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佐保路シリーズII

般若寺 コスモス寺の文殊菩薩と十三重石宝塔

 女鬼の面を般若と呼ぶのは一説にはある能面師が創作に行き詰まり仏の知恵を授かりたいと般若坊と名乗ったことに由来するといいます。般若は仏教で知恵を意味する言葉です。仏像ファンなら般若と聞いて般若心経を連想するのではないかと思います。いやいやいや、仏像ファンなら連想するのは般若寺でしょう。般若寺は今回の行き先ですよ。そうなんですけど・・・、ここは般若心経ということにしてください。そうしないと次にうまくつながらないので・・・。
 般若心経は観自在菩薩(観音様)が般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)という物事の本質を見抜く力を高める行をしている時に感得した宇宙の根本原理すなわちすべてのものが存在することの本質的意味を舎利子(しゃりし:釈迦の弟子)に語るという形で説かれる大乗仏教の経典です。般若心経の超有名フレーズ「色即是空 空即是色」について、物質的現象というものは、すべて実体がないことである、およそ実体がないということは、物質的現象なのである、と岩波文庫の解説は書いています。ぼくらの経験しうることはすべて実体がない、つまりこの現実世界は仮想されたものバーチャルだというのです。それでいいのか間違いなのかよく解らないと思います。言葉が少なすぎるから解らないのか、結論だけ言うから解らないのか、いずれにしても直観に依る理解だから数学のような証明は不可能かつ不要あるいは無意味です。すなわち正解があるようでないないようであるのです。どう解釈しようと本人が納得するならそれは正しい。だからなのかどうしてなのか、ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか、と呪文を唱えて般若心経は終わります。般若とはそういうことです。


般若寺坂
 転害門から般若寺へは国道を歩いていきます。距離は1キロちょっとですが道は京都へと抜ける奈良坂という坂道でこちらからは登り坂になります。同じ道を5年まえに当尾へ行ったときはバスで通りました。あのときはいろいろあってハラハラもしたけど楽しかった・・・。奈良坂は般若寺坂とも呼ばれていてはじめ緩やかだった勾配が進むにつれだんだんに急になってきて、転害門横の奈良市きたまち転害門観光案内所で休んでせっかく引いた汗がまた額ににじみはじめます。奈良交通の観光バスが何台も連なって坂を下りて来てぼくらの横を通り過ぎていきました。窓越しにこっちを見ていたのはこどもたち。五月は中学校の修学旅行シーズンです。もうそろそろかと思いはじめるとピタリ、前方に般若寺という信号が見えています。ここいらで道を向こう側へ渡っておこうかと信号を待っているあいだに登って来た道を振り返れば、左下に大仏殿の大きな屋根が見えていました。

コスモス寺
 般若寺の創建は飛鳥時代で朝鮮半島からの渡来僧によるといいます。奈良時代になって聖武天皇がこの寺が都の鬼門にあたるため地中に大般若経を埋めたことで般若寺と呼ばれるようになりました。ではその前はなんという名前だったのか、拝観料と引き換えにもらうパンフレットにも書いてありません。そののち今日の一番に行ってきた不退寺同様に衰退しますが、鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって復興され真言律宗の寺になりました。これもまた不退寺と同じ。今回の佐保路仏像巡りPART2でネグった海龍王寺もやはり叡尊が復興しています。佐保路は西大寺というより叡尊の勢力圏だったみたいです。叡尊は文殊信仰を持ち社会福祉活動に熱心だったそうです。
 明治になって般若寺も廃仏毀釈の影響で荒れはじめてついには廃寺同然にまでになったそうです。それが勢いを取り戻したのは戦後もだいぶ経ってからのことで、境内でコスモスの栽培をはじめてからでした。昭和40年ごろ住職さんが境内でどこかから飛んできた種が芽を出したコスモスを見つけて参拝に来た人たちに楽しんでもらおうとコスモスを増やすことを考え付いたんだそうです。いつしかコスモスが評判となり今ではコスモス寺として親しまれています。門の前には不釣り合いなほど大きな駐車場がありました。コスモスを観に来る参拝者のための駐車場です。コスモスといえば秋ですがこの日境内にはヤグルマギクなどに混じってコスモスがまばらに咲いていました。実はうちの庭にもコスモスが植えてあって、今、ピンクの花が一輪だけですが咲いています。初夏に咲くコスモスを夏コスモスというそうです。
 本堂の前などに金魚鉢みたいなガラスの器にアジサイの花を入れ水に浸けたアジサイガラスボールなる飾がいくつも並べてありました。アジサイは本物のようですがどこから持ってきたんでしょう、去年のアジサイ。きれいですがぼくはお寺でこういうのを見るのはあまり好きではありません。来月になるとアジサイが咲き境内は参拝者で賑わうようですが、今日はぼくらを含め数人です。ミキオ君はおととしコスモスシーズン盛りの10月に来ていたから、今日は人いなくていい、とつぶやいています。静かな境内をゆっくり観てまわれます。

般若寺 本堂 般若寺 三十三観音石仏

十三重石宝塔
 般若寺の主な伽藍は本堂と経蔵、それに楼門です。石造物は十三重の石塔と一対の笠付き石塔婆、それと三十三観音の石仏があります。このうち楼門は国宝です。ちょっと驚きでしょう。廃寺同然に荒れていた時期がある寺の楼門が国宝ですよ。叡尊による鎌倉復興期のものだといいます。今日は門が閉じていて残念でした。開いていれば外にまわって門越しに境内を眺められたのに・・・。
 十三重の石塔は重要文化財でその高さ14メートルを超えるなかなか立派なものです。十三重石宝塔と寺では言っていますが寺のシンボル的な存在感があります。石塔の初層四面には四方仏として薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の各如来の坐像が線刻で描かれています。この石塔の作者は分かっていて伊行末という宋から来た石工でした。この名前どこかで見たような気がします。般若寺坂を越えた先は京都の木津、当尾です。当尾の石仏中の最高傑作ミロクの辻の弥勒如来磨崖仏とわらい仏とも呼ばれる岩船阿弥陀三尊磨崖仏の作者が伊末行でした。同じだと思った名前はよく見ると同じではありません。そうです、下の名前の字が逆です。それに般若寺の石塔は鎌倉時代、当尾の石仏は南北朝時代から室町時代にかけて作られています。当尾の石仏作家伊末行(いのすえゆき)は般若寺石塔の作者伊行末(いぎょうまつ)の子孫でした。行末は帰化したんでしょうね、名前の読みが末行では日本人の名前になっています。

般若寺 十三重石宝塔 左に小さく楼門が見えています 十三重石宝塔の四方仏 釈迦如来

本尊文殊菩薩騎獅像
 本堂に入ると拝観者はもちろんぼくらのほかにはだれもいません。お寺の人がひとりいました。こんにちは、と挨拶すると向こうも、こんにちは、と普通に返します。ぼくらだけだからゆっくりご本尊文殊菩薩騎獅像を拝みます。この文殊様は渡海文殊ではないので善財童子などの侍者は従えていません。パンフレットには八字文殊菩薩騎獅像と書いてあります。定番の獅子に載った姿ですが髪を髻(もとどり)が八つもある八髻(はっけい)に結っています。だから八字文殊(はちじもんじゅ)なんでしょう。ヘアースタイルはかわいいんですが顔はキリリと引き締まっていて青年の凛々しさが感じられます。彫刻も精密です。そのせいか台座を除いた像高45センチほどで小振りですがどこか高貴な威厳があります。納得のいく重要文化財です。ミキオ君に、この文殊さんは前に見ているはずだよ、と言うと、はて、という顔です。おととし来ているから言っているのではありません。それはミキオ君もわかっています。あべのハルカスで西大寺展のとき、と付け加えると、そうそう見た、こいつ見た、と思い出したようでした。ミキオ君は心とは裏腹に言葉が乱暴になるときがあります。たいていは照れ隠しで今のもたぶんそうです。
 この文殊菩薩像は鎌倉時代の作ですが、元からの般若寺の本尊ではなくはじめは経蔵の秘仏だったそうです。戦国時代に金堂が焼け本尊も焼失します。金堂を江戸時代に本堂として再建したとき本尊として経蔵の秘仏を移したのでした。叡尊の復興で祀られた本尊も文殊菩薩騎獅像だったそうですが丈六だったというから像高だけで3メートル近かったはずで安倍文殊院の文殊菩薩像のような感じだったのかもしれません。


 本堂の外へ出て三十三観音の石仏を観ながら裏へまわります。境内はそれほどきれいではありません。どこか雑然としていて肥料の袋が積んであります。本堂の裏に行くとベンチとテーブルがありました。ぼくは座って、ちょっとお腹が空いたね、と言うとミキオ君が、食べるものないよ、と抗議します。あるよ、とぼくが反駁すると、チョコパイか、とぼくが新大宮のセブンイレブンで買ったのを思い出したようでした。ふたつ入りだから一個ずつです。ああ、おおいしい、久しぶりに食べる、とミキオ君は嬉しそうです。ぼくも満足。
 目の前に門があってその向こうに建物があります。建物は宝蔵館でした。おととしの秋にも来ていたミキオ君はそのとき宝蔵館を見学していました。でも今日は閉まっています。チョコパイを食べ終わったころ門から作業服姿のお年寄りが出てきました。そこに積んであった肥料を一輪車に積んでいます。この人が住職さんなんでしょうか。積み終わると楽しそうな顔で一輪車を押して行きました。飛鳥時代から続く古刹の住職が境内で偶然見つけたコスモスを育て増やす・・・、これこそが般若です。(2022年6月5日 メキラ・シンエモン)


次は東大寺戒壇院の千手堂へ行きます。


写真:メキラ・シンエモン


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