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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

鈴木大拙 禅と日本文化

 比叡山延暦寺に居士林というところがあります。居士というのは仏教でいう在家信者のことで、居士林は居士が出家の修行を体験するための場所です。航空自衛隊の幹部候補生だったとき、2泊3日でこの居士林へ教育訓練のひとつとして行ったことがあります。空自の幹部候補生学校は奈良にあって延暦寺は近いので、こういう体験もさせてもらえるのです。そのとき、休憩時間の雑談だったと思いますが、地位のありそうな坊さんから、こんな話を聞きました。修行僧は修行中に何か見たとき指導役の坊さんにそれを報告しないといけないが、その話の内容から修行の正否がわかる、というんです。そこで、なにが見えるんですかと訊いてみると、それが言えないんだ、だれにも話してはいけない、修行僧どうしのあいだでも話してはいけない、話せないけど修行がある段階にくると確かに見えるものがあるんだ、と言われました。修行して見えるものというのは、どうも決まった言葉で表現できるものではないようだと思ったのでした。


外人さんに人気の鈴木大拙館
 昨年だったと思います。ある海外の旅行サイトに日本で外国人に人気だった美術館・博物館のランキングというのがあって、その第8位に金沢の鈴木大拙館が入っているという話を聞きました。ちなみに第1位は広島平和記念資料館で、長崎原爆資料館は第9位だったそうです。なぜ鈴木大拙館が外国人に人気なのかといえば、鈴木大拙さんには欧米人向けに英語で書いた「禅と日本文化」という本があって、それを読んだ人たちが訪れているらしく、周囲を池に囲まれた「思索空間」という建物で、静かに坐禅をしているといいます。となると「禅と日本文化」がどんな本なのか気になるところですが、外人さんに禅が分かるの、なんてつぶやいてはいけません。昔、大拙さんに同じことを言った学生さんがいて「あなたには分かるんですか」と逆襲されたそうです。

仏教哲学者 鈴木大拙
 大拙さんは明治3年、加賀藩筆頭家老本多家の侍医だった家に生まれました。家の宗旨は臨済宗だったそうで、自身が修行したのも鎌倉の円覚寺(臨済宗)でした。仏教を世界に紹介した仏教哲学者です。と普通には言われていますが、「禅と日本文化」を読んでいると、禅とはなにかということを哲学者あるいは宗教学者が解説しているようには、ぼくには読めなくて、大拙さんはどうも学者の匂いがしないような気がします。否定的に言っているんじゃないんです。
 こういう類の本、つまり宗教を解説する本というのは歴史的事実はああだこうだとやったり、古今東西の哲学者の難しい理屈を持ち出して、この教えはこの理論に当て嵌るとかいったことをやっているわけで、理屈に合わないことが出てくると、それは妄想だと言ったり、無理やりなにかと結び付けてその影響を訴えたりするんだから、そういうのは信仰抜きじゃないと到底できません。ぼくはそんな本を読むたびに、ここに書いてあることはもっともなことのようで、これを書いた偉い学者さんは神様や仏様には詳しいんだろうけど、天国や極楽浄土からは一番遠い人なんじゃないかな、といつも思います。そこへいくと大拙さんは確かに偉い学者さんですが、どうも信仰をしっかり抱えたままで解説をやっていたように思えます。

禅と日本文化
 禅の教えは「不立文字(ふりゅうもんじ:言葉に頼らない)」といいます。この意味を大拙さんは、禅は科学ではない、科学は抽象的なものだが禅は具体的なものだ、だから禅は理論ではなく体験によってのみ伝えられるもので、言葉では表せないものだというのです。こう言っておきながら本にするなんて・・・、変ですよね。そこで絵画、茶道、武士、剣術、俳句など様々な日本的なものを禅との関わりにおいて、具体的な例を挙げて紹介することで、禅とは何かを説明しました。ぼくは読んだ印象として、絵画、茶道、武士、剣術、俳句などの日本文化と禅の関わりというのは、それが禅の影響なのか、それとも禅が影響を受けたのか、どっちだろう、ということをちょっと思ってしまいました。

 普通、日本文化と言っているものの起源は、日本の中世、室町時代にあるといいますが、そのころの日本では、貴族は天台・真言の密教、武士は臨済・曹洞の禅宗、庶民は浄土真宗などの浄土教を、主に信仰したのでした。それらの仏教は大乗仏教ですが、大乗仏教はお釈迦様の教えを次々に拡大解釈して積み重ねていったもので、その拡大解釈によって書かれた最初の経典が般若心経などの般若経で、最終段階の経典が法華経なんだそうです。日本の仏教はこの法華経が中心だと言われています。だから日本の仏教というのは、元々の仏教とはずいぶんと違ったものになっているといいます。さらに、大乗仏教はヒンドゥー教の要素がふんだんに入っていると聞けば、えっ、となるような話ですね。詳しくは知りませんが、そういうことみたいです。
 それで禅の立ち位置はというと、大乗仏教では六波羅蜜というの基本修行のなかのひとつの禅定が禅で、ほとんどの宗派が禅を行うそうです。元々の仏教では輪廻から抜け出すこと、あるいはその状態をいう涅槃に、禅は自力でいたる手段だといいます。

「わび」「さび」
 絵画、茶道、武士、剣術、俳句などの日本文化に禅の影響がみられるというのは、禅が盛んになった時代が鎌倉時代から室町時代という日本文化と言われるものが成立した時代と重なったからでしょう。日本文化を象徴することばに「わび」「さび」がありますが、大拙さんは「わび」「さび」は日本文化そのものだとしています。
 そこで「わび」「さび」というのはなんなのか。いかにも禅っぽい響きがあるように聞こえる言葉ですが、ものさびしい、ものしずか、みすぼらしい、という辞書的説明はしっくりこないみたいです。その雰囲気が日本人の心を、しんみりさせるなにかを感じさせるある状態または状況、あるいは風景または情景を表現して言う言葉ですが、なにか具体的に例を挙げないとわかりませんね。
 大拙さんも「わび」「さび」を言うのにいろいろ苦労しているみたいで、「わび」の雰囲気の説明としてソローの丸太小屋を持ち出しています。ソローという人は今年が生誕200年に当たるアメリカ人の反骨な思想家で、遁世者のような自然保護運動の先駆者のような人でした。「ウォールデン 森の生活」という本があって、丸太小屋というのはそこに出てくるソローが住んだちっちゃな家(実際はレンガと漆喰の造り)のことで、自給自足の質素な生活が禅と似ていると大拙さんは考えたようです。ちょっと違うような気もしますが、欧米人向けの説明にはうってつけだと思ったんでしょう。
 また定家、芭蕉などを例に引いていますが、英語でどうやってわからせようとしたんでしょう。詩は言葉を選び文の順序を決め音の響きまで整えて書くわけで、まして和歌や俳句というのは雰囲気の文学だから、散文的意味が正しくても訳したことにはならないでしょう。「わび」「さび」をいうならなおのことです。英語訳は困難だったはずです。さらに漢詩も登場するし日本史の詳細な知識がないとわからないようなことも出てくるから、欧米人にわからせるのは難しかったに違いありません。(いや、日本人だって同じです。)

 ところで素朴な疑問というか、また否定的なことを言うようですが、「わび」「さび」が栄西さんや道元さんの頭のなかにあったんでしょうか。栄西さんの臨済宗は公案つまり禅問答を中心にした理屈っぽい禅で、道元さんの曹洞宗はひたすら壁に向かって座れという禅ですから、どっちも「わび」「さび」とはなんの関係も、少なくとも1次的影響としては、ないだろうとぼくには思えます。どうなんでしょう。(ちなみに栄西は普通「えいさい」と読みますが、臨済宗では「ようさい」と読むんだそうです。本家本元が「ようさい」と読むのなら、一般にもその読み方をさせればよいのに、禅って本当にわかりませんね。)

 大拙さんは日本文化と日本の禅の関係を豊富な知識と深淵な考察で巧みに解説していますが、そこに挙げられた多くの例から、共通するものを言葉で考えようとすればするほどわからなくなります。ぼくは禅そのものなのか、そのらしさなのかもわからないままに感じるものが、禅の気分や雰囲気に当たるのだろうかと思うばかりです。(いろいろ偉そうに書いておいて、それだけなの。そう、これだけです。)


 鈴木大拙館を訪れる外人さんたちが日本での貴重な滞在時間を贅沢に費やしてまで坐禅をする理由は、きっと「禅と日本文化」の著者ゆかりの地で参禅することに意義を感じているからでしょうね。「思索空間」で参禅を終えた外人さんに、禅とはなんですか、と訊いてみたらなんと答えるでしょう。無言で周囲にめぐらされた池を指さすかも知れません。えっ、ぼくですか、おまえならどう答えるんだ、というんですね。ハイ、禅とは味噌汁です。―喝―。(2017年3月23日 メキラ・シンエモン)


追記

禅と坐禅 曹洞宗の場合
 今年1月のいつだったか、雪が降る寒い日でした。家の郵便受けに「禅のこころ 第153号 平成30年1月」というリーフレットが入っていました。見ると大乗寺の発行です。大乗寺は金沢市の南東部、野田山の中腹にある曹洞宗の古刹です。開山は永平寺3世の徹通義介(てっつうぎかい)禅師で、永平寺、総持寺に次ぐくらいのかなり格式の高いお寺です。ぼくの家から近く、除夜の鐘がはっきり聞こえます。そこの雲水さんたちは厳寒の1月、市内へ托鉢に出ます。雲水というのは、禅宗で修行僧をそう呼びますが、この托鉢行は金沢の冬の風物詩になっています。うちにも托鉢にきたみたいで、ところが、だれもいなかったんでしょうね、せっかくだからリーフレットだけでもと郵便受けに入れていったようです。それには、「釈迦?禅と瞑想?」と題してこんなことが書いてありました。

 『現代用語の基礎知識』創刊70周年号(自由国民社刊)を購読した。
 ・・・中略・・・
 禅は「心の散乱を防ぎ、精神を統一させた三昧(さんまい)の境地に住するためにヨーガ、禅定といった修行法が工夫され」「仏教もこれを取り入れ」「深い生きた真理体験は坐禅によってのみ得られる」とし、栄西禅師、道元禅師らの「禅仏教」は「この伝統」に立つとしるしている。
 しかし、たとえば道元禅師には「禅」という表現は少ない、圧倒的に「坐禅」が多い。結論をさきにいうと、禅や瞑想は坐禅ではない。私は、この点について、これまで、あちこちで解説してきている。
 実地に仏教を学ばず、正師について坐禅などしたこともない連中が、わかったようなことを書いて読者を誑かす罪は大きいだろう。

 つまり、世間一般には禅と坐禅を区別していないようだけど、禅は坐禅ではないよ、というんです。曹洞宗(道元禅師)はね、と断っていますが、坐禅は瞑想するもんじゃないと言っています。書いたのは大乗寺山主となっていました。たぶらかす罪は大きいだなんて、あんたら狐か狸みたいなもんだよと言っているような厳しい言い様から、いくら言っても世間は解ってくれんよ、という訴えるような無念さと焦りのようなものが伝わってきますが、たしかに、みんなが思っている坐禅とは違っています。大乗寺の一番偉いお坊さんがそう言うんだから、だれにも反駁の余地はありませんが、なんだかむしろすっきりする言葉にも思えます。詳しく聞きたいところですが・・・、ならば坐禅しなさい、そうすれば解ります、是非是非そうしなさい、今用意させますから、おーいだれか座布団を用意してきなさい、ささっ、どうぞ、どーぞ、・・・なんてことになりそうだから止めときます。(2018年3月9日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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