんとか坂を登っていました。当時FF車は少なかったんです。足腰の鍛錬にはなりました。


 芭蕉さんのころから桜橋はあったんでしょうか。明治38年に架け替えられるまでは犀川新橋と呼ばれていたそうだし、橋とセットみたいなW坂は藩政期には石伐坂(いしきり坂)と呼ばれていたといいますから、きっと、あったんでしょう。
 芭蕉さんが「あかあかと日はつれなくも秋の風」と詠んだ橋は犀川大橋でした。でもぼくは桜橋だったということにしておこうと思います。(メキラ・シンエモン 2016年8月17日)

写真:メキラ・シンエモン


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