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佐保路シリーズ

秋篠寺 四角い顔の薬師様と泣き顔の帝釈様

 秋篠という名前には美しい響きがありますが、落ち着いた雰囲気と愁いを含んだ情緒が感じられて、日本的な趣を、でなければ気分を、一言で言い表しているような気がします。秋という文字が自然にそう思わせるみたいです。"自然に"というのは、説明あるいは理由の要らない、というほどのニュアンスです。


西大寺から秋篠寺へ
 西大寺から北へ15分足らず歩いたところに秋篠寺があります。西大寺を入って来たときと同じ東門から出て近鉄の踏切を渡り住宅地の中を通る道を北へ向かって歩きます。この道は押熊行のバスが通る道ですが、バスが走っているとは信じられないほどに道幅が狭く、その一番の難所かと思われる道が直角に曲がったところに、ずばり「秋篠寺」というバス停があって目の前が秋篠寺の東門です。門を入ればすぐに本堂で便利だから大概の人はこの東門から入ります。ぼくも40年前はバスで来て東門から入りましたが、今回は、こっちから行くのがいいよ、とミキオ君が言うので、テクテク歩いてきたバスの道を途中から外れて南門から入りました。なるほど、南門の辺りは秋篠の里と呼べないこともないかと思うような田舎風の景観で、こっちへまわったのは正解でした。ミキオ君はこの辺りを割とよく知っているらしく、家から自転車でよく来るんだ、と言ってちょっと得意気です。

本堂
 南門から入ると本堂までは地面を一面に覆う苔が美しい林の中の道を歩きます。木立に日差しが遮られ汗がすっかり引いていくのが気持ちよくも西大寺で着替えた半袖がちょっと寒いと感じながらしばらく進むと視界が開けて本堂が見えています。
 秋篠寺が建ったのは奈良時代の終わりで落慶は平安遷都の年だったといいます。平安末の兵火で伽藍が焼失し、鎌倉になって講堂の基壇の上に天平様式で建てられたのが現在の本堂だそうで国宝に指定されています。すっきりとして均整の取れた美しさが拝観者の心を落ち着かせてくれます。


薬師如来坐像
 秋篠寺で仏像と言えば伎芸天ですが、おいしいものはあとに取っておこう・・・じゃありませんが、先にほかの仏像を観ておきます。先ずは本堂のご本尊薬師三尊像です。中尊の薬師如来は左手に薬壺を載せた鎌倉時代後期の作で彩色を施さない白木の像ですが、ちょっとキツイ感じの四角い顔をしています。大きさは丈六の半分(1.5メートルほど)でしょうか。
 脇侍の日光・月光菩薩は制作時代が上がって平安時代初期で彩色の跡が残りますが、その像容から元は梵天・帝釈天像だったんだろうと言われています。日輪・月輪をかざしていますが、日光・月光らしく見せるために後から持たせたんでしょう。
 眷属の十二神将は高さ50センチほどと小振りですが、これも本尊と一具ではなく鎌倉時代末期の作です。ポーズや鎧の型が室生寺金堂の像によく似ていて、向こうは倍ほども大きいから、そのミニチュア版といったところです。左右に6体ずつを3体の二段にして並べていますが、昔観たときは同じように左右6体ずつながら2体の三段にしてあって、お雛様みたいに並べて・・・、と思ったのを憶えています。今の方が安定した感じでいいみたいです。脇侍、眷属が元からのメンバーではないお薬師様でした。

帝釈天像
 大きさで目立つのは伎芸天と対のようにして須弥壇の右に立つ帝釈天です。天平仏で伎芸天と様式も同じなら、鎌倉時代の補修まで同じです。すなわち、天平のオリジナルは乾漆の頭部だけで首から下は鎌倉の木彫を違和感なく上手に繋いでいます。そのうつむき加減の顔が心なし悲しそうで、いいんだ、ぼくなんか、と泣きべそをかいているようにも見えるのは、伎芸天のような人気はなく人々からじっくり観てはもらえないこととは無論無関係です。



 帝釈天の対と言えば本来は伎芸天ではなく梵天です。秋篠寺の梵天はどうしたんでしょう。須弥壇の上には見当たりませんが、失われたわけではありません。奈良博なら仏像館にあるのを三年前に観ました。しっかり色彩が残っていて、キリリとした顔でした。明治時代に奈良博に寄託されて一度も寺に帰っていないそうです。そうか、それでか、帝釈様は相方がいつまで経っても戻ってこないからそれで寂しくて泣いているのか。まさか、そんなわけが・・・、でも、いや、こどもじみた発想だけど、そういうことにしておきましょう。(2020年11月30日 メキラ・シンエモン)

 次回は佐保路の仏像巡りでの一番のお目当て、天平の美人、いや、時代を越えた美人、伎芸天を観ます。


写真:メキラ・シンエモン


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