補 足   白山本地堂の下山仏

林西寺

林西寺 明治初年の神仏分離で白山から引き下ろされ、溶かされて鍋や洗面器にされていたかも知れない、下山仏の命を救ったのは、その当時の林西寺の住職、可性法師でした。白山本宮(白山比盗_社)にあった仏像は金沢や松任のお寺に移されたといいますが、山頂や登山道にあった石仏はことごとくその場で破壊されたといいますから、下山仏を救うのは簡単なことではなかったようです。
 林西寺は真宗大谷派のお寺ですが、非常に古いお寺で元は天台宗のお寺だったそうです。このお寺の開基はパンフレットによると、泰澄大師(たいちょうだいし)になっています。なっています、というのは、郷土史関係の本などにはまるっきり別のことが書いてあって、林西寺は泰澄大師とは縁が無い、となっているからです。それらによると、藤原仲麻呂(706−764)が落ちのびて開いたとなっています。恵美押勝と書いてある本もありますが、藤原仲麻呂の別名が恵美押勝でした。
 藤原仲麻呂という人は奈良時代に光明皇后の寵愛を受けて権勢をふるった人で、光明皇后が亡くなると、道鏡(〜772)相手に天皇と上皇の争いも絡んだ権力闘争を展開し、結局、敗れて近江で殺されています。ですから、実際、藤原仲麻呂が白峰まで落ちのびて来たという気遣いはなさそうです。
 藤原仲麻呂は聡明な人だったようですし、別に悪い政治をしたということもなさそうですから、開基が藤原仲麻呂でも良さそうに思うのですが、パンフレットに泰澄大師の開基としているのは、藤原仲麻呂の開基は歴史的事実に反すると考えたからかも知れませんが、やはり、白山麓の寺社=泰澄大師の開基というイメージが一般的なためなんでしょう。勿論、こんなこと、300円払って見せてもらった立場でお寺の人に聞けるわけないので、これはあくまでも勝手な想像です。
 そんなことよりも、幕末明治初期の林西寺の住職さんのお蔭で、現代の我々が珍しい仏像を拝することができ、往時を偲ぶことができるのは、有り難いことだということを強調しておきたいと思います。(メキラ・シンエモン)


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