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近ごろは金澤と書くのがはやりです ―金沢らしさの風景―

金沢の冬と前田家

 表日本と裏日本。耳慣れない言葉ですね。でも、40年ほど前までは普通に使われていました。これは、表の日本と裏の日本、つまり日本社会の明るい面と暗い面のことを言ったのかと思うと、そうではありません。太平洋側を表、日本海側を裏と対比して言った言葉です。日本海側を裏日本と言ったのは、首都がある方が表なら反対側は裏だという程度の理屈ですが、日本海側は雲に覆われた暗い日が多く、冬は雪も多い寒いところで、なにかと遅れている地域だという意味もありました。差別的で侮蔑した言い方だから、日本海側の人は、大きなお世話だ、と自分たちから使うことはありませんでした。


沖縄の友人
雪の金沢城公園 高校の同級生に今も家族ぐるみの付き合いがある親友がいます。すこぶる優秀で、創業者が金沢出身の大手玩具メーカーが中国に建てた製造工場の責任者などをして、最近まで向こうで暮らしていたのが日本に戻ってきて、去年の夏ごろから那覇で暮らしています。帰国して住んでいるのが金沢ではなくて沖縄なのは、親友が言うには、中国人で福建省の生まれの奥さんも自分も寒がりだからというのが理由です。つまり、金沢は寒いから嫌だと。
 いくら寒いのが苦手でも、なにも沖縄まで行って暮らすことはないのにという気がしますが、ふたりがそう決めたほどに、金沢の冬は寒いのかといえば・・・、あるいはそうとも言えます。ぼくの韓国人の女房は、毎年冬が来るたびに寒い寒いと言っています。金沢って韓国より寒いのかと思うかもしれませんが、そんなわけはなく、気温は韓国の方がずっと低く冬は普通に最高気温が氷点下です。
 それなのに女房が寒いというのは、寒さの種類が違うということらしく、それは、どこで寒さを感じているのか、ということに関係しているようです。ぼくは韓国で4年暮らしましたが、韓国の寒さは顔の皮膚がピーンと張るような感じで、でもそれがからだの芯まで伝わってくることはなく、皮膚でだけ感じる寒さでした。それに比べ金沢の寒さは、底冷えがするとよく言いますが、首筋から入った湿った冷気が背中を伝って下りていき、からだの芯でというより、微妙な言い回しになりますが、「心の芯」でゾクッとする寒さです。でも、この場合、比べるのなら韓国とじゃなくて、日本のほかの地域と比べるべきでしたね。(写真は雪の金沢城公園。)

太平洋側の冬
 ぼくは高校を卒業したあと金沢を離れ、韓国まで含めると他郷で20年ほど暮らしました。その半分は太平洋側でした。太平洋側で暮らした最初は、東京の大学に入ったときで、その初めての冬、暖かいんだろうと思っていたらやっぱり寒い、なのに雪は降らない、雷が鳴らないのは良い、でもこれが冬だろうか、それに水はおいしくないし地震が多くて鼻毛もよく伸びる、と東京の透明感のない乾いた空気のなか、金沢とはまるで逆の雲のない高い空を見上げて思ったのでした。そして雪が降ると、ぼくらから見れば無いに等しい数センチの積雪なのに、人は滑って転び車がスリップして動けないのを見て、なんだか裏日本と呼ばれることの敵を取ったような気がしておかしかったものです。人の困難を見ておかしがるなんて暗い性格ですね。暗い性格というのは気候由来じゃなくて、どう扱われてきたかということが関わっているみたいです。

 大学を卒業して奈良にある航空自衛隊の幹部候補生学校に部外幹部候補生(一般大卒の幹部候補生のこと)として入りました。仏像ファンだったからそこにしたというわけじゃありません。が、考えなかったわけでもなく、試験を受ける前から、入ればいつでも仏像を観に行けるぞと思っていたのは確かで、奈良にいるあいだ週末はお寺ばっかり行っていました。そんなことより奈良の冬はといえば、金沢とたいして変わらぬ寒さでしたが、雪はほとんど降らないところのようだと思っていたら、その年は年明けに大雪となりました。(奈良に航空自衛隊の基地があるんですよ。知らなかったという人も多いと思いますが、法華寺や海竜王寺の近くで、ウワナベ、コナベというふたつの大きな前方後円墳に挟まれています。)

 11ヶ月が過ぎた2月末、幹部候補生学校が修了となり、任地の希望を聞かれることもなく、日本海側にある航空団の整備補給群修理隊エンジン小隊に配属となりました。でも、幹部候補生学校を出たなりじゃなんの仕事もできないから、1ヶ月ほどして3等空尉(軍隊の階級で言えば空軍少尉)に任官し、浜松にある第1術科学校の初級整備幹部課程というコースに入りました。また教育部隊です。期間はここも11ヶ月でした。2年ほどはほとんど戦力になっていないのに給料が出て、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていたわけです。
 ご飯と言えば、浜松に行ったその日の食事にウナギが出て、さすが浜松だね、予想はしていたけど、さっそくご対面とは・・・、とほかのみんなと一緒に喜んだら、厚みがまったくない平べったい貧弱なウナギに、あるかないかというほどわずかなタレがかかっていて、こんなんでもウナギはウナギだ、月に1回ぐらいは食べさせてもらえるんだろう、と前向きに考え、ありがたくいただきましたが、修了までにウナギを食べたのはこの一回だけで・・・、というようなどうでもよいことは置いといて、浜松の冬はどうだったかというと、やっぱり寒いのは同じで、でも毎日良い天気で、雪は2月に一度ちらついただけでした。なるほどサッカーが盛んで、楽器やオートバイを製造するし、みかんがよく生ればウナギもよく育つわけです。

 それから2年ほど経った2等空尉のときに、思うところがあって自衛隊を辞め、再び東京に出て5年ほどいました。こんなことで何年も太平洋側で暮らした経験から言うと、太平洋側の冬は、空は晴れわたり日中は気温が上がるものの、金沢よりはっきり暖かいと感じることはありませんでした。金沢が寒いというのは、雪や雨が降らない日でも曇っているからで、先にも書いたように「心の芯」で感じる寒さだからと言ってもよいようです。

北陸か四国か 利常さんの決断
 ところで、表題は「金沢の冬と前田家」となっているのに、一向に前田家が出てきませんね。金沢の冬の寒さについて、しつこくあれこれ書いていたからですが、ここでようやく前田家登場です。尾張出身の加賀藩前田家の皆さんは、領国が北陸で良かったと思っていたんでしょうか。つまり、元々天気が良くて雪も少ないところの人たちが、灰色の雲に覆われた低い空の下で春まで雪に閉ざされて暮らす金沢の冬を、暗いし寒いし雪も多くて嫌だとは思っていなかったのかなという素朴な疑問です。それを、いつもの感じで「通りがかり」風に考えるわけですが、でもこんな話、退屈かもしれませんね。いいえ、もう十分退屈させていただいております、ウナギまで出してもらってね。・・・、・・・続けます。

 加賀藩3代藩主前田利常さんは、初代利家さんの四男で側室が産んだ子でしたが、2代利長さんにこどもがいなかったので、その養子となって13歳で藩主の座に就きました。その利常さんの初陣は大坂冬の陣でした。もっともこれは徳川からの要請ではなかったといい、保身からの自主参戦だったようです。で、冬の陣では徳川軍の先頭を切って大坂城を攻めたんですが、それがあの真田丸で・・・、つまり、真田幸村にコテンパンにやられた徳川軍というのは、利常さんの前田勢でした。初陣での大敗。ショックだったでしょうね。その半年後、夏の陣にはリベンジを懸けてまた参戦し、こんどは大坂城に攻め込む大活躍をし汚名を雪ぎました。このとき徳川から、ご褒美として加賀能登越中と四国全部をとっかえてやってもいいけど・・・どうする、と言われたという話があるんだそうです。これは家康さん、あるいは秀忠さんの単なる気まぐれだったのか、それともそんな穏やかなことではなかったのか。国替えを言われて利常さんはどうしたんでしょう。

 利常さん自身は金沢生まれで、お姉さんの幸さん(幸さんは利家さんの長女で、母親はまつさん)夫婦に育てられた、生まれながらの「金沢の人」でしたが、人質を交代して金沢に戻っていた芳春院さん(利家さんの正室まつさん)、夫の利長さんが亡くなってやはり金沢に帰っていた玉泉院さん(利長さんの正室の永姫さん)をはじめとしたご婦人方や、利家さん以来の功臣老臣の方々を含めた前田家の皆さんは尾張の生まれだったから、この話を聞いて、やったー、冬は寒くて雪の多い北陸より、暖かくて雪も降らない四国の方が住みやすい、とチラリとでも思ったんじゃないかなと思います。でも、利常さんはそんなのんきなことを思うことは、絶対になかったでしょうね。利常さんは徳川が移封を持ち出す意図はなにかと考えたはずです。これは親切かな、そんなはずはない、きっとなにか裏があるんだろう、ならば、言われるままにした方が良いか、いや、辞退しておいた方が謙虚に見えて無難かもしれない、と迷ったかもしれません。あるいは、父上と兄上が苦労して獲得した加賀能登越中を守るべきだ、と迷わず辞退を決めたかもしれません。

 そのへんのところを書いた古文書でも残っているんでしょうが、それを調べてみようなんていう殊勝な心はぼくにはないし、あったとしても古文書なんて読めるわけありません。また、ぼくでも読める程度の、利常さんについて詳しく書いてある本、たとえば「加賀繁盛記 資料で読む藩主たちの攻防」(山本博文、NHK出版)には、この移封の話は出てこないから、ほかの難題に比べれば極めて瑣末なことだったんでしょうね。そんなことで詳細を知らないことをいいことに、こんな想像をしてみるわけです。
 結局、利常さんは移封を辞退したのでした。ついでに、もっと想像を膨らませると、断る以上、幕府が四国転封を力尽くで強要してきたその時は、一戦やってやろうじゃないか、江戸にはお袋さん(利常さんの実母の寿福院さん)がいるし、愛する嫁の珠ちゃんは秀忠の娘だけど、オレは前田利家の息子だぞ、くらいの覚悟は利常さんも、弱冠22歳でしたが、したかもしれません。いや、利口な利常さんのことだから、辞退してもいくさにはならないと踏んでいたことでしょうね。

 いずれにしても、利常さんが金沢にとどまったのは正解でした。前田家はそのあと明治維新まで金沢で120万石を保って存続します。でも、家臣も含めた前田家の皆さんは、寒くて雪の多い金沢の冬は、やっぱり、嫌だったんじゃないのかな。あのとき利常さんが四国にしておいてくれればなぁと思ったことはなかったんでしょうか。それとも、4代藩主光高さん(利常さんと珠姫さんの長男)以降の前田家の皆さんはみんな「金沢の人」で、しかも金沢は京大坂から文化人がこぞってやってくる、江戸、京都、大坂に次ぐ日本屈指の大都市となって繁栄していたから、金沢の冬の暗さも寒さも雪も、関係ないことになっていたんでしょうか。金沢は日本海側にあっても、けっして裏日本ではありませんでした。


 明治になって公爵となった前田家は金沢を離れ、東京に移住しました。それは明治新政府の政策でした。金沢市の市章は漢字の金の文字を図案化して、前田家の家紋の梅を模った枠で囲ったデザインです。それは前田の殿様が再び金沢に戻ってきてほしいという願いを込めて制定されたものだったそうです。でも、二度と戻ってくることはありませんでした。(2017年2月26日 メキラ・シンエモン)

写真:メキラ・シンエモン


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