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令和の響き


 元号が令和になりました。「おめでとうございます」と、みんな口々に言っています。平成の改元も経験しているから元号が新しくなるというのは、ただそれだけのことで・・・、と思っていたのが、この気分、この雰囲気はどうしたのだろう、そうかこういうことか元号が新しくなるというのは、これが日本なんだな、と少々の驚きと嬉しさがありました。というのは、平成のとき、ぼくは韓国で暮らしはじめたばかりの新婚ホヤホヤで、新元号も韓国語のニュースで知ったから、生涯に何度も経験できない、ひょっとしたら一度もないかもしれない、この日本史の瞬間を、あのときは肌で感じることがなかったんです。「令和」は生涯二度目の改元なのに初めての改元経験でした。

 これから当分の間、日本人は令和○年の何々と言って暮らすわけです。その「令和」を、ほとんどの人が良い元号だと言います。ぼくもそう思います。雅な響きがあって、なんとなく雰囲気が美しいし、どことなく気分も晴れやか。文字にはその表す意味がありますが、雰囲気や気分も表します。


 枕草子、御伽草子、浮世草子など、"草子"という文字が付く古典がありますが、なぜ"草子"なんでしょう・・・、なんてことを思うのは、ぼくだけかもしれません。いずれも散文文学ですが、枕草子は随筆で御伽草子は挿絵付物語、浮世草子は小説だから、"草子"は細かなジャンルを示すものではないのは確かです。草子は、元々は冊子(さうし)と書いたようです。草紙や双紙とも書くみたいですが、草子と書くのが、どことなく古典的雰囲気があって、なんとなく文学的気分も出て、微妙なバランスながら、なかなかのセンスに思えます。現代人が変に真似して、自分のブログに「○○草子」なんて名前を付けたら大変なことになります。つまり笑われる。

 ところで、徒然草は徒然草子ではないのはどうしてなんでしょう。徒然草は著者である兼好さんが付けた名前ではありません。いつものようにどうでもいいことを考えていますが、もし徒然草子と書いて「つれづれそうし」と読ませたとすると、あまりきれいな音ではないでしょう。(よーく練習しておいて)3回ほど続けて読むと、つれづれそうしつれづれそうしつれづれそうし、となって夏の終わりに出る蝉が鳴いているみたいです。だれがそんなもん3回も続けて読むんだよ、と言われそうですが、名付けた人は"子"を省略したんじゃなくて、むしろ"子"を書かないことにしたんだと思います。なぜ・・・。
 徒然草子じゃどうも気分が出ないしカッコ良くないね、そうだ徒然草がいいよ、ごっちゃ混ぜ文集の雰囲気がよく出るよ、つれづれ草ですか、はて、知りませんねぇ、そんな草、どうせ雑草かなんかなんでしょう、なんて言って植物の名前と勘違いする人がいるとも思えんしね、と都合よく決めつけて徒然草と名付けたんでしょう、たぶん。

 徒然草とくれば普通連想するのは方丈記ですが、これは"草子"ではなくて"記"になっています。昔から世間では随筆と言っていますが、どう読んでみても方丈記はルポルタージュでしょう。長明さんも、草子というのはちょっと照れくさい、記にしておこう、と思ったんじゃないでしょうか。徒然草と一緒にしてしまうことも多いようですが、小林秀雄は、方丈記は徒然草から一番遠い、と言いました。遠かろうが近かろうが、方丈記は雰囲気も気分もどうしようもなく、ただの"記"です。徒然草と一緒にはなりません。

 では、もうひとつ、徒然草ときてやっぱり普通に連想する枕草子はどうでしょう。互いによく引き合いに出されるから、これは一緒にしてもいいんじゃない、となるかというと、さあ、どうでしょう。ぼくらの知っている枕草子は「春はあけぼの」で、教科書に載っている枕草子ですが、それはほんの一部分1%だけ。本当の枕草子は全部で325段あるうちのかなりの段が一条天皇の中宮(皇后)定子のサロンを中心とした平安貴族社会のエピソード集です。女性の目で書いた女の世界だから、国文学をやっている先生や学生ならいざ知らず、男が読んでおもしろいと思うような内容の話はほとんどありません。昔の根暗な作家(たしか正宗白鳥だったかと)の源氏物語を評した言葉を真似して、有閑男女の痴呆生活の巧みな記録、と言うつもりは毛頭ないし、また、あの素晴らしい描写文、自分がそれを直(じか)に見ているような気にさせてしまう自然や情景の表現は凄まじくみごとですが、ぼくは、あの雰囲気はちょっと引いてしまいます。ちなみに、発想力(観察力、批判力)と表現力は別物だと、普通は考えるようですが、ぼくは別々に両者が成立するものではないと思っています。発想は表現をともなうもので、表現できないというのは頭になにも浮かんでいないからで、発想を表現できないというのはちょっとおかしいでしょう。一方の徒然草は男性の目で書いた男の世界だから、ぼくのような機械科人間(機械人間じゃありませんよ、一応ながら機械科を出ている人間という意味)でも、読んでみれば、所々おもしろい。というわけで、清少納言という女性はどうも好きになれない感じで、という個人的感情とは関係なく、枕草子は徒然草と一緒にはできないでしょう。

 もう5月だというのに、令和になったというのに、平成だったお正月からずっと徒然草を引きずっているようで、どうも具合よくありません。もうここいらで止めないと、機械科人間なんだし・・・。

 『「令和」の響き』なんていうもっともらしいタイトルだから、万葉集の歌でも出てくるのかと思ったかもしれませんが、新元号にはなんの関係もない話でした。ぼくのこの「通りがかりの者です」というホームページは、ずっと読んできた人はもう慣れていると思いますが、何事にも囚われない心でいないと、時々、ついていけなくなるので、読むには覚悟がいります。


 なにはともあれ、これから当分のあいだ日本は令和○年です。元号が新しくなると気分もどこかウキウキします。もうちょっと、2021年まで頑張ってくださったなら計算が楽だったんですが・・・なんていう、恐れ多いことを言うのは、日本のことをなにも解っていない在留外国人で、まあ、解れと要求するのは、猫に"お手"を教えようとするようなもんだから、到底無理と諦め、そういうのは放っといて、核兵器はないのに固有の元号があるなんて、日本人に生まれて、うん、本当に良かった。(2019年5月1日 メキラ・シンエモン)



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