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鈴木大拙 即非の論理

 手に持ったリンゴの手を離すとどうなる、と訊かれたら、なんでそんなわかりきったこと訊くの、と一瞬躊躇しても素直なあなたは、下に落ちるんじゃない、と答えるでしょうね。さらに、どうして落ちるの、と訊かれたら、それは引力が・・・重力があるからでしょ、とあなたは言うでしょう。では、重力ってなに、と突っ込まれると、なにって・・・そう学校で習ったから、とあなたがいくら素直でもちょっとムッとするかもしれません。
 リンゴが落ちるのは、リンゴより地球の方が比較にならないくらい圧倒的に質量が大きいから地球によって曲げられた空間をリンゴが動く(アインシュタイン方程式)ということだそうです。これは一般相対性理論のことなんですが、そんな理屈、ぼくも含めた99.9999%の人には理解できませんよね。その相対性理論もさらに上の理論が将来見つかるかもしれません。リンゴが下に落ちるとぼくらが知っているのは、手を離せば間違いなく下に落ちたという、これまでの経験・体験から知っているのであって、重力がとか相対性理論がとかいった話ではないのです。


即非の論理
 大拙さんは「禅と日本文化」のなかで「多即一、一即多」が仏教における根本義だと書いて念入りに説明しています。「多即一、一即多」は事実の直感的または体験的理解と言って良く、般若心経で言えば「色即是空、空即是色」にあたる、と言っています。禅の話になんで般若心経が出てくるのかというと、日本の仏教では浄土教を除いてほとんどの宗派で般若心経を読むそうですが、特に密教と禅宗では重要視しているといいます。
 そこで、このだれでも一度は聞いたことがある「色即是空、空即是色」というフレーズですが、般若心経のなかで観自在菩薩(かんじざいぼさつ、観音様)が、十大弟子のひとりで知恵第一と言われる舎利子(しゃりし、舎利弗、シャーリプトラ)に語ることばで、岩波文庫「般若心経 金剛般若経」の現代語訳はこうなっています。

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質現象で(ありえるので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。

 つまり、存在するあらゆるものには実体がなく、実体がないから存在する、と言っています。なんとなくわかるような、よくわからないような、実体がないから存在するってどういうこと、といった感じの話です。ハル9000に聞かせたら、きっと反乱を起こします。(ハル9000は、ご存知「2001年 宇宙の旅」に出てくる宇宙船ディスカバリー号の人工知能。)
 そこで、「禅と日本文化」の「多即一、一即多」が書いてある章の著者注をみると、

禅経験の論理とでもいうべきものは、般若経の「諸心皆為非心、是名為心」で、これを要約して「即非の論理」としておく。つまり『心は心にあらざるが故に心なり』で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。自分はこれを禅の論理というのである。『即非』はまた『無分別の分別』、『無意識の意識』でもある。

と書いてあります。
 有名な「即非の論理」が出できましたが、注釈の方も本文に負けずよくわかりません。「否定がすなわち肯定で」というのは、ぼくは中学生のとき、好きな女の子にわざと意地悪をしてみせましたが、その子もあんたなんか嫌いよと言いながらなにかにつけてぼくの気を引いていたという、そういうのとは・・・やっぱりちがうんでしょうけど・・・、「無分別の分別」だなんて、これが家庭ごみなら完璧にルール違反で、見つかって叱られるか、違反シールを貼られてしまって絶対に持って行ってもらえません。(なんで家庭ごみの話になるのよ。関係ありませんでしたね。)
 とにかくこれではやっぱりよくわからないので、般若心経よりもうちょっと字数の多い金剛般若経を試しに読んでみると、たとえば、お釈迦様から、宇宙の大地の塵は多いか、と尋ねられた須菩提(すぼだい:スプーティ。舎利子とおなじ十大弟子のひとり。)は、こう答えます。

「師よ、それは多いですとも。・・・、それはなぜかと言うと、『如来によって説かれた大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ<世界>と言われるのです。」(岩波文庫「般若心経 金剛般若経」の現代語訳)

 こういう調子でおなじ形式の話がたくさん出てきます。ヒゲじい(ダーウィンが来た!)なら、ちょっと待った、ますますわからないじゃないですか、翻訳がどこか間違っているんじゃないですかね、と言いそうなくらい、やっぱりなんのことかわかりませんね。
 これが大拙さんの「即非の論理」で、普通は「AはAではないからAである」ということだ、という説明がされています。でも、それって、模式化しただけで説明になっていませんよね。あるいは「即非の論理」とは西田幾多郎哲学の基本「絶対矛盾的自己同一」と同じだ、とする意見もあるようですが、ますますわかりませんね。わからないことをわからない言葉で説明されてもどうしようもありません。

 そこで「即非の論理」の「即」とはどういう意味か、「非」とはどういう意味か、です。特に「即」の表すものはなにか、です。「否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。」という文脈から言って「非」は「異なる」の意味ですが、「即」は「ただちに」の意味ではなくて「すなわち(等しい)」の意味です。数学的に表せば「即」は等号「=」で「非」は否定等号「≠」です
 すると「否定がすなわち肯定で」というのは、つまり「即非の論理」とは微妙な言い回しになりますが「否定することが肯定すること」あるいは「否定できるから肯定できる」ではなくて、「否定することも肯定することも同じこと」というのが大拙さんの考えた理屈なんじゃないかと思います。言い換えると「『AはAである』、しかし『AはAではない』も正しい、どちらも正しい、それがAです」というのが「即非の論理」の意味になるのではないかなと思います。


 いずれにしても、大乗仏教のお釈迦様の教えというのは、万物が存在するということはどういうことか、ということを解説している、ということだろうかと想像はつきます。そういうことなら、自然科学では、生物学と物理学が、それぞれにそれを担当しています。そしてそれは、実体のないものから実体のあるものができていることで、この宇宙にあるすべてのものは存在している、と言っています。(生物の体を造っているタンパク質はDNAに乗っている遺伝子というコードで複製されます。また、エネルギーと質量は同じものだといいます。)お釈迦様も、きっと自然科学者のように、自分ってなんなんだろうというところから出発して、最後に般若経の論理に辿り着いた、ということなんでしょうか。もっとも般若経の話は拡大解釈で、お釈迦様は直接は言っていないんだそうです。(そんなことまで、岩波新書1冊と岩波文庫1冊を読んだくらいで、言っちゃっていいの。さあ、どうでしょう、でも、こういう話ってみんな好き勝手にバラバラのことを言っているから、別にいいんじゃないの。)

物質と反物質
 ここで突然ですが、四つ前の「恐竜を見に行く」でちょっと紹介した「ニュートリノ」という素粒子物理学の一般向けに書かれた本に、それ以上分割できない究極の物質単位だという素粒子は、生成するときに対生成といってまったく同じものがもうひとつ同時に生れきて、ただ同じといっても互いに電荷(電気の+と−)が逆転していて、普通とは逆の電荷のほうを反粒子というと書いてあります。で、この反粒子を粒子の反物質と呼んでいます。このふたつは互いに電荷が逆だから打ち消し合うので、対消滅といってすぐに消えてなくなります。つまり対生成と対消滅はセットなわけですが、宇宙が誕生して間もない、まだ十分に温度が高かったころに起きたことだといいます。
 生成してすぐに消滅するって、それが宇宙の誕生したときに起きたというのなら、それじゃなんにも残らなかったことになるんじゃない、ぼくらも存在していないよ、ということになりますが、実際には宇宙に普通の物質はたくさんあるわけです。一方の反物質はほとんどないようだといいます。それはどうしてか、ということを説明できる理屈を考えたのが、それでノーベル物理学賞をもらった小林誠さんと益川敏英さんでした。

 それはともかく、素粒子の反物質である反粒子ですが、例えば電子はニュートリノと同じレプトンという種類に分類される素粒子で、その反粒子は陽電子(電子は元々マイナスだから反粒子はプラスになるので陽電子)といいます。ところがニュートリノは電荷がゼロでその反粒子の反ニュートリノも電荷はゼロです。だから電荷の逆転がないわけですが、代わりにスピンの方向が逆になっているといいます。どういうことかというと、素粒子はスピン、すなわち地球みたいに自転していて、その回転の向きには右巻きと左巻きがありますが、どっち向きに回るかは自由で、例えば電子にも陽電子にも右巻きと左巻きの両方があって、どっち向きかは特に決まっていません。それがニュートリノは全部左巻きで、反ニュートリノは全部右巻きになっているということです。
 でもこれは、左巻きをニュートリノ、右巻きを反ニュートリノ、と言っているだけで、ニュートリノには反粒子が存在しない、正確にはニュートリノの反粒子は自分自身ということかもしれない、というんです。反粒子は自分自身という素粒子をマヨラナ粒子と呼んでいます。ニュートリノがなにかという説明はこの際あまり関係ないので省きます。(巧いこと言って、本当はよく知らないんでしょう。ばれましたか。)

 ちょっとわかり難い話ですが、おもしろいと思うのは、ニュートリノの反粒子は自分自身だというのなら、それは反対のものどうしが同一のものということだから「反ニュートリノ(否定)がすなわちニュートリノ(肯定)で、反ニュートリノ(否定)とニュートリノ(肯定)とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。」ということになりそうです。それでいいのなら、マヨラナ粒子ってなんとなく「即非の論理」っぽい素粒子だと思いませんか。
 そこへいくと、マヨラナ粒子ではない普通の素粒子では、反粒子は電荷が逆というはっきり違うところがあるんだから、「即非の論理」っぽいとは言えそうにありません。が、でもよく考えてみると反粒子は自分自身だというマヨラナ粒子は否定とか肯定とかということとは関係ないと言ってもよいかもしれず、逆に反粒子が明確な普通の素粒子の方が、もっとはっきり「即非の論理」っぽい気がします。
 つまり粒子と反粒子が対生成するというのはなにかが異なっているふたつのものが生まれてくるわけですが、それがただちに打ち消し合ってふたつとも消えてしまう対消滅するのは、対生成するふたつのものが異なっているところはあっても、結局は同じものだから、そういうことが起きると言えます。そうすると「『AはAである』、しかし『AはAではない』も正しい、どちらも正しい、それがAです」ということが、素粒子について言えるのではないかと・・・。

 この反物質があるというのは素粒子だけの話じゃなくて、原子核の中身、陽子と中性子(ふたつ合わせて核子といいます)にも反陽子と反中性子という反物質があります。原子はクォークという種類の素粒子(アップクォークとダウンクォーク)が結びついてできている核子(陽子と中性子)で構成されている原子核と、レプトンという種類の素粒子である電子から成り立っています。原子が結合して分子となるということはだれでも知っています。ということは、この宇宙に存在するものはすべて「即非の論理」っぽいものなのかもしれません。

 こんなことを考えてみると「即非の論理」は、大拙さんが素粒子を知っていたはずはないから、大拙さんの直覚が導いて宇宙そのものの根本原理を言った、ということなのかもしれません。そうすると「即非の論理」が「禅の論理」だというのなら、禅ってどういうことになるんでしょう、宇宙そのものということでしょうか。(一般向けの科学啓蒙本1冊読んでそんなことまで言っちゃ、そりゃ飛躍しすぎた空想だよ。ぼくもそうかなという気がする。)


 前回と今回はわけのわからない話になりました。禅という言葉に頼らないことをテーマにしてしまったことで、こうなってしまいましたが、ぼくらはみんな、いろんなことを知っていても、本当は直覚と経験だけがすべてなのかもしれません。禅もまたそういうことなのかもしれません。喝!!(メキラ・シンエモン2017年3月24日  2018年4月16日加筆)



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