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小惑星B612の小さな王子さま つづき

 「小さな王子さま」が映画化されているということは容易に想像できると思います。ぼくはパラマウントのミュージカル映画「星の王子さま」(原題THE LITTLE PRINCE 1974年)を映画館で見ています。バラ、キツネ、ヘビは本物の動物の映像と俳優が演じるシーンがうまく組み合わされていました。ヘビの役を有名なダンサーのボブ・フォッシーが演じてとてもカッコよかったし、キツネは当時の人気コメディアンだったジーン・ワイルダーが褐色のノーフォークジャケットなんか着て英国風のキツネでした。このキツネの演技が際立って良く印象的でしたが、映画ではキツネは王子さまに、たいせつなことは目には見えない、と口で言って教える代わりに、手紙にして渡していました。


 小惑星B612の小さな王子さまは、ただ一輪だけ咲いたバラのわがままに我慢ができなくなって地球にやってきます。キツネと出会った王子さまはさびしいから遊んでほしいと頼みますが、キツネは飼いならされていないから、と拒否してしまいます。王子さまが「飼いならす」ってなんのことなの、とキツネに尋ねると「絆をつくり出す」ことだよ、とキツネは教えます。でも王子さまには「絆をつくり出す」の意味がわかりませんでした。

お願い、ぼくを飼いならしてよ
 王子さまから「絆をつくり出す」の意味を訊かれたキツネは、今は互いに特に意味を持たない存在だけど、自分が飼いならされると互いにこの世でたったひとつの存在になる、と答えます。そしてキツネは、自分を飼いならしてくれたら自分のこの退屈な生活は光り輝くようになり、パンを食べない自分にとって小麦は役に立たないものだけど、王子さまの髪も小麦も金色だから麦畑は王子さまを思い出させてくれるし、麦畑を吹く風の音だって好きになる、と言います。そしてキツネはしばらく王子さまを見つめたあと、こう言います。「おねがい……ぼくを飼いならしてよ!」(山崎庸一郎訳)
 ところが王子さまは、そうしたいけど友達をみつけないといけないから、と断ってしまいます。するとキツネは、友達が欲しいならぼくを飼いならすことだね、と言います。そこで王子さまは、どうしたらいいの、と尋ねます。「辛抱強くなくちゃいけない」(山崎庸一郎訳)とキツネは答えます。これは経験からわかりますね、友情はふたりが時間をかけて育む努力が大切です。夫婦の間もそうですね・・・(しみじみ)。
 王子さまは次の日もキツネのところへ行きますが、それがきのうと違う時間だったのでキツネは、同じ時間に来てよ、不意に来られても心の準備ができないし、来る時間が決まっていれば、その時間が近くなると「もう、そわそわしたり、どきどきしたり。こうして幸福の味を知るんだよ!」(河野万里子訳)と言います。
 なるほどね、連続テレビ小説を見るときの気分でしょうか、それとも学校や職場で終わりの時間が近づいて来るときのあの感じ・・・、ちょっと違いますか。では、毎朝バスでいっしょになる子がいて、その子の乗ったバスが来るのを、時計を気にしながらバス停で待っているときのあの緊張感・・・でしょうか。とにかく、わくわくして待つ、気もそぞろな楽しい時間です。
 そしてキツネはこう言います。だから「ならわしって、大事なんだ」(河野万里子訳)と。それにたいして王子さまは「ならわしって、なに?」(河野万里子訳)と訊きます。
 この文脈で「ならわし」がどういう意味かはちょっとわかりにくいかもしれません。フランス語の原典はritesという言葉だそうで本来は宗教における祭儀、典礼をさすと山崎庸一郎訳の注釈にあります。その山崎さんの訳は「祭式」となっていて・・・、もっとわかりませんね。山崎さんの訳はたとえて言えば、チャコールグレーのウールのトラッドスーツにレジメンタルストライプのネクタイを締めYシャツの襟はカラーピンで押さえ黒のウイングチップを履いた感じで、一方の河野さんの訳は、胸ポケットにエンブレムをつけたネイビーブルーのフラノのブレザーの下はジーンズでボタンダウンの襟を開けてこげ茶のタッセルローファーでも履いている感じです。
 それはともかくこの「ならわし」は「習慣」と「約束ごと」のあいだぐらいの意味で、連続して流れていく時間の中になにか特別な時間を設けること、とでもいったところでしょうか・・・、王子さまが「ならわしって、なに?」(河野万里子訳)と訊くとキツネは「ある一日を、ほかの毎日とはちがうものにすること、あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること」(河野万里子訳)だと答えます。
 こうして王子さまはキツネを「飼いならし」ます。どっちが飼いならしているんだか・・・。でも、本当の友達関係というのは、どっちがどっちだかわからない上下前後左右のない関係です。

たいせつなことは目には見えない
 王子さまにとってキツネはこの世で一匹だけのかけがえのないキツネになっていましたが、やがて別れのときがきます。キツネが泣きそうなのを見て王子さまは、飼いならしてと言うからそうしたのに、いいことなかったじゃないか、と言います。するとキツネは、いいことあったよ、麦畑の色が、と反駁します。
 そしてキツネは王子さまがキツネに遭う前に立ち寄っていたバラ園へ行ってみるように勧めます。そのあと別れを言いに戻ってきたら秘密を教えるから、と言い添えて。
 キツネに遭うまえ、王子さまはバラがたくさん咲いているのを見て、自分の星だけにある花だと思っていたバラがありきたりの花だと知り落胆していました。王子さまはキツネに言われたとおりに再びバラ園に行きたくさんのバラを見ます。そして自分が星に残してきたバラが自分だけの特別なバラだったことを覚ります。
 (ここでちょっと問題が・・・というのは、キツネは王子さまが自分と遭うまえにバラ園に行っていたことを知らないはずです。そういう話は書いてありませんから。そもそも王子さまはキツネに、花が一輪あってね、と言っていますが、その花がバラだとは言っていないのです。あるいはキツネがこういうこと言うんだから書いてないだけで話していたということでしょうか。でもこんなことに拘るのはおとなのすることだから、どうでもよいこととして無視することにします。)
 そして戻ってきた王子さまにキツネは言います。
「じゃ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目には見えない」(河野万里子訳)
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」(河野万里子訳)
「きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ、きみは、きみのバラに、責任がある……」(河野万里子訳)
 すると、王子さまはキツネの言葉を心に刻むように、いちばんたいせつなことは目には見えない、(それは)ぼくがバラのために費やした時間、(だから)ぼくはぼくのバラに責任がある、とくり返し言います。王子さまが、いちばんたいせつなことは目には見えない心のつながりだ、と気づいた瞬間です。

 このあと砂漠の井戸のエピソードがあり、「たいせつなことは目には見えない」が繰り返されます。そして、パイロットが飛行機の修理を終えた日、その日が地球に来てちょうど1年になる王子さまは真上に来た自分の星に帰って行きました。

おおいなる神秘
 パイロットはそのあともずっと小さな王子さまのことを思います。ヒツジがバラを食べないように口輪を描いてやったけど、しまった紐を描くのを忘れた、あれじゃヒツジに口輪を着けられないからバラは食べられてしまうんじゃないだろうか、でも夜はガラスケースを被せているんだしヒツジをしっかり見張っていればだいじょうぶだろう、と喜んだかと思うと、でもガラスケースを忘れることもあるかもしれない・・・と泣きそうになります。
 そして、この名前を明かさないパイロットは、
「ここにこそ、おおいなる神秘がある。小さな王子さまが大好きなきみたちにとっても、僕にとっても、誰も知らないどこかで、僕らの知らないヒツジが、バラを一輪食べたか食べないかで、世界のなにもかもが、すっかり変わってしまうのだから……
空をみあげてほしい。そしてこうたずねてみてほしい。<あのヒツジはあの花を、食べたかな、食べていないかな?>するとなにもかもが変わって見えるのが、きみたちにもわかるだろう……」(河野万里子訳)
とぼくらに話しかけます。まあ、おとなにはわからないことだけどね・・・と付け加えて。
 心でつながるなら、どうでも良いことが大切なことになる、難しいこと言うもんです。こんな表現ではこどもにはわからないんじゃないのかな。でも、おとなになるまでこの言葉を覚えている子がいたら、その子がおとなになったとき読み返し、きっとなんのことだかわかるでしょうね。こどものころ読んでいつかおとなになって読み返す、やっぱりこの物語はこども向けなんだと思います。


 真夏のよく晴れた日の夜、覆い被さってくるような星空を見上げるとき、五億の星が笑うなら、サン=テグジュペリのメッセージは、きっとあなたに届いたんだと思います。
 えっ、分かったような顔してなんだか気取っているみたいだけど、そういうあなた自身はどうなの、って言うんですね。ぼくは、・・・、金沢は夏でも曇りの日が多くて・・・。(2017年8月10日 メキラ・シンエモン)


これでは物足りないと思ったおとなのみなさんへの言い訳
 「小さな王子さま」は、意味不明な、不合理な、説明不足なところが余りに多いからか、それを考えずには読んだ気がしない物語です。それでも、王子さまとパイロットはサン=テグジュペリの分身、バラはサン=テグジュペリの妻あるいはドイツ占領下のフランス、大人になったパイロットがこども時代の自分と対話する、パイロットが遭難した砂漠で見た幻、現代文明への風刺と批判、自伝的物語、サン=テグジュペリの遺書、といった普通言われているような見方から距離を置いて読んだのは、たいせつなメッセージを薄めてしまいそうだったからです。同じ理由で、22章からの「砂漠の井戸のエピソード」はこの物語のクライマックスでもっとも感動する場面があるものの、象徴あるいは比喩的な表現が多いのと、もうこの世の物語ではない気がして触れませんでした。もちろんこれは言い訳だから、本当はあまりよくわかっていないからそうしたという本音も49%ほどあります。(メキラ・シンエモン)



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