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本屋が消える
JR奈良駅近くにあった新風堂書店という老夫婦が切り盛りする本屋が去年12月で50年の歴史に幕を閉じた、と先日テレビの報道番組で聞いた。ぼくが奈良市法華寺町の航空自衛隊幹部候補生学校に入ったのは46年前の1980年のことだがこの本屋は知らなかった。絵本や図鑑などの児童図書を中心に扱う地域密着型の本屋だったらしい。惜しまれての閉店だったそうだが閉店理由のひとつに売り上げの減少があったという。
奈良で本屋と言えば近鉄奈良駅を行基像のある方から地上に出て東向商店街を抜けて三条通に出ると突き当りに駸々堂があったのを覚えている。間口は狭く奥に細長い小さな店だった。奈良は京都大阪へ近鉄で簡単に行けるからか本屋の少ないところだ。
そんなぼくは街から本屋が消えていくというのは由々しきことだと思っている。身近に本屋がなければ本への関心は薄れるだろう。みんなが本を読まなくなるのは良くない。読まないんじゃなくて印刷物で読まなくなっただけだ、パソコンやスマホの液晶画面で読んでいる、かさばらないし思い付いたらどこでもすぐに読めるしなにかと便利だから、という人がいたら、そうだろうか、いや、そうかもしれない。それが要求あるいは欲求への満足という問題なのならそういうことになるのかもしれない。それなら本屋で売っている印刷物でしかそれが満たされないとしたらみんな本を買うということになるしネット上にはない新刊は本屋で買うしかない。しかし本は売れていない。近ごろ出る本は面白くないから本が売れないのだなどと言うつもりはないが本屋で買ってまで読もうとは思わないということはあるだろう。いや、パソコンやスマホで読むというが数分で読める短文ならいざ知らず本当に本を読んでいるのだろか。
ぼくは本を読むという行為は知識を得たり物語を楽しんだりというだけの意味を持つのではないと思っている。読解力云々というようなまた理解力云々というような根拠のない理屈の話ではない。読む端から消える言葉は聞く端から消える言葉と同じでかき氷のごとくその場限りのお祭りのようなものだ。お祭りが終ればすっきり忘れている。心にはなにも残らない。徒然草の第138段は、余韻を楽しむ名残を惜しむ、ということを書いていてぼくはそういう気分が好きだ。インターネットの世界にそれはない。本のなかにはそれがある。液晶画面にへばりつきGoogle検索と生成AIに頼って本を読まない人はそのうち液晶画面のような薄っぺらい人になる。ちょっと待った、その話はちょっと意味が解らない、そもそも、インターネットのホームページに“自分以外にあまり関係のないつまらぬ事”を書いている読書の習慣がないと公言するあなたが言うことではないだろう、と糾弾されればぼくに反駁する言葉の用意はない。
11年前、若いころのようにまた仏像巡りがしたくなって35年ぶりに訪れた奈良は三条通から駸々堂が消えていた(2000年に倒産)。近鉄奈良駅のあたりは昔の記憶のままに思えたがJR奈良駅も三条通もまったく知らない場所のようで奈良の気分がなくなっていた。特にJR奈良駅のあたりは再開発あるいは再整備が成った近ごろの日本の地方都市によくある冷たく寂しい風景に見えた。 2026年1月12日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)