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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

永姫さんの庭 玉泉院丸庭園

 先日、今年の金沢検定の合格発表がありました。各級とも相も変わらぬ低い合格率でしたが、去年全員が不合格だった上級は今年152人が受験して150人が不合格でした。実はこの150人の中にぼくも入っています。
 去年受けた中級は、おととしの初級が93点だったので、これならその上もいけそうだと軽く考えていたら、はじめから知らないことばかりが出てきて、わぁ、わからんなー、こんなの受けるんじゃなかった、と後悔からスタートした緊張の1時間30分となり、結果は81点でほんとうにギリギリのギリでの合格でした。
 だから、続けて上級を受けてみようなんて気は更々なかったのに、あんまり周りが騒ぐもんだからついその気になってしまって、それで去年の中級のことがあったので、できる限りの努力というか準備をして上級の試験に臨んだ・・・はずというか、つもりだったのですが・・・、中級のときと同じで開始早々、わぁ、わからんなー、となり、しかも中級のときとは違って、わからんなーがどこまでいってもずぅーっと続くもんだから、こりゃ分からん問題が多すぎるよ、と後悔も緊張も忘れて笑ってしまいました。
 そんなだから半分もできただろうかというありさまで、合格発表を待つまでもなく試験終了と同時に不合格を確信したんですが、分かってはいてもはっきり結果を突きつけられると、さすがにやはりいい気持ちはしないもんです。合格点に遠く及ばぬ56点でした。

 こんなことでしたが、せっかくいろいろ覚えたことがこのまんまそのうち忘れてしまうのはもったいないというか、なんとなく気が済まないので、不合格による心の傷が(人並みに)未だ癒えぬまま、今回はそれを活用した内容でいこうと思います。


百万石のお嫁さん
 加賀藩初代藩主が前田利家であることはだれでもよく知っています。では、2代目以降の藩主の方々はとなると、歴史好きな人が3代目の利常さんと5代目の綱紀さんの名前をあげるのがやっとではないかと思います。まして歴代藩主の正室の皆さんにいたっては、金沢検定を受けようかという奇特な人にして漸く、初代から5代までの正室の名前を言い当てることができるだけ、というくらいに知る人は少ないでしょうね。それでも加賀百万石のお嫁さんたちです、さすがにどうしてどうして、そのお里は名家揃いでした。
 特に初期の方々がすごくて、3代利常さんの正室は徳川2代将軍秀忠の二番目のお嬢さん、4代光高さんの奥方は徳川光圀(水戸黄門)のお姉さん、5代綱紀さんのお舅さんは保科正之(秀忠の息子で名君と言われた会津藩主)・・・といった具合です。そのあとの方々も12代斉広(なりなが)さんの継室(正室の後妻)は夙姫(あさひめ)といってなにやら雅な名前だと思ったら公家の鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘さんで(鷹司隆子、のちに真龍院となって隠居所にした巽御殿が今の成巽閣)、次の13代斉泰(なりやす)さんは11代将軍家斉の21番目のお姫さんを貰っていて(溶姫、その輿入れの時に加賀藩江戸上屋敷に拵えた御守殿門が現在の東京大学の赤門)・・・、えっ、なんですか?そんなことより2代目の嫁をすっ飛ばしているみたいだって、わかっています、わざとです、今回の主役ですから。

織田信長の娘
 2代藩主利長さんの正室は永姫(えいひめ)さんといいます。織田信長の四女です。五女だったという話もあり、信長公のお嬢さんなのに何番目かはっきり分からないようです。そのころからマイナンバーがあったらはっきりしていたかも知れませんね。でも生年月日ははっきりしているようでお嫁に来たのが8歳(そのとき夫の利長さんは20歳)で「本能寺の変」の時は9歳だったそうです。すごい美人だったに違いないとぼくは想像していますが、かわいそうに子供ができませんでした。たぶん旦那が原因でしょう。
 永姫さんが40歳の時、夫の利長さんが亡くなると院号を玉泉院(ぎょくせんいん)とし、それまでいた高岡から金沢に戻り、その50年の生涯を終えるまで金沢城西の丸で暮らしたそうです。なんだか寂しさに耐えた「女の一生」だったような・・・と考えるとますます美人だったように思えてきます。

 今回は永姫さんについて書いていますが、生涯をたどっているのでもどんな女性だったかを考察しているのでもありません。ゆかりの場所を巡ろうというのでもなく、ただなんとなく、です。だから「通りがかりの者です」なんです。

玉泉院丸庭園
 利長さんの腹違いの弟で3代藩主となっていた利常さんは、玉泉院さんが亡くなったあと暮らしていた御殿を取り壊し、その跡に京都から剣左衛門(けんざえもん)という庭師を連れてきて庭を造ります。このころから玉泉院丸と呼ばれるようになったようです。そのあとも5代目の綱紀さんが千利休の曾孫で裏千家の祖になる千宗室仙叟(せんそうしつせんそう)にさらなる造園をさせ、13代の斉泰さんも手を加えて大切にしました。これが今、金沢城公園内で観光客に人気の「玉泉院丸庭園」です。
 永姫さんは藩祖利家さんの主君、織田信長の娘でした。前田家のみなさんが「玉泉院丸庭園」を大事にしたのは永姫さんを偲ぶ思いのほかに、徳川の世は認めないよ、という表には出せない加賀藩の意地があったんじゃないのかなぁと思います。

 こうして大事にされていた「玉泉院丸庭園」でしたが、徳川の世が終わった明治維新後は陸軍が入ってきたり庭石が兼六園に持っていかれたり、戦後は県立体育館が建てられたりして、いいようにされてしまいました。遺構の発掘調査のあとは地下に埋められてしまい、今ぼくらが目にしている「玉泉院丸庭園」はその遺構の土盛の上に、きっとこんなんだったんだろう、と北陸新幹線開業に合わせて大急ぎで復元したものです。北陸新幹線のお陰で永姫さんの名はぼくらの記憶に残ることになりました。

玉泉園
 もうひとつ永姫さんの名を持つ庭園があります。兼六園の近くにある、名前からも想像がつく「西田家庭園 玉泉園」です。こっちは復元ではありません。そしてドラマチックなエピソードが伝わっています。

 永姫さんの夫利長さんには豪(ごう)という宇喜多秀家の正室となっていた妹がいました。豪さんの夫秀家さんは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍したおり、父親が戦死し孤児となった7歳になる朝鮮の少年を不憫に思って日本に連れて帰りました。少年の名前は金如鉄(キム・ヨチョル)といい、父親は金時省(キム・シソン)といって翰林学士(ハンリムハクサ)という朝鮮の高官でした。だからヨチョル少年は誇り高い両班の、それも文班の家の子だったわけです。両班(ヤンバン)は文官である文班と武官である武班から成る李氏朝鮮のエリート階級で文班の方が上位とされていました。
 このヨチョル少年は岡山城で豪さんに大事に育てられていましたが、豪さんに連れられて金沢に来たとき永姫さんの目に留まり、そのまま永姫さんが養育することになりました。素直で賢い少年だったんでしょう、きっと。日本名は九兵衛といったようです。ヨチョル少年は捕虜にされたのでもなく拉致されたわけでもなく、戦国時代のふたつの大きな大名家によって大事に育てられたわけです。
 成長したヨチョル君は利長さんに仕えて可愛がられたといいます。やがて結婚適齢期になると永姫さんの世話で450石の小姓頭だった脇田家に婿養子として入り脇田直賢(わきたなおかた)と名乗りました。その後、算用場奉行、大小姓頭、金沢町奉行などを務め1500石にまで石高を伸ばしています。当時前田家に身を寄せていた高山右近から伝道されキリスト教徒だったという話もあります。もちろん隠れキリシタンだったんでしょう。その後もヨチョル君の脇田家は繁栄し明治維新まで存続しています。

 この脇田直賢ことキム・ヨチョル氏の屋敷の庭が「西田家庭園 玉泉園」です。「玉澗(ぎょくかん)様式」といって中国南宋時代の芬玉澗(ふんぎょくかん)という画僧が描いた山水図を元とするという珍しい様式の庭園なんだそうです。ヨチョル氏から4代100年を掛けて完成させたといわれています。「玉泉園」という名は永姫さんとの繋がりに因んだものでした。(西田家庭園となっているのは明治期に西田家の所有となったからです。)

玉泉寺
六斗の広見 ついでだから最後にもう一つだけ付け加えておきます。金沢市内には入り組んだ細い路地の中に突然道幅が広くなって広場のようになっているところがあります。これは「広見(ひろみ)」と呼ばれていて、司馬遼太郎さん風に表現するなら、加賀藩が創出した防火装置である、とでもなるでしょうか、つまり、火事のときに延焼をくい止めるために設けられた空間です。忍者寺として知られる妙立寺から南へ少し行った六斗(ろくと)というところにも「広見」が残っていて「六斗の広見」と呼ばれています。
 この「六斗の広見」に面して「泉野菅原神社」という天満宮と、金沢では唯一といわれる時宗寺院「玉泉寺」があります。このふたつは神仏習合時代にはひとつのお寺で、永姫さんがかつて夫の利長さんと暮らした高岡から勧請した「浄禅寺」というお寺でした。広大な寺域を誇ったといいます。永姫さんが亡くなったのちに「玉泉寺」と改称されたそうです。(現在の「泉野菅原神社」と「玉泉寺」はどちらも再建されたもので、こじんまりとして往時の面影はありません。写真は六斗の広見。右端の鳥居が「泉野菅原神社」で、「玉泉寺」はその左の木立の奥です。)


 永姫さんのお墓は野田山の前田家墓所の最上部にあります。(2016年12月5日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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