補 足   道の駅

手取川と扇状地

 手取川(てどりがわ)は、全国有数の急流だと道の駅の展示パネルにあります。こう書くと、まさか、手取川がそんなに急流かな、と思う人もいるでしょう。ぼくも展示パネルを見た時はそう思いました。ところが、ここ道の駅の展望室から手取川を見ると納得できます。
 展望室から手取川を見ると、ちょうどこの辺りを境に上流はしだいに川幅が狭くなって、やがて渓谷になり、反対に下流は川幅がだんだんに広くなって、両岸は土手になっているのが分かります。つまり、川の全長に対して緩やかな流れの部分は短いということになりますから、川全体としてみれば確かに急流です。ぼくがはじめにそんなに急流かなと思ったのは、頭にあった印象としての手取川が、ここよりずっと下流の川幅も広い辺りで、豪雨の後などで増水した時以外は石ころだらけの手取川だったからでした。

手取川と加賀平野  道の駅のある辺りから下流は扇状地、即ち加賀平野が広がっていて、穀倉地帯になっているわけですが、ずっと昔はそうでもなかったようです。そのことが司馬遼太郎さんの残された作品の中に、ちょっと出てきます。
 司馬遼太郎さんという作家は、わが石川県にはさほど関心を持たれなかった方のようですね。少なくとも石川という土地は小説の題材を提供するという点において、主人公に立てれるような魅力的な人物を出すこともなく、日本史の中で眠っていたような土地だ、と思っておられたのではないでしょうか。その司馬さんが亡くなられたことで未完に終わった「この国のかたち」(文芸春秋に連載中でした)に、穀倉地帯としての加賀平野の成立に関することを書いておられる回があります。もっとも、主題は「鉄」についてなのですが。
 それによると、平安時代には「海岸に砂丘がつらなり、当時は潟や、河川の氾濫のあとの沼沢にヨシやアシが茂っていた」そうです。それを水田にするには、大規模な灌漑工事が必要だったわけですが、当時は色々と理由があって、できなかったみたいですね。で、それが可能になったのは、時代が下って、十四五世紀頃、鉄製の鋤鍬が安く買えるようになってからのことだったそうです。ところが、それをやったのは富樫などの筋目の武士ではなく、地侍や庶民によって開かれたということです。
 司馬さんによれば、その辺の事情が一向一揆へとつながるということのようですが、それはともかく、今見ているような手取川とその扇状地の基本の姿は、室町時代に作られた人工のものだと言えそうです。(メキラ・シンエモン)


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